ケンのブログ

日々の雑感や日記

歌声サロン

2018年06月26日 | 日記
今日は隣の町の市民交流センターで催された歌声サロンに
参加した。
ピアノの先生は白いTシャツにダークグリーンのスカート。
歌の先生はパープルの花柄のブラウスにアイボリーのズボン。
歌の先生の息子さんは震災の日神戸から
大阪へそこから地下鉄で京橋へそこから
淀川の南の枚方へそこまで奥さんに車で迎えに来てもらって
淀川の北の町に帰ったとのこと。
いったいそのコースで帰るとどんだけ時間がかかるんや
と思ってしまった。
震災の時でなかったらあり得ないコース。
普通だったら神戸からJR一本でこれるコースだ。
まあ無事だったからそれも思い出になるけれど、、、。
無事がいちばんのおかげさまだなとしみじみと思う。
金光さんは命をつないでもらっておかげのものもあれば
死んでおかげものもあるとおっしゃっているけれど
そこまではなかなか割りきれない自分がいる。
歌の先生はプログラムに外国の歌に日本語の歌詞をつけたものと
日本の歌をだいたい均等に配分されることが多い。
今日もそんな感じだった。
途中でピアノの先生と歌の先生のデュオで
シェルブールの雨傘を演奏してくださった。
フランスのシェルブールのお土産やさんには
シェルブールの雨傘と日本語で書いてあり
そこにはそのまんま雨傘が売ってあるとのこと。
まあ、ありがちな話。
きっと本当に違いないと思う。
雨傘のようなかさばる土産買ってどうするんでしょうねと先生。
まあ、そのとおりだと思うけれど
それこそシェルブールで雨傘買いましたという土産話の
種なのだと思う。
シェルブールの雨傘は映画音楽なので
ピアノの先生はムードたっぷりの伴奏。
ほとんど即興で弾いておられるのだろうと思う。
もういつ高級ホテルのラウンジから声がかかっても即OKという感じ。
先生がホテルのラウンジでもし弾くとしたらちょっともったいない気がするけれど。
「こういういい加減な弾き方は私、得意なんですよ」とピアノの先生。
「いいえ、そんなことはありません。リサイタルの時は
ちゃんと、今日とはまた違った弾きかたをなさるんですよ」と歌の先生。
僕もリサイタルに行ったことがあるから歌の先生のおっしゃることは
理解しているつもり。
歌の先生もピアノの先生もいろんな引き出しを持っておられる方だということが
最近、だんだんわかってきた。


六月二十五日

2018年06月25日 | 日記
今日も晴天でかなり外は暑い。
隣の町の青少年センターが震災後の建物のチェックで
午後五時までの開館だったけれどきょうから午後九時までの
平常に戻った。
余震などもおさまってくれるといいのだけれど。
隣の町の私鉄の駅のもよりのスーパーの飲食コーナーも今日から
リオープンした。
飲食コーナーの横にあるカウンターだけの小さな喫茶店が今日から
リオープンしてそれにともなって飲食コーナーもリオープンした。
ということは飲食コーナーは喫茶店の管轄になっているのかも
しれない。
この一週間飲食コーナーはなぜしまったままなのかと不思議だった。
それは管轄する人がいないとオープンできないのだろう。
とあれこれ想像してしまう。
飲食コーナーに集まった年配の女性は
「コップが落ちて割れたけど他は大丈夫やったわ」とお互いに
近況報告をしあっている。
まあ、ここにやって来るということが大丈夫の証なのだろう。
やはり、無事だったことはおかげさまなのだと思う。
いろいろとまだ本当に通常に戻るには時間がかかりそうだけれど。
スーパーの喫茶店のリオープンで僕の行動範囲の飲食店は
大概復活したけれど
あるアメリカ系のコーヒーチェーンのドアに
地震のため営業を停止しますと張り紙がしてあるけれど
中の椅子の様子を見ると本当に地震で営業停止なのか
このままフェードアウトしてずっと営業しないのか
ちょっと微妙な様子なのが気になる。
吉野家も週末は土日専門のスタッフという感じで
いつものスタッフの方ならちょっと混雑していると
すぐにお二階へどうぞ といってくださるのに
こちらから二階へいってもいいですかと催促すると
はじめて二階を開放してくれるという
ちょっとなれない対応だった気がする。
今日から吉野家にもてきぱきしたお姉さんが
戻ってこられて本当に気持ちがいいほど
いろいろてきぱきとさばいておられた。
お勘定をしてありがとうございますと言ったつぎの瞬間には
もう「頭の大盛りひとつ」という要望に対応しなければならない
僕では100年たっても勤まらない仕事だなと思う。

