トロン:レガシー 3D
2010年/アメリカ
青の叙事詩
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
『ロビン・フッド』(リドリー・スコット監督 2010年)で完全に欠落していたものが『トロン:レガシー』に描かれている。『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督 1982年)や『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督 1977年)などのシーンが織り込まれているが、やはり一番影響を受けている作品は、物語の‘人間 vs. グリッド’という構図が‘人間 vs. パンドラ’と相似している『アバター』(ジェームズ・キャメロン監督 2009年)であり、ロゴなどは文字が違うだけでデザインは瓜二つと言ってもいい。
しかし『トロン:レガシー』が『アバター』のような単純なニューエイジ思想による善悪2原論に陥ってはいない理由は、主人公のサム・フリンが高層ビルの屋上から飛び下りたり、上空からライトで照らされた後に拘束されたりと、現実世界にいてもコンピューター内部の世界にいても同じような目に遭うために二つの世界の差が感じられないためであろう。
差が感じられるとするならば、実は同一人物であるはずのサムの父親のケヴィン・フリンとクルーである。20年前、ケヴィン・フリンはグリッドを完璧に築き上げるために自分の複製のクルーを作るが、歳を取るに従って若いままのクルーと意見が合わなくなってしまう。いつまでも若さに任せて理想を追い続けるクルーは老いて気力を失ったケヴィンを閉じ込めてしまい、まるでヒトラーのごとく完璧さを求めて傍若無人振りを発揮する。しかしケヴィンはただ老いてしまっただけなのだろうか? 気力を失ったというよりもケヴィンは自分の理想に疑問を持ち始めていたのである。20年後に息子のサムが大人になって彼の目の前に現れたことは偶然とは言えない。ケヴィンは自分が抱いていた理想が正しいのかどうか検証してもらうために後世に委ねたのである。だからケヴィンは、ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)のような冒険小説が好きなクオラと共にサムを現実世界に逃したはずで、それが意味することはサムもいずれ自分の抱いている理想の検証を子供に委ねろというケヴィンの暗黙のメッセージであろう。ラストでサムがクオラに見せる現実世界の朝日が意外とくすんでいた理由は、そのような‘諦念’を暗示しており、この‘諦念’と画面の‘青さ’が相まって観客に静かな感動をもたらす。
このように‘奥行き’に関して言うならば3D画面と同様に物語も奥が深いのであるが、この傑作であるはずの作品の物語の余りの奥深さに、観客に奥深いことを気付かれない可能性が大いにあることを危惧してしまう。
石原都知事「私は間違っていました」 自著を指摘され(産経新聞) - goo ニュース
石原慎太郎は昭和47年発行の自著「真実の性教育」に「いかなる書物も子供を
犯罪や非行に教唆することはない」と書いていることに関して「変態を是認する
みたいな著書はあの頃あんまりなかった。私は間違っていました」と釈明している
のであるが、それならば今回の過激な性描写のある漫画の販売などを規制する
改正都青少年健全育成条例の施行も遅かれ早かれ「携帯サイトで閲覧するような
ことはあんまりなかった。私は間違っていました」とでも釈明するつもりなのかも
しれないが、携帯サイトは既にいっぱいあり、多くの中高生が利用しているのだから
今度ばかりはそのような釈明はできない。つまり今回の条例はただ表現の質の低下
にしか貢献しないことになるのである。石原は本当に自身には甘すぎる。