ディア・ドクター
2009年/日本
イマジナリーな領域
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
西川美和監督の関心は人間関係の‘間(あわい)’にそそがれている。私個人は西川監督の前作『ゆれる』はそのテーマに真正面から突っ込んだために‘間(あわい)’を掴み損ねてしまっているように感じたが、斜交いから攻めた『ディア・ドクター』では成功していると思う。
この作品は私たちにそもそも医師とはどういう立場の人間なのか考えさせてくれる。今でこそ医師は確立された制度のもとで生まれているが、医術というものさえなかった頃を考えてみる時、誰が医師になったかとなると、当然周囲にいる人々の中で一番頭の良い人が担当‘させられた’はずである。たとえ本人が嫌がっても、人々は一番賢い人を頼らざるを得ないからである。担当させられるその人は明らかに‘偽医師’であるのだが、周囲の人間はそれを承知で‘偽医師’に全てを任せる。だからその‘偽医師’はまるで笑福亭鶴瓶が演じる伊野治が食べ物を喉に詰まらせて死にそうになっている老人を診察している時に、周りにいる老人の身内の一人一人の顔を窺いながら「もうこのまま逝かせてもいい」という暗黙の了解を取るようになるはずである。
鳥飼かづ子が娘で医師の鳥飼りつ子に頼ることなく、伊野治に治療を委ねた理由も自分の周りの様々な人間関係を配慮すると伊野治に医師を担当‘させる’ことがベストであると判断したためである。村のことを考えるとナースの大竹朱美も同じような考えだったはずである。
伊野治も鳥飼かづ子の期待に応えようと懸命に努力するのであるが、そのような‘間(あわい)’を絶対に受け付けず、白黒をはっきりさせたがる‘鳥飼りつ子=先端医療’を目の前にするとなす術もなく、いきなり診療所を飛び出すとバイクに乗り、鳥飼かづ子を見つけると脱いだ白衣を‘白旗’のように振って‘降参’して行方をくらましてしまう。
人は誰でも、たとえ相手が自分の期待に応えられなくても、伊野治が認知症を患っている父親に息子として語りかけるように‘演じて’しまうものなのである。
この作品で西川監督はこのような正誤以前の‘イマジナリーな領域’を的確に描写している。
朝青龍、今度は逃げ切れない追放も 殴った相手は一般人!(夕刊フジ) - goo ニュース
朝青龍がワルであることは分かっていたのだが、押尾学レベルほど質が悪いとは
驚いた。朝青龍は通行人に怒鳴ったことをいさめた知人の男性に向かって、「川へ
行け! おまえをそこで殺してやる」と言いながら暴行を続け、鼻骨骨折、頭部打撲
などで全治1カ月の重傷を負わせておいて謝罪することもないどころか、彼の個人
マネージャーと口裏を合わせて、そのような事件がなかったことにしたのである。
更にその朝青龍の言い訳を真に受けて厳重注意で処理してしまった武蔵川理事長
も辞任は免れないはずである。これで貴乃花親方は理事選で断然優勢になった。
サロゲート
2009年/アメリカ
‘人間性’と‘野性’
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
これほど難解なサイエンス・フィクションの映画も珍しい。おそらくできるだけ説明を省いて88分でまとめてしまったからだと思う。私の解釈を書いておきたい。
主人公であるFBI捜査官のトム・グリアーと妻のマギーは夫婦であるにもかかわらず息子を交通事故で失った悲しみから抜けることができず‘サロゲート’を介して付き合うだけの冷え切った関係になっている。ある日トムは登録記録のないタキシード姿の青年の破壊されたサロゲートに関する調査に携わり、その持ち主が死体で発見されて彼がサロゲートの生みの親であるライオネル・キャンスター博士の一人息子であることが分かる。やがて破壊されたサロゲートが元々キャンスター博士のものであることが分かり、彼の一人息子はキャンスター博士の身代わりに殺されたことが分かる。サロゲートを破壊した犯人がストリックランドという男であることが分かったが、トムのサロゲートはストリックランドを追いつめたところで‘反サロゲート’の人間に破壊されてしまう。実はその時社会は‘サロゲート派’と‘反サロゲート派’に分断されていた。しかし‘反サロゲート派’の指導者である預言者は‘サロゲート’であった。つまり‘サロゲート派’も‘反サロゲート派’もサロゲートの最大手メーカーVSI社に牛耳られており、お互いの主張を尊重して無駄な争いをさせないようにコントロールされていたのである。ライオネル・キャンスター博士はVSI社創立時の中心人物であったが、経営陣と対立してしまったために7年前に会長職を解かれてしまっていた。当初、車椅子の生活を強いられていたライオネル・キャンスター博士は体が不自由でも好きなところへ行けるように同じ障害を持った人たちのためにサロゲートを製作したのであるが、VSI社はより多くのサロゲートを売るために安全に暮らせる機具として売り出した。VSI社は国防省がサロゲートを破壊する武器を製作したことを知り、FBIのトムの上司であるアンドリュー・ストーンを買収していまだに有力なライオネル・キャンスター博士の暗殺を謀ったのであるが、間違って彼の一人息子を殺害して彼の逆鱗に触れて、結局サロゲートのシステムはトムの手によって崩壊してしまう。
不自由になった体のサポートを目的として製作されたサロゲートが、その利便性のために本来の目的から逸脱してしまい、うわべを飾り心を閉ざす道具に成り下がってしまうというアイロニーが効いている。それにみんなが好むファッションが結局60年~70年代頃のポップカルチャーであることも興味深い。
それにしても主人公が身体障害者であるという設定が『アバター』とカブってしまっている。『サロゲート』では物語を語る上で、その設定は必然的なものであるのだが、やはり私には『アバター』の主人公であるジェイクが身体障害者という設定に必然性があるとは思えない。‘人間性’を取り戻す『サロゲート』と‘野性’を取り戻す『アバター』という違いなのかもしれないが、‘人間性’を取り戻すという意味は理解できても、‘野性’を取り戻すという意味が私には理解できないのである。