岡城
大分県竹田市
荒城の月
春高楼の花の宴
巡る盃かげさして
千代の松が枝わけ出でし
昔の光いまいずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし
昔の光いまいずこ
いま荒城の夜半の月
かわらぬ光たがためぞ
垣に残るはたた葛
松に歌うはただ嵐
天井影は替らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼荒城の夜半の月
この「荒城の月」は、 土井晩翠が作詞。
明治31年に東京音楽学校が、中学校の唱歌で「荒城の月」のテーマで、土井晩翠に詩を依頼。
彼は会津若松の鶴ヶ城と、故郷の青葉城をイメージに作詞。
明治34年に滝廉太郎が、子供の頃過ごした大分県竹田市にある荒廃した岡城をイメージして作曲したと言われています。
廃藩置県の影響で、沢山のお城がとりこわされてしまったのは、残念です。
鉄筋で立て替えられたお城ではなく、当時のままのお城が残っていたら・・・。
でも、もしそうだったら、この歌は生まれてなかったんですね。
滝廉太郎、21歳の時のこの歌を作曲。
滝廉太郎は、15歳で東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学。
本科を卒業後、研究科に進みます。
ドイツ留学中に発病し、23歳10ヶ月の若さで亡くなりました。
彼は、「荒城の月」を作曲した年に沢山の作品をてがけています。
♪箱根の山は天下の険 の「箱根八里」
♪春のうららの隅田川 の「花」
♪もういくつ寝るとお正月の 「お正月」
等など。
才能あふれる若者。
今の医学だったら助かっていたのかもしれませんが。
惜しいな~と、今日は、秋にそまった岡城を歩きながら、そんなことを考えました。
追記 (興味のある方はお読みください)
司馬遼太郎 「明治という国家」より抜粋
明治四年の廃藩置県によって当時家族を含めると百九十万人
の士族階級が一夜にして職を失い崩壊しました。時の明治政府
は士族の心の拠りどころであり、また象徴である城に彼らが立
てこもって反抗されては、ということで全国二百七十余藩の城を
次々と取り壊していきました。土井晩翠は旧制仙台二高の学生
のときおとずれた、会津若松鶴ケ城の荒廃に深い感慨を覚え、
瀧廉太郎は中学生のころよく遊んだ岡城に思いを馳せたといい
ます。「荒城の月」は二人の芸術家の想念があいまって生んだ
廃藩置県への挽歌、悼歌、鎮魂の歌ではないか。
今日の私の小さな幸せ
深まりゆく秋を感じてきました。
私の好きな大相撲も始まりました。