特集:ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2009
-年/-
‘反戦映画’再考
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
ダニエル・ユイレ亡き後のジャン=マリー・ストローブの作風が感傷的過ぎるという意見は一理あるとは言え、だからと言ってストローブ監督の作品の質が落ちたわけではなく、そもそも‘ストローブ=ユイレ’作品の質の善し悪しは監督以上に観客に委ねられているはずなのである。
現時点で観ることができるストローブ監督の2009年の最新作『魔女ー女だけで』にしても『おお至高の光』にしても、相変わらずのミニマルかつ厳密に計算され尽くしたカメラワークを見せるのであるが、ここでは『コルネイユ=ブレヒト(Corneille - Brecht)』に関して感想を記しておきたい。
『コルネイユ=ブレヒト』は「ローマ、私が恨む唯一のもの」という副題を持ち、コルネリア・ガイサーが最初にベランダに立ってコルネイユの「オラース」第4幕第5場と「オトン」の短い一節を読んだ後に、室内でブレヒトのラジオ劇「ルクルスの審問」を読む。上映時間26分の作品が、テキストはそのままヴァージョンを変えて3回続けて上映される。
コルネイユの作品において、アウグストゥス、ティべリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロというローマ帝国の5人の皇帝の名前が挙げられて、ローマを没落させた元凶として非難される。ブレヒトの作品においてはローマの将軍であったルクルスが死後に審判を受ける様子が描かれている。ルクルスはラカレスと名前を読み間違えられたり、53の都市を得た自分のローマにおける功績を証明してもらうためにマケドニアのアレクサンダー大王を証人として呼んでもらおうとするのであるが、死後においては名声などは何の意味もなさないために、アレクサンダーの所在も分らない。事実、ルクルスを審問する人たちも高級娼婦、パン屋、魚売りの女、農夫、料理番など肩書だけで名前が無い。ルクルスはフリーズ(浮彫りの石碑)で自分の実績を証明しようとする。
魚売りの女はファーベルという名前の自分の息子を探しているのであるが、そこの門番にファーブルという名前の男はたくさんいると言われる。更に門番に、軍隊の隊列に加わる時には役に立った名前でも軍隊に入れば必要としなくなり、母親が息子を戦争に委ねた後は息子たちは母親たちに会いたいという気持ちを無くしてしまうと言われてしまった魚売りの女は、ファーブルを探すことを止めてしまう。
善し悪しは別にしてもローマ皇帝たちの名前はいまだに現代の人々に口にされるにも関わらず、ローマの将軍辺りから名前があやふやになり、市井の人々に至っては全く名前が分からなくなり、憎悪のみならず愛情も見失ってしまうという、コルネイユとブレヒトのテキストの繋げ方が絶妙である。
『コルネイユ=ブレヒト』を一度観ただけでは一人で複数の人物のダイアローグを語っているために上手く物語を把握することは難しいが、二度、三度と同じテキストを聞かされると語り方の違いでキャラクターが分かるようになる。つまり‘同じ’テキストの‘違い’が分かるのであり、いつものようにテキストの選択も、それに見合った演出も正に‘奇跡’としか言いようがない。
『コルネイユ=ブレヒト』も『レバノン』(サミュエル・マオス監督)も2009年の‘反戦映画’である。その地味さと派手さは歴然としているのであるが、どちらが人々の胸を打つのかというならば、やはり‘真実’を映し出している『レバノン』という現実は私にはどうしようもない。
ヤマダ電機、満足度ランク最下位訴訟で敗訴(読売新聞) - goo ニュース
自身の女性問題や賭けゴルフに関する週刊誌記事で名誉を傷つけられたとして
新潮社を訴えたものの、逆に裁判所から記事の信憑性は高いという“御墨付”を
賜ってしまったのは民主党の横峯良郎参議院議員であったが、ヤマダ電気も同じ
ような辛酸を嘗めることになった。最初からアンケートの結果を真摯に受け止めて
アフターサービスの向上に努めるというコメントを出しておけば、逆にイメージの
向上に繋がったはずなのに、このように裁判が泥沼化してしまうと、却って印象が
悪くなってしまう。「日経ビジネス」は他の週刊誌と違って経済の専門誌なのだから、
このようなアンケートで情報操作などするわけがない。もしもそんなことが発覚
してしまったら即廃刊になってしまうのだから。私は個人的にヤマダ電気を利用した
ことは一度もないから別にどうでもいいのだけれど。