祈れ薬れ

2018年06月24日 | 日記
昨日は雨、今日はかなりの晴天。
真夏はかくやと思うほど暑い気がするけれど
まだ梅雨があけたらきっとこんなものではないだろうなとも思う。
だいぶん日差しも強いのでちょっと帽子をかぶって鏡に顔を
写してみた。
僕の場合頭が短い丸刈りなので帽子を被った状態で鏡を見て
そのまま帽子をぱっと取るとかつらをかぶった人が
ぱっとかつらをはずしてはげが露呈したときのように
かなり帽子をつけたときとそうでないときの
落差が激しくてちょっと恥ずかしいような感じになってしまう。
それで今のところは帽子をかぶるのをやめた。
もっと暑くなったらそうもいってられないかもしれない。
昨晩も余震があって揺れている間は
ちょっとお念仏を唱えながら固まっていた。
身内のものと話をしていて
地震で揺れたときは安全なところは逃げたかという話になって
そんな揺れている間は一心に固まってお念仏を唱えていて
動くという発想自体が僕にはほとんどない。
地震の時はだいたいいつもそう と答えたら
身内でもずいぶん考えが違うものだねという話になった。
しかし、これだけ余震があって
僕がすんでいる隣の町は地震で塀が倒れてその
塀が建築の基準に違反していたということで
ずいずん新聞紙上でたたかれていて
なんだか気分的に滅入ってくる。
まただんだんいつもの日常が戻りますようにと祈っている。

また昨晩ちょっと電話で身内のものと話をしていて
金光教の教典に書いてある
祈れ薬れにすればおかげもはやいが
薬れ祈れにするからおかげにならぬ
というのはどういう意味かという話になった。
僕はこの部分を文脈上たいした意味があると思って
読んでいなかったのでそんなん注意して
よんでないから知らんわ
でも文脈上はだいたいこんなことやろうという話をした。
そして、電話を切ったあとこの金光教教典は確かに
文脈もあるけれど、箇条書きの文章なので
連続した文章のように文脈と言ってもそれほど
確固としたものではないことに思いが至った。
祈れ薬れ、薬れ祈れで対句になった定型文なので
金光教のサイトを見たらきっといい解説が
出てくるだろうと直感的に思って
金光教銀座教会のサイトを検索で見たら
案の定よい解説が載っていた。
その解説はおおよそこういうことである
薬も神様のおかげと思ってこれから薬を飲ませていただきます
どうぞおかげをいただかせてくださいと祈って飲むとおかげを
いただく。
ここまでが金光教会の解説の主旨であとは僕の推論
なのだけれども
逆に薬れ祈れは薬が祈りの上位に来てしまうので
おかげにならないということなのだと思う。
薬も祈ってから飲むとおかげになる
つまりは効くというのは非常に納得が行く。
効くと思って飲むと有効成分の入っていない薬でも
効くといういわゆるプラセボ効果は科学的にも
実証されているという話をどこかで読んだことがある。
やはり薬も祈って飲むとおかげになるのだと思う。
それにしても金光教の考え方は
どこまでもおかげさま、おかげさまで日本人の精神風土にあっているなと思う。


