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ケンのブログ

日々の雑感

直感と理性

2020年04月27日 | 読書
芹沢光治良の小説「人間の運命」の主人公、森次郎は中学生の時、肋膜を患い、周りの大人から、そういう患いが起きるのは中学をやめて天理教の教師になれという神様からのお知らせだというように説得される。そのことに対して次郎はそれはちがうと敢然と反抗する。そしてこういう
「僕は誰がなんと言おうと自分の信念通り(中学へ)通学を続けます。それが神の意思に反するのならば、僕の息の根をとめるでしょう。しかたありません。僕は死んでもいいです」と。

金光さんがままよという気持ちとは死んでもままよのことであると言っておられるけれど本当に次郎の言葉はそれを地で行くような言葉だなと思う。

ところが次郎は一高に入学して兄から天理教の信仰から足を洗うように勧められたときはこのように答えている。

「でも、僕ねえ、急いで信仰のことには自分で答案を出さないでおこうと思ってます。天理教のことだって、自然発生的に小さい時から知っていただけで、僕の知った天理教がほんとうの教えかどうかもわかんないでしょう?沼津の髭の会長や岳東の会長の言うことやすることだって、支離滅裂で、どこまでが本当の信仰か・・・それに、僕はキリスト教も知りたいんです。そのうえで信仰を卒業するなら、したいなあ。それまでは無視しているつもりです」と。

本当に直感的に自分には受け入れられないと思ったことには死んでもいいと敢然と反抗し、自分にとって疑問点の残ることについては慎重に判断を保留する。

とても賢くて、気力があって、真摯な態度であるなと思う。真摯な態度をとることの大切さを改めて教えられるような気がする。

また、直感と理性とのバランスがとれた知性であることに改めて驚きの念を覚える。

願いを叶える あるがままを受け入れる どちらも大切

2020年04月17日 | 読書
芹沢光治良さんの「人間の運命」という小説を読んでいると、主人公次郎の祖母の目の病気に関して登場人物達の考えが大きく二分される場面がある。作者に失礼を承知でごく簡単にまとめるとそれは祖母の目の病気は神様の思し召しで自然のことであるからあえてそれにさからわず受け入れるという考え方、そしてもうひとつは祖母の目の病気は神様におすがりして治してもらおうという考え方である。(医者に治してもらうという考え方ももちろん描かれている)

そしてそのことに関して主人公の次郎はこう思う。

”自分は祖母が盲目になると知って、あわて悲しみ、神様の力を揺り動かしても助けてもらいたいと、焦燥しているが、当の祖母も、そして叔父達も、悲しみもしないで、盲目になるのを自然のこととしている。一体これはどうしたことか。あきらめであろうか。”と。

本当に僕もおもうのだけれど神様におすがりすることで安心や、自信が生まれることも多々あるけれど、おすがりして自分の希望が叶わないとまるでお助けマンである神様には効き目がないではないかと落ち込んだり逆に焦ってしまうことがある。

神様におすがりしてよくしていただく、あるいはよくなっていくことは大切だけれど、思いが叶わなくてもこれも神の意志として受け入れていくこともまた同様に大切であると思う。

いわば自分の願いを叶えようとするおすがりの仕方と、現れてくることを受け入れる気持ちのバランスと言うか線引きをどこでするのかということに対する一般的な答えはどこにもなく、それは自分の気持ちに素直になってその時々で自分で判断していくことなのだと思う。

八王源先生も自分の最後のときはもうすっかりあきらめておられる感じだった。
「これが普通の骨折とかだったら、ギプスがとれた、リハビリが進んだと希望がある。
でも、いまのわしには何の希望があるね?だから希望のないところに人を呼んで見舞いに来てもらっても、そんだけみんなにご足労、迷惑をかけるだけやから、わしは自分の今の病気のことは人にはあんまり話さんようにしとるの」と先生はなくなる半月ほど前に言っておられた。
そのことをしみじみと思い出す。

だんだん、僕も歳をとってきて、どんな願いを叶えられるだろうか、そして、歳を取っていったら自分の思い通りにならないことをいろいろ受け入れていけるだろうかということを考えることが多くなったと思う。

時と場合に応じた言葉

2020年04月08日 | 読書
芹沢光治良さんの小説 「人間の運命」に出てくる森次郎という中学生は石田という中学校の友人に父について尋ねられたときこのように答えている。

”「君のお父さん、なにしてるの?なんて名前?」
「父?ないようなものだが─」
次郎のためらいがちな返答に、これだから嫌いだと、石田は思い、
「じゃ、スケッチは頼んだよ」と言うなり、花壇の方へ駆け去った。”


ところがその石田の家に行って石田のおじいさんに同じことを聞かれたとき森次郎はこのように答えている。

”「森くんは我入道だってね、お父さんがいないって?」
「はい、我入道です。父はあります。小さい時、僕を残してを出ていっただけです」”


同じことを問われてもいつ、どのような場合に、誰に尋ねられたかに応じてとっさにかつ適切に言葉を話していく。できそうで、できることではないなとしみじみと思う。すごいことだなと。