「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

 摂政宮の来樽(商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号)

2021-09-12 22:46:10 | 多喜二研究の手引き

 摂政宮の来樽
小林多喜二が第二学年 になった時,1922(大正11)年に,皇太子 ・摂政宮
(せ っしょうのみや)・裕仁 (ひろひと)が,小樽高商を訪れた。そ う言えば,
明治44年 (1911年)に,高商が開校す る年の 8月,当時の皇太子つま り後の
大正天皇が高商を訪れたことがある。小林多喜二の後の好敵手,昭和天皇につ
いて少 し論 じておこう 現代 日本史で最 も重要な存在あるいは人物が,昭和天
皇である この人の思想 と強力な政治的役割を見ておかないと, 日本現代史が
分か らな くなる。
皇太子裕仁親王は,1901年 (明治34年),当時の皇太子嘉仁 (よ しひと)親
王の第一子 として生まれた。彼 は成長 し,1908(明治41)年,学習院初等科
に入学する。学習院初等科 は小学校であり,その院長 としては,軍神 と言われ
た乃木希典 1)が,わざわざ任命 された。そこでは彼 は,質実剛健で育て られ
1)乃木希典 (まれすけ),1849-1912。長州出身。戊辰戦争に出る。西南戦争で,戟
旗を失い,自決 しようとした。日清戟争にも出征 した。1896年,第 3代台湾総督
になるが,行政能力なく,同年辞任した。日露戦争で旅順攻撃ができず,更迭され
る。軍事参謀長になる。日露戦争の休戦で,ロシアのステッセル将軍と乃木大将と
が交渉し,和議がなったということで,乃木さんがあたかも日露戦争に勝った代表
的将軍とみなされ,乃木は国民的人気が出た。そして軍神といわれるようになった。
しかし軍人としては無能だった。1907年に,学習院長になる。1912年,明治天皇
が亡くなると,妻と共に自決した。

た。裕仁は少年時代か ら知力にはす ぐれていた。
1912年 (明治45年-大正 1年)に明治天皇が死に,嘉仁親王が天皇 となり,
年号は大正 とされ,裕仁親王は皇太子になった。同時に陸軍少尉 ・海軍少尉に
なった。学習院初等科を1914年に卒業 した裕仁 は,御学問所に入 り,帝王学
(-倫理)その他の教育を受けた。軍事学が特別に重視された。将来の大元帥
となるか らである。卒業とともに陸海軍中尉になった。彼は祖父や父に較べ,
しっかり教育を受けた。そしてかなり優秀な学生だった。後年,軍事に非常に
詳 しくなった。第 2次大戦中,教えた陸軍大学校の教官 も冷汗をか くほどだっ
た。また上奏 (天皇に報告すること)のさいには,軍事知識があるので,上奏
する人は大変緊張 した。
彼は少年の時か ら,「ロマンティックな好戦的人物」であった。そ して自分
のことを天照大神の子孫であると信 じ込んでいた。死ぬまでそうであった。 も
ちろん戦前の日本人 もそう信 じていたわけである。1916(大正 5)年に,彼
は陸軍大尉になった。
1921年 (大正10年) 3月か ら,皇太子は半年間のヨーロッパ旅行に出発 し
た。その時,陸軍少佐になった。イギ リスでは演説を大音声で行い,評判を高
めた。この人 は実はきわめて精力的な人であった。
彼は帰国 して同年11月に,摂政に就任 した。同時に陸軍中佐になった。大正
天皇は,幼児に脳膜炎を患い,その後,多 くの大病を した。実際は神経が集中
できなくなり,長い朗読 も出来ないのであった。つまり天皇としての勤めが出
来なくなった。大正天皇が勅語を巻いて遠眼鏡の様にした事件が,噂として全
国に流れていた。こうして実際の天皇の仕事は,摂政としての皇太子に任され
たのである 皇太子は英明であると宣伝され,国民 も期待 した。英明であるか
どうかは別として,彼はある意味で有能であった。なにしろ,後年,第 2次世
界大戟を日本の最高指導者 として軍事的に指導 したのであるか ら,彼の力量は
軽視できないのである
敗戦後,天皇制を温存するために,裕仁天皇が戦争指導ではロボットであっ
たという伝説が作 られた。 しか し 「神聖にして冒すべか らず」(明治憲法第三

