ケンのブログ

日々の雑感や日記

二月二十六日

2018年02月26日 | 日記
昨日は今年二回目の天神さんの日だった。
毎月二十五日は天神さんの日だからそれは意識していた。
昨日は隣の町の駅の南側だけで過ごしたけれど今日は天神さんのある
駅の北側へ行ったみた。すると駅から天神さんの鳥居にまっすぐに
通じる通りにフランクフルトソーセージやたこ焼きやいろいろ
売っている露店商がいっぱい出ている。
なんだろうとおもって見ると二月二十五日、二十六日は
天神祭と書いてある。そうだったのか気づかなかったなと思う。
駅から北へ道路を2、3百メートル進むと天神さんの鳥居がある
だいたいそこまでずっと露店が出ている。
歩いて鳥居のちょっと向こうまでいった。
そこからはかなり急勾配の坂道で本殿につくまで
僕の足でもだいたい十分以上歩かなければならない。
そこまで歩くのはきょうはちょっと気が進まなかったので
やめた。
そのかわり坂の登り口にお参りする場所が作ってあるので
そこにお賽銭を入れてお参りした。
普段はこの坂を上っていく人はほとんどいないけれど
きょうはそこそこ坂を上っていく人がいた。
やはり、こういう縁日をきっかけにお参りすることはいいことだと思う。
なにかのきっかけがなければなかなかお参りできない。
お祭りということでギターで細川たかしの北酒場を弾き語りしている人がいた。
この歌、北の酒場通りには、という歌い出しだけれど
そこを、北の湖は横綱だ、と歌詞を変えて歌うのが癖の人が
以前勤めていた会社にいた。
だいたい、こういう演歌系のヒット曲には替え歌があったりするものだなと思う。

自分では心を定めて毎日精進しているつもりでも
ちょっと何かを言われたり、いろんなことがきっかけで
急に迷いが出てしまうことがある。
聖書にイエスの弟子がイエスに言われて湖の上を歩いていて
風を見て急に怖くなり怖くなったとたんに体が湖の中に
沈みだしイエスに助けてもらうシーンがある。
イエスは弟子を助けて
「信仰のうすい者よ、なぜ疑ったのか」と言うけれど
信じるのが人間の性ならばまた疑うことも性なので
やむを得ないと言えばやむを得ない気がする。
そういうことまでちゃんと書いてあるから聖書は永遠の
ベストセラーであり続けるのだと思う。

般若心経に日本語に直訳すれば
無明もなければまた無明がつきることもないというくだりがある。
無明はないけれど、かつつきることがないと論理的に
つじつまのあわない話になっているのだけれど
それが真実なのだと思う。というか真実そのものが書いてある。
ちなみに無明は一番簡単な訳は迷い、ということになっている。
心を定めているつもりでもまた迷い
こんなことではいけないとまた祈り
そうして今日今月で進んでいくものだと思う。
少しづつ順番に進んでいきたいなと思う。

ここ一週間くらいショスタコーヴィチを聴く時間が増えている。
ショスタコーヴィチの音楽はなんとも言えない暗さが
漂っているところが大きな魅力のひとつだけれど
ここ2年くらいその暗さゆえにちょっとショスタコはあまり聴く気にならないな
という時期が続いた。しかし、そういう時期を脱しつつあるのかも知れないという気がする。
もちろん先のことはわからないけれど、、、。