特集:消えゆく曽根中生?
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『壁の中の秘事』について
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
資料によると若松孝二監督の『壁の中の秘事』が1965年のベルリン国際映画祭に選出されたことに関して日本映画業界から国辱映画呼ばわりされたそうであるが、この作品を選んだのはベルリン国際映画祭サイドなのであるから、国辱映画とされるのは『壁の中の秘事』ではなくて日本映画連盟が予選で出して落とされた増村保造監督の『兵隊やくざ』の方だと思うのだが、そもそも‘ピンク映画’と‘やくざ映画’の争い自体が‘国辱’ものだとも思う。
ところで『兵隊やくざ』がただの‘やくざ映画’ではないように、『壁の中の秘事』はただの‘ピンク映画’ではない。ただの‘ピンク映画’ではないというよりも、そもそも‘ピンク映画’ではないと思う。この作品は一言で言うならば‘反米映画’である。原爆の後遺症で背中にケロイドを持つ男と、原爆の後遺症を心配して子供を産むことを諦める人妻との浮気の場面から始まる。その2人のいる部屋の背景の壁にはスターリンのポスターが貼られている。時はベトナム戦争の真っ只中でアメリカに対する憎悪はますます激しくなるはずなのであるが、男は戦争による株の高騰で儲けることになり、それが人妻には許せなかった。他方、向かい側に住んでいる予備校生は予備校にも行かないまま団地の自室で勉強もはかどらず向かい側に住んでいるその人妻の情事を覗き見していた。性的不能の予備校生は日本の象徴として描かれており、ベトナム戦争特需で憎きアメリカの恩恵に与っている男たちに抱かれた自分の姉や向かいに住んでいる人妻を予備校生は殺すことになる。
この作品が制作された1965年当時はこのように解釈されていたはずであるが、2010年の今から観ると解釈が変わるように思う。今から思えば1965年当時の日本の団地という‘制度’は一億総中流意識を持ちえたことと合わせるならば、まさに理想の‘共産主義制度’だったはずである。それならば団地の閉塞感で生じる狂気というものはアメリカの資本主義によるものではなくて、ソビエトの共産主義によって生じたのではないのかと気がつくことになる。結局若松孝二監督はこの‘閉塞感で生じる狂気’というテーマを再び『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で取り上げて、それが奇しくも2008年のベルリン国際映画祭で上映されることになった。
アンドロイドはグーグル携帯を使うのか? 信義の問題と原作者遺族が憤慨(gooニュース・ひまだね英語) - goo ニュース
私は映画『ブレードランナー』は見ているが、そのフィリップ・K・ディックの原作小説
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?)』は
未読で、この記事を読んで初めて“Nexus-6”という造語を知った。しかしそんなに
“Nexus-6”という造語は誰もが知っているくらいメジャーな言葉なのだろうか?私は
今回の件は“Apple”の商標を巡って元ビートルズとコンピューター会社が争って
“話題作り”をしたように、裏でグーグルとフィリップ・K・ディックの遺産管理者たち
がタッグを組んで仕掛けている“宣伝”だと思う。私は“プリンシプル”というものは
口に出した瞬間に意味が歪められてしまう質のように思う。そこに現代における
プリンシプルの存在の難しさがある。
大人のオモチャ ダッチワイフ・レポート
1975年/日本
‘理想の女性’という幻想
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
タイトル通りにこの作品は大人のオモチャ‘ダッチワイフ’について描かれているのだが、それは女性に不自由しているという意味ではなくて、むしろ‘女性嫌悪’という意味である。それはかつての恋人に酷い目に遭ってから女性嫌いになった大森医師が、それでもセックスだけはしたいという理由で深い関係にならないように研究を名目に記録を採りながら自分が気に入ったナースとセックスをしたり、南極調査隊員たちが使っていたダッチワイフを密かに自宅に持ち帰ったりしていることから窺える(南極調査隊員の小笠原が恋人の西川三重子に欲情しなくなるのも、ただわがままで生臭い女性よりも自分の思い通りになるきれいで美しい人形とのセックスに魅了されてしまったからである)。二度と酷い目に遭いたくはないのであるが、それでもかつての恋人を忘れられない大森は顔や姿が似ている元恋人の妹の秋元マリ子に睡眠薬入りのワインを飲ませて眠っている間にダッチワイフ制作者の久生に全身の型を採らせて、秋元マリ子と瓜二つのダッチワイフを手に入れる。早速今までの不満を吐きながら嬲るのだが、この高性能なダッチワイフには‘膣痙攣’の装置まで付けられていることまで知らされていなかった大森は見事に‘ハマって’しまい、もがき苦しむことになる。何故か大森の家の外にいた秋元マリ子は大森を助けることも助けを呼ぶこともせずに立ち去ってしまう。ここで描かれていることは‘理想の女性’を求めても結局女性とかかわる限り痛い目に遭うという皮肉である。
この作品は当時ロマンポルノとして上映されていたそうである。当然男性諸氏は興奮を求めてこの作品を観に行ったと思うのだが、こんな結末で納得できたのだろうか?
ところでこの作品に出てくるダッチワイフは‘ベベ’と呼ばれているのだが、これは間違いなくフランスの女優であるブリジッド・バルドー(Brigitte Bardot)の愛称である‘BB’から採られているはずであるから、日本で制作されているダッチワイフの顔もブリジット・バルドーから採られているように推測する。