条)とされ,政治的には絶対権力を握っていた天皇が,戦争の最高指導者であっ
て,これを否定する人は天皇の力量を侮辱することになる。それに戦前は,天
皇の意志には全 く逆 らえなかった。
彼は,自分と国家を一体のものと見た。そして自分が国家の脳髄であり,臣
下は自分の手足だと,考えた。朕の股肱 - 手足という意味- の臣,とい
う発言が,それを示 している その彼の思想は,個人主義反対,欧米の自由主
義 ・民主主義反対であり,天照大神以来の天皇家の強化 ・拡大を旨とし,日本
つまり天皇家によるアジアの支配が,生涯の理想であった。その考えを祖父明
治天皇からも受け継いでいた。2)
さてこの摂政宮殿下が全国を行幸することになった。皇太子 ヒロヒトは,北
海道の人情 ・風俗その他を見学するため,1922(大正11)年 7月 6日に函館
に着喜,各地を巡遊 しなが ら,11日に小樽に着き,小樽高商を見学 した。
彼は午後一時,小樽の公会堂3)を出た。随員などが三〇両の車で従 った。
元小樽商業会議所跡,稲穂小学校前を通って,高商へ向かった。当時の地獄坂
は,右側の山腹か ら正面の塩谷山道一面に,北海道特有のエゾ松が生い茂って
いた 。
摂政の宮は高商正面を通ったが,正面左側沿道には,教授 ・学生が列をなし
て迎えた。お召 し自動車は,校内の坂を登って玄関にとまった。中村和之雄教
授が,校長代理として迎え,摂政宮は仮講堂で休んだ。ここはかつて大正天皇
も休息した所だった。皇太子は,高商中を見学 し,市内各中学校長も出迎えた。
見学は 1時間足 らずであった。この時,伴校長の姿が見えないのは興味深い。
小樽市民と高商の関係者は,大歓迎をした。殿下親臨の際,親 しく学生の野試
合をご覧になったのも高商の玄関上のバルコニーからだった。 4)
1890(明治23)年に出された教育勅語以来,日本では天皇-神様論が全国
で強力に教え込まれていた。小学校は教育勅語を暗記する機関とされていた。
2)バーガ ミニ 『天皇の陰謀』全 7巻 現代書林。
3)当時は,公会堂は,今の市民会館の場所にあった。建物が後に移転した。
4)西川 『ひとす じの道』1973年。

天皇陛下の白馬のフンを有難 く持ち帰ったり,天皇の入った風呂の湯を飲みた
いと思 う国民 もいた。 7月23日,裕仁は室蘭か ら軍艦で帰った。 5)摂政の宮は,
天皇になってか らも,昭和11年 (1936年)に再び小樽を訪れることになる。
この高商訪問にときに,小林多喜二 も歓迎に動員されて,日の丸の小旗を振
る群集の中にいたであろう 皇太子の顔 もチラッと見えたはずである。多喜二
は,まさか彼が将来の好敵手になるとは,思いもしなかっただろう。なぜなら
彼は普通の学生であった。彼に殺されるとは夢にも思えなかったであろう
また皇族の行幸では,どこでもそうだが,高商生は身体検査を受け,検便を
させ られた。だか ら,有難迷惑だったという声 もあった。
その後の摂政の宮について,触れておこう。1923(大正12)年に,つまり
小樽訪問の翌年,虎ノ門事件が起きた。難波大助が仕込杖銃で摂政の宮を撃っ
た事件である 裕仁はこれに対 して堂々たる反応をしている。だから,この人
は神経の弱い人ではないことが, ここか ら分かる。1926年 (大正15年 ・昭和
元年)12月,大正天皇が亡 くなり,昭和 となった。裕仁が天皇 とな り,1927
(昭和 2)年に即位の大礼が行われた。1931(昭和 6)年に,「満州事変」が
起 きた。これは, 日本軍国主義の中国侵略の本格的な始まりである。6)裕仁天
皇はこれを聞いて,「仕方がなし」と言 っている。彼は,これが関東軍 - 荏
中国日本軍 - の謀略であることに気が付いていた。
1935年 (昭和10年)に,天皇機関説事件が起 きた。 日本を法人 と見,天皇
を機関と見る,美濃部達吉東大教授の説である。これに対 して天皇は,「日本
のような君 ・国同一の国ならばどうでもいいじゃないか。」と,見事な発言を
した。同12月に,日本はワシン トン条約を廃棄 した。 これは,1921(大正10)
年12月のワシントン会議で決まった軍縮条約である。この軍部のワシントン体
制打破路線に,天皇は同調 した。
5)『小樽商科大学史』財界評論新社 1976年。
6)第 2次世界大戦は,1939年に始まったとされる。つまりヒトラーのポーランド侵
略である。だがそれはヨーロッパ的観念である。アジア的視点からは,第2次大戦
は,この1931年から始まっている。

1936(昭和11)年に,二 ・二六 (にいにいろく)7)事件が起きた。青年将校
(主に尉官クラス)の天皇絶対ファシス ト的 クーデタだった。彼 らは北進 (ソ
連攻撃)論を持っていた。北一輝思想 (『日本改造法案』)に少 し影響されてい
た。この高官襲撃事件の結果は,こうである。岡田首相は死ななかっ・た。高橋
蔵相は殺された。斉藤内大臣,鈴木侍従長,牧野前内大臣も死ななかった。渡
辺教育総監が殺された。天皇は,その青年将校を 「あの気の狂 った暴徒ども-
-」と言い,「朕が股肱の老臣を殺 りくす・--」と怒 った。彼は,軍部がなか
なか鎮圧 しないのを見て,「朕 自ら近衛師団を率い,これが鎮定にあた らん」
と叫んだ。これをきっかけに鎮圧が進んだ。この事件以後,天皇は,政治に ・
軍事に自信を持つようになったのである。

