ケンのブログ

日々の雑感や日記

私は私

2021年04月12日 | 日記
昨日の読売新聞にスウェーデン人の母と、米国人の父との間に、戦後間もない1949年に横浜で生まれた女性マリアンヌさんの話が紹介されている。

マリアンヌさんの米国人の父は女性が生まれる前に米国に帰国してしまった。

スウェーデン人の母はマリアンヌさんが1歳のときに亡くなってしまった。

それで、マリアンヌさんは日本人の養母のもとで育てられることになる。

つまり、マリアンヌさんは、米国人の父も、そしてスウェーデン人の母もいない国際孤児になってしまう。

スウェーデンから同国の法律に基づき、子供はスウェーデンに戻されるべきという裁判を起こされ、結局その裁判はスウェーデンの勝訴となる。

しかし、日本で育ち日本語しか話せない子供がいきなりスウェーデンに引き渡されるのにも無理があるということでマリアンヌさんは、横浜のインターナショナルスクールに通ったりして、スウェーデンの生活様式を身につけることになる。

彼女は20歳のときから5年間、大学に進学するなどスウェーデンで過ごすが25歳のとき日本に戻ってくる。

日本で結婚し33歳のときに子供にも恵まれる。

日本の永住権を得て、東京葛飾区の外国人相談員を始めたりする。

これと並行して、自分のルーツ探しもして、自分には遺伝的に日本人の血も流れていることを知る。

と、そんな流れの話が紹介されている。

この紹介の記事は32歳の若い女性記者が書いた記事である。

女性記者は記事の最後をこのような文章で結んでおられる。

「スウェーデンと米国の国籍に加え、日本の永住権も持つマリアンヌさん。あえて、今、『あなたは何人ですか』と尋ねてみた。『私は私。あえて言うなら人間よ。私が探していた答えは、実はすごく簡単なことだったと今はわかる』。朗らかに笑った」と。

自分のルーツというものを考えて、いたった答えが、「私は私。あえて言うなら人間。すごく簡単なこと」とマリアンヌさんの最後の言葉を要約できる。

それは、私は私、あえて言えば人間 とだけ規定できれば、簡単なことだけれど、それは、そんなに容易にはできないことにも思える。

やはり、人間は誰でも自分の、属性によって、自分を規定しようとするのが普通だから。

たとえば、私は会社員、とか私は床屋さんとかそういう具合に。

そして、そのような属性による規定が、他人からの信頼につながることもあるし、自分の安心につながることがあるということもまぎれもない事実と思う。

あなたな何人ですか という記者の質問に、マリアンヌさんが 私は私 と答えたという文章を見て、僕は、旧約聖書の出エジプト記のことを思い出した。

出エジプト記の中でモーセが神に対して「あなたの名は?」という問いを発する場面がある。(出エジプト記第3章)

それに対する神の答えは
「私はあってあるもの」というものだった。

あってあるもの、って、ちょっと聖書は厳かな訳し方がしてあると思う。それは、やはり、聖書は一般の書物であると同時に、教会で用いるキリスト教の聖典としての役割があるからだと思う。

「私はあってあるもの」という部分を、英語の対訳で見ると、ここは
“”I am who I am.“”となっている。

I am のあとに I am a teacher.とか、そういう補語が英語でも抜けているわけだから、
厳かな訳し方ということにこだわらなければ“”I am who I am“”は「私は私」と訳してもあながち間違いではないと思う。

「私は私」 マリアンヌさんが記者に答えたのとおなじ答え方だ。

本当に、自分の属性とか、知名度とか、そういうものに対する執着を捨てて、私は私 とだけ思って、それを信じていければ、それは、いま流行の言葉である、自己肯定にもつながるだろうし、こんなにシンプルでこんなに安心なことはないと思うのだけれど、それが誰しもなかなかできないから、いろいろ、悩んでいるのだと思う。

私は私 とだけ思っていればいいという境地に僕も近づければそれに越したことはないけれど、本当に言うは易し、行うのは、なかなかということだと思う。

まあ、それはともかく毎日無事であることを祈りつつ過ごしたいと思う。