僕の自宅最寄り駅前の桜は半分くらい、葉桜になってしまった。
木によってはもう7割以上葉桜になっているものもある。
もう桜の花も終わりかと思う。
僕が利用している私鉄の駅に昨日までは沿線の桜だよりのポスターが貼ってあった。
昨日の時点で沿線の13箇所の桜の咲き具合を示したポスターの6箇所か7箇所ぐらいで花吹雪になっていた。
それで、今日はどのくらいの箇所が満開を超えて花吹雪になっているかポスターを見ようとしたら、もうそのポスターは剥がされていて、沿線の山と川のある場所で舟遊びを楽しみましょうというようなポスターに変わっていた。
沿線のポスターも、花吹雪になったら、もう観光PRとしての意味はなく、次の宣伝というように変わっていくのだと思う。
何日か前の僕のブログの記事に、桜の葉が出始めるのと、カエデの新緑の葉が出始めるのはほぼ同じタイミングということを書いたと思う。
それで、カエデと桜はきっとお宮に植えてあるだろうと思って、それを確かめようと、通りすがりの、そこそこ大きいお宮に入ったら、そこには桜の木もカエデの木もなかった。
まあ、残念とは思ったけれど仕方がない。
今、コロナでどこのお宮も、手水のところの柄杓が取り払われていて、竹などの水道からちょろちょろ流れ出ている水で直接手を清める方式になっている。
僕は、普段、神社に参拝するときには、柄杓で、手に水を流す習慣にしているから、ちょっと柄杓が手水から取り払われていると、拍子抜けするような気もする。
ただ、こういうのは、手順にこだわると、あまり、よくないということもある。
金光さんは、田んぼで肥料を扱っているときに、怪我をしたような場合、手を清めてから、神様にお祈りしていたのでは間に合わない、その場で祈れ、という主旨のことを言っておられる。
まあ、言われてみればそのとおりだなと思う。
僕、金光さんの こういう形式にとらわれない、実をとる考え方って好きだ。
僕も、けっこう神社では自分で好き勝手というわけではないけれど、自分流でやっていることもある。
たとえば、お守りをお受けしたときは、賽銭箱のすみにそのお守りを置いて、お賽銭を入れて、二礼 二拍手 一礼のお参りをして、お守りをお受けしたことのお礼をするとか、もうそういのはそのときの気分でかなり自己流になっている。
まあ、そのあたりは、神道の専門の先生にはしかられるかもしれないけれど、大体でいいのではないかと思っている。
賽銭箱と言って、思い出したけれど、あるお宮に行ったら、賽銭箱の前で、猫が死んでいたことがあった。
ええ? 猫が死んでるの? と思ってびっくりして、お賽銭入れるのも忘れて猫のこと観察していたら、お腹が膨らんだり、凹んだりしている。つまり、猫は呼吸をしている。死んでいるわけではない。寝ているだけなのだ。
僕が、ホッとした瞬間に 社務所の扉がガラガラと開く音がして、宮司さんが出ていらして、「これ、うちの猫ですわ。猫は本当に涼しい場所をよく知っています。賽銭箱の前は、お堂の影で涼しいですからね」と言って、賽銭箱の下を開いて、賽銭箱の中身を回収して、また社務所に戻っていかれた。
そうか、あれは、お宮の猫だったのかと、あっけにとられつつも、宮司さんも、僕の目の前で、賽銭箱の中身を回収していくということは、僕は、少なくともその宮司さんの目には悪い人と映らなかったということなのかなと思って少し嬉しかった。
まあ、坂をかなり登らないと、お堂にたどり着けないお宮なので、夏は、参拝者もほとんどいないので、賽銭箱の前で猫が寝ていても、大丈夫ということにもなるのだろうけれど。
参拝者が少ないのは寂しいことであるかもしれないとも思った、、、、。
まあ、お宮も、それぞれに、いろんな事情があるということなのだろう。