人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

今日をもって

2006年05月31日 | ただの雑談
あるフリーメールがサービスを終える。
自分がよく使っていたし、人にも薦めてきたフリメだ。色々と思い出深い便りが交わされた気がする。
その最期に対する手向け的な感慨は、別にない。

人はいつだって現在を真剣に生きているだけだとぼくは思います。
歴史とは、現在からみた過去です。「過去の出来事」をジャッジするのが歴史。だとするなら、歴史をほど個人の主観に頼るものは無いと思います。
美術や芸術といった「形のある過去の文化」は時代を超えて今にその姿をそのまま伝えてくれます。その意味で文化とは生きた歴史です。誰がなんと言おうと、その姿は何時何者の目の前にも同じ姿をたたえている。そこには本来個人の主観に基づくジャッジはほとんど存在しない。それらしいものが存在したとしても、「流行」みたいなチンケな括りで掃いて棄てられると思いたい。

人が後世に残すもの。それは人の営みそのものしかない。
「●●さんは~でした」という、ある人に関する伝承的な出来事は、後の誰かの脚色が横行しがちな気がしてならない。後からどうとでも言えてしまうのです。
だから、たとえどんな評価をもらうにしても、「自らが自らを形にしたもの」こそ、真の歴史たりえると思います。

ぼくが自分の死体を晒し骨として残したいのは、名も無きいち市民の生きた証として、ぼくの望みの象徴を自らのボディに託したいから。こんな時代だから、こんなものが残った。身は体を表す。所詮いくらぼくがワールドカップをウザがる天邪鬼的な要素を持った人物であったとしても、21世紀を生きる現代人という括りからは逃れようがない。

ぼくが語った言葉であるメールやこのウェブログのような下らない文章は消えてなくなったほうが良い。「その時ぼくが真面目であった」ことのみを伝えるという崇高で儚い役目を終えたこのようなツールは、後世に何の価値も伝えない。今消えるのが理想なのだ。何故ならこの時代を象徴するべき優れた「文化作品的つぶやき」が他にいくらでもあるからだ。

リアルに残るのはぼくの骨だけで良い。1000の言葉より、ぼくの骨1本の方が多くを語るはずだ。

ということで某メールサービスよ、さようなら。
バックアップはぼくの記憶の中にだけ。

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