詩人で昭和を代表する作家の中野重治(1902-1979)は、豊多摩刑務所に多喜二と前後して入獄した。のち昭和7年から〔転向〕出獄までの2年間を獄中で過し、多喜二の虐殺は獄中で知った。
3月4日付の妻への手紙に「23日の面会の時、面会所にはいって来たのを一目見て─その直前、係り官がお前さんを呼びに行って、何か物を言っているらしく聞えた時からだったが─ただごとでなく感じたが、「死」の知らせであろうとは思わなかった」(書簡集「愛しき者へ」)とあり衝撃のほどが分る。
その知らせが転向のきっかけといわれる。昭和5年に入獄した体験をもとに書いた短篇「根」は、獄中で看守長から罰をうけ房を移された男が、そこの窓から高塀のむこうに茂る大木の枝葉が大嵐に揺さぶられ泰然として見えるさまに、その大木をしっかり支えているのは根であり、その頑張りだと知る。大衆の支えを根にみた寓意的な作品だ。だが、その根を断ち切ろうとする狂気にちかい国家権力には敵わなかった。
自伝長編「むらぎも」で昭和30年毎日出版文化賞、「梨の花」で昭和35年読売文学賞を受賞した。
中野を敬愛し終生師事した佐多稲子は、交友五十年を綴った追憶の書「夏の栞」で、中野の妻、中野政野(女優名原泉)が築地小劇場のストで拘留の際には、「幼児二人を連れて」重治との連絡にあたり、原泉が釈放されてからもなにくれとなく面倒をみて、獄中の重治を支えたことを記している。
3月4日付の妻への手紙に「23日の面会の時、面会所にはいって来たのを一目見て─その直前、係り官がお前さんを呼びに行って、何か物を言っているらしく聞えた時からだったが─ただごとでなく感じたが、「死」の知らせであろうとは思わなかった」(書簡集「愛しき者へ」)とあり衝撃のほどが分る。
その知らせが転向のきっかけといわれる。昭和5年に入獄した体験をもとに書いた短篇「根」は、獄中で看守長から罰をうけ房を移された男が、そこの窓から高塀のむこうに茂る大木の枝葉が大嵐に揺さぶられ泰然として見えるさまに、その大木をしっかり支えているのは根であり、その頑張りだと知る。大衆の支えを根にみた寓意的な作品だ。だが、その根を断ち切ろうとする狂気にちかい国家権力には敵わなかった。
自伝長編「むらぎも」で昭和30年毎日出版文化賞、「梨の花」で昭和35年読売文学賞を受賞した。
中野を敬愛し終生師事した佐多稲子は、交友五十年を綴った追憶の書「夏の栞」で、中野の妻、中野政野(女優名原泉)が築地小劇場のストで拘留の際には、「幼児二人を連れて」重治との連絡にあたり、原泉が釈放されてからもなにくれとなく面倒をみて、獄中の重治を支えたことを記している。
中野がどうして快く思わなかったかー。
私の想像では、多喜二が単独か他の男性と面会であればよかったのですが、事実上の妻が、肉親ではない男性とともに来たと言うことが気に障ったのではないでしょうか。ましてや面会の際には、横で係官が見張っていてます。家族の時と、友人の時では、話す内容も微妙に違ってくるでしょう。多喜二は中野を励まそうという善意で訪問したのですが、原泉と一緒に行ったことは迷惑だったようです。
わたしの印象としては、多喜二が顔も広く知られており、警視庁に睨まれてるにもかかわらず、「親戚のもの」として原泉に頼み込んで強引に面会に来たことを、中野が苦笑しながら回想し書きつづったのでは、と思いました。
不快に思った、というより、そんなこともしちゃう多喜二を懐かしんでいるような印象を受けたのです。
原泉と多喜二が仲良くて、円タク飛ばし競争をするなど、子どものようにじゃれてたのを中野は知っていますし、妹・鈴子の多喜二への思いもその後知ることになります。
中野のものを読んでいると、中野は多喜二にいろいろな思いを抱えていて、多喜二を死なせてしまった責任感みたいなものも重くひきずっていて、また深い好意もあったんじゃないかと思えるのです。
中野は、北海道出身の人と気があうところがあるように感じています。
西田信春や、伊藤信二、そして多喜二です^^
今野大力とはどうだったかな~。。。
「大和田慶がそう言ってただろう。そう書いていた。蟇目たちの意図するところが、ものになるかも知れぬ・・・どういうんだったかな。あの人の言葉は、言葉どおりでないと駄目だからな・・・・」
大和田と蟇目の関係は、ほんとのところ田村たちによくわかっていない。だいいちあの人はつべこべ言わない。(中略)あの人のは、日常生活そのものとして、飾りものなし、味つけいっさいなしで生きている。それを、そのまんま言葉に置きかえただけなのだ。それを、あの言葉が、蟇目たちの行き方を肯定した物的証拠のようにしたがるやつがいる・・・
大和田の二、三行は権威を持って田村にひびいた。発表されてから十年近くなるだろう。それは初めて日記として、日記の註として発表されたものだった。読んで田村は感動した。泪ぐんだのだったかもしれない。しかしそこは、当事者としてはちがわなければならなかった。大和田を傍観者だったというのではない。あの人はそんなものではなかった。だからこそあの二人のあいだにあんな親しさが生まれていたのだったろう。
あれは、傍観者と当事者と両方にわたった高みでの真実だったろう。しかしそこで、それよりもちょっとばかり低いところ、そこで現実に仕事するものとしては別に考えるところがあるべきものだった。問題はそこなので、そこにこそ田村たちの―「何が田村たちの、か。田村の、だ。」―責任があるのだった。