六月二十三日

2018年06月23日 | 日記
雨が降っている。地震のあとのかなり本格的な雨。
地盤が緩んで二次災害が起きないか気になる。
心配と言えば心配。
無事であることを祈りたい。
昼前に地元の駅で地元の若者K君に声をかけられる
「こんにちわ」とK君。
「こんにちわ。そういえばK君、浪人ってこないだ言ってたなあ。
あのあと俺、指折って数えたんや
おれが一中で家庭教師の手配りして、悪がきの子が何人か
俺の手配りの紙をひったくろうとして
最後に、ゴメンって謝ってくれたのはK君だけやったなあ。
だから、俺はK君のことは覚えている
あれが2011年でそのときKくんは中一
今年が2018年やからK君二浪やろ
ちょっとしんどいな」と僕は言った。
「よう、そんな年数おぼえとるなあ。
でも俺途中で高校変わったから実際は一浪やねん」とK君は言った。
まあ、どんな理由があるにせよストレートで行った子より
2年遅れているという事実には変わりはない。
「ああ、そう、K君、KS高校に行ってたなあ
あれから高校変わったんや。それで時間のロスがあるから
実際には一浪。そういうことやな」と僕は言った。
「そう」とK君は言った。
「今日はこれから予備校行くの?」と僕は言った。
「そう」とK君は言った。
「ちょっとあそこに後輩がいるから声かけてくるわ」と言って
K君は僕から離れていった。
電車が来ておなじ車両に乗った。
K君は後輩と一緒にのって話していると思いきやそうではなかった。
後輩に声をかけたと言っても一瞬の挨拶程度だったらしい。
それからK君は僕にちょっと会釈して違う車両に移っていった。
まあ、隣の町の駅くらいまでK君と話をしていっても
いいかなと思ったけれど
今日は土曜日、Kくん予備校に行くと言ったけれど
実際は北の繁華街に遊びに行くのかもしれない。
ここはあまりKくんのこと深追いしないで
また時を改めて声をかけてくれる機会に任せた方がいい。
そう思った。
高校を途中で変わったこと
実質的には二浪であること
Kくんも今はちょっとしんどい時期なんだろうなと思う。
二浪だと場合によっては大学に入っても
回りとの年齢差からコミュニケーションに悩む子もいる。
Kくんの場合そういうタイプにも思えないけれど。
高校を変わるってなにかあったのかもしれない。
ここが岐阜だったら、また、改めて僕のうちに話に来てよと言えるかもしれない。
でも大阪にはそういう故郷のような拠点もないし
ちょっと余計なことは話さない方がいいかなと思う。
まあ、人とのコミュニケーションも時と場合だなと思う。

ケンプのベートーベン

2018年06月22日 | 音楽
このところベートーベンのピアノソナタはルドルフゼルキン
そしてウィルヘルム バックハウスで聴いていた。
もちろんゼルキンもバックハウスもすばらしいベートーベンを演奏する。
しかし、何日か前からもっとかろやかなベートーベンの
ピアノソナタを聴きたいなと思うようなった。
ウィルヘルムケンプのベートーベンは全曲聴いたことはないけれど
部分的にCDは持っていて軽やかな演奏だなと思っていた。
バックハウスのベートーベンピアノソナタ全集を買うか
ケンプを買うかで迷ったときケンプは軽いからという理由で
バックハウスに決めた。
もちろんそんな消去法的理由だけでバックハウスに決めたわけではなく
バックハウスの武骨さに惹かれたから。
もう20年くらい前の話だとおもう。
ただ、今はちょっとケンプの軽やかさが恋しくなった。
ユーチューブでケンプのベートーベンを聴いてみると
やはり軽やかなイメージの演奏になっている。
タワーレコードで検索したら以前に比べてかなり
低価格でベートーベンの全集が出ていた。
バックハウスはそんなに安くなかったけれど。
もうこれはケンプの全集を買おうと思った。
隣の町の百貨店が今日から営業を始め
そこにはいっているタワーレコードに行った。
ベートーベンのピアノ曲のコーナーを見ると
ピアノ協奏曲全集はいくつかあるけれど
ピアノソナタ全集はない。
何度かみたけれどない。
問い合わせカウンターに目をやると
レゲエのアーティストのような格好のお姉さんがいた。
とてもクラシックに詳しいような感じに見えない。
でも聞いてみようと思って僕は言った
「ベートーベンのコーナーを見ると
ピアノ協奏曲全集は何種類かありますが
ピアノソナタ全集はないんですよ
僕が見つけられへんかっただけかもしれませんが
どこかにありますかねえ」と。
「商品が特定できれば検索できるんですけど
ベートーベンのピアノソナタ全集だけでは」とお姉さんは言った。
「ケンプの全集です」と言おうと思ってやめた。
下手に言うとそれを取り寄せなければならない雰囲気になってしまう。
なければ梅田にいけばいい。
お姉さんは「この辺りになかったらないと思います」と言った。
「いやあ、このあたりは何度か見たんですけど見落としてるかも
知れません」と僕は言った。
「そうですねえ」とお姉さんが身を屈めたその先にベートーベンピアノソナタ全集があった。
しかもケンプのものが。
「ありました。これですわ」と僕が言った。
「すみません、こちらも把握してなくて」とお姉さんが言った。
「いや、あればそれでいいんですよ」と僕は言った。
ダメもとで聞いてみてよかったと思う。
さっそく何曲か聴いてみたけれどやはり軽やかでいいなとおもう。