2 徴 兵
日本の徴兵制は, 3つの時期に分けられる。1873(明治 6)年に徴兵令が
できた。1889(明治22)年に,その徴兵令が大改革された。新徴兵令である。
1927(昭和 2)年に兵役法ができた。小林多喜二は,それゆえ第 2の時代に
かかわる 第 2の時代に国民皆兵の原則が成立 した。ただし1年志願制があっ
て,それは,中等学校以上の卒業者,かつ満26歳以下 (1893(明治26)年に
は28歳以下になる)の者に認められた。こうして兵役を 1年で済ませることも
できた。
徴兵の北海道への適用は1896年 (明治29年)だったので,それ以前は本籍
地を北海道に移 して徴兵を逃れる例があった。夏目軟石が岩内へ籍を移 したの
は有名な例である。一万,1882年 (明治15年)には軍人勅諭が出され,絶対
服従の精神がたたき込まれ始めた。8)
当時,徴兵検査があった。明治22年 (1889年)に,徴兵検査制度が確立 し
7′)当時の人々は,必ず 「にいにいろく」と言 う。最近の若い研者は 「ニイテンニイロ
ク」と言 うが,我々にはピンと来ない。
8)大江志乃夫 『徴兵制』岩波新書。

ていた。昭和 2年 (1927年) 4月に,徴兵令は兵役法 となった。20才になっ
た日本人男子はすべて,この徴兵検査を受けねばならなかった。出身地で体格
検査をす るのである9)。 これによって,甲乙丙丁戊 と等級がつけられた。身
長が155cm以上,税力O.6以上,胸周 りが身長の半分,というのが甲種であり,
1927年 (昭和 2年)か らは152cm以上,0.3以上 となった。視力 と肺病が注意
された。ふんどし1本の裸で,全て見せた。親にも見せないところまで見せた。
「前近代的な制度で」(大津)あった。乙種は,一,二,三種があり,甲種 と
第一種乙とが,現役 として翌年入隊 した。第二種乙と第三種乙は,予備役 となっ
た。これ らは,召集を受けると,入隊することになる。つまり3カ月の在学中
の入隊である,または 1年志願すると卒業まで延期された。
ところが 1年志願制は,前述の徴兵令が兵役法と改められた時点で,全廃さ
れた。 したがって学生への特権-優遇は制限されることになった。 しか しなお
将校-の道はひらかれることになった。それは幹部候補生制度の新設である
学生の特権 として,徴兵は (適令をむかえても),兵役法第41条によって,
卒業まで延期することができた。在学中の適令該当者は,毎年,在学中の学校
長を経由して所轄の連隊区司令官に 「徴兵猶予の延期届」の提出の労を義務づ
け られていた。それを怠 ると在学中で も,検査 一入隊 しなければな らなか っ
た。10)1年志願を しなければ,在学中でも入隊 しなければならなかった。だか
ら在学中に 3カ月入隊する人 もいた。ll)
多喜二の徴兵については,はっきりしない。 しか しもちろん彼は徴兵検査を
受けた。秋田で受けたのではないか。だが背が低 く鉢 も小さいので,多分,甲
種合格ではなく,丙種 ぐらいで,兵士 としては失格 となったのではないか。ち
なみに彼は身長が154cmであった。
9)小樽では少なくとも太平洋戦争のころ,公民館で検査された。
10)以上の事を全て捨象 して行われたのが,後のいわゆる学徒出陣である。昭和18年
(1943年) 9月21日の特例による措置,つまり 「在学徴集延期臨時特例」が閣議
決定され,徴兵猶予 は全面停止された。3回の繰上げ卒業に引き続 く措置として,
昭和18年12月に全国一斉に該当者は検査 ・入隊となった。
ll)『坂の道』卒業50過 てママ)年記念論文集 - 緑丘大正12年会。

延期特例は,最高27才までの猶予があった。徴兵検査を受けなくてもよいも
のである。高商では25才までの猶予があった。希望者は願いを出し,それに校
長が判を押す必要があった。出生地の連隊区へ届けるのであった。 12)
学生 ・那珂 捷 (昭和 2年 (1927年)辛)は書 く 「なにしろそのころは,
在学中に出身地で徴兵検査を受けるのだが,その時には,万一にも採用されて
は大変,大体十 日ぐらい前か ら毎 日醤油を一合づっ呑み,- これで鉢がや
せ細る - 連夜深酒を無理にも呑んで,半ば徹夜を重ねる その挙げ句に,
検査当日はそうこうとして検査場へ出向 く すると検査官は,『ウン,まあ安
心 しなさい。君は丙種だよ』といって,印を押 して くれた.これで一年志願の
必要 もない」。 13) (句読点を加えた


最新の画像もっと見る

コメントを投稿