阪急電車 片道15分の奇跡
2011年/日本
視線の先の存在について
総合 70点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
‘ローカル電車を舞台としたハートフル群雄劇’に細かなことを指摘しても仕方がないのかもしれないが、ちょっと工夫するだけで更に良いものになったはずだと思うことは多々あって、例えばこの『阪急電車 片道15分の奇跡』に関して言うならば‘視線の先’が妙に気になった。
純白のドレスを着たまま結婚式の帰りに阪急電車に乗っている高瀬翔子を目ざとく見つける萩原亜美を諌める萩原時江は、翔子を隣に座らせてしばらく談笑することになるが、時江の隣で外の景色を眺めたまま、全く翔子の方を振り向かない亜美の視線には違和感があるし、時江に勧められて小林駅で下車し、お辞儀をしている翔子を気にすることもないまま、お辞儀を返すこともせず、亜美に靴を履かせる時江の行動も不自然であるだろう。
しかし不自然に見えないこともある。腹痛を訴えて、森岡ミサに付き添われて下車する伊藤康江が、胃薬を持っているということをミサに告げると、ミサは呆れたような素振りでその場を立ち去ってしまう。しかし康江が胃薬をカバンから取り出して水が無いことに気づいた時に、水を持ってミサが現れる。これは正確を期するならば康江はミサが自動販売機に水を買いに行っているところを見ているはずなのであるが、演出上のテクニックとしては正しいと思う。
ここで問題となることは視線の先にあるものが画面内に映りこんでいるかいないかなのであり、その程度のこと配慮するかしないかだけで作品の質が全く変わってしまうのであるから、惜しいと思う次第である。
それにしても『プリンセス トヨトミ』と『阪急電車 片道15分の奇跡』を続けて観てしまうと、大阪のオバチャン集団は周囲に視線を向けることもなく、周囲の視線を気にかけることもなく、余程、質が悪いのだろうと警戒してしまうが、本当にそのような認識を日本国民全員が共有してしまっていいのであろうか? 両作品ともに東宝・フジテレビ系列なのが気になるが。
“笑都”大阪の民放テレビで消えた漫才番組 (産経新聞) - goo ニュース
大阪の漫才は間違いなく横山やすし・西川きよしによってレベルが大幅にアップしたと
思うが、それだけ観客の漫才を見る目も上がっていると思う。つまり民放テレビにおいて
レギュラーの漫才番組がなくなっているのだとするならば、横山やすし・西川きよしの漫才を
凌駕するような漫才コンビが現れていないということであろう。だから「エンタの神様」という
番組はその差別化をはかるために、若手の漫才を編集で1分ほどに短くしたり、客席の笑い
声を加え、テロップでセリフを表示したりして“テレビ的加工”をしたのである。勿論純粋に
漫才が好きだという人は劇場に赴くわけであるが、漫才でテレビのレギュラーを得ようと
するならば、既成の漫才を壊すような天才の出現を待つしかないと思う。