NHKアーカイブ 「秘録・高松宮日記の昭和史 H8/6/23放送
高松宮妃が高松宮の死後その日記の公開を決定した。かなり宮内庁の反対もあったようだが、昭和の歴史の重要な証拠の一つとして発表された。以下、番組から。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃、「ハワイ」奇襲成功 暗号電報、外国の電報が日記には多数書き記される。当時宮は軍令部に勤務。1週間前の御前会議で真珠湾は決定しており、これを宮は知っていた。前日に宮邸で晩餐会が開催予定だったが「後世の歴史家の誹りを受けるだろう」という昭和天皇の言葉でひっそりと晩餐会が開かれたことが記されている。真珠湾攻撃の前夜、高松宮はあまり寝ていないかった。
10年前の新婚旅行では高松宮夫妻は最終訪問地アメリカで日米友好を訴えた。渡米前に宮にもたらされた昭和天皇の手紙
「私はかねてから英米との協調によって世界平和を確保せんと考えております。私の微志を察して渡米の暁には尚一層外交上のために努力をなさることを切望致します。長きご旅行のことゆえお体をお大切に帰国されることを望みます。妃殿下によろしく。昭和6年3月8日
裕仁 高松宮様」
昭和6年9月 満州事変
昭和8年 国際連盟脱退
昭和9年1月17日
「私は戦争をどうしても日本のためにも道徳の上からも進んでやるべしとは思えない。死力を尽くしても避くべきであると信ずる。」
昭和12年6月2日
「米国の東洋における関心は支那以外にはない。日本の大陸政策が米国を刺激せざるをえざる以上日米開戦の機会はないと言い得る。しかし今日の陸軍の状況においてこれを信ずるのは容易ではない。」
昭和12年7月7日 日中戦争勃発
同年7月14日
「陸軍の統制は今尚極めて不十分なるを組織の上より感ず。北支事件も発砲は支那が先か知らねど発砲せしむるごとき演習をなすことにも十二分の欠点あり。あるいは支那兵営に突撃の教練をなしたり、あるいは内地と同様にしかも現地にて演習するは不謹慎なり。」
昭和15年11月11日 紀元2600年奉祝会
奉祝会にて「臣 宣仁」と昭和天皇に奉じる高松宮。天皇を中心とする国民総動員の中で、昭和天皇と高松宮は兄弟から君子と臣下になった。
昭和16年以降は軍事日誌のようになる
昭和17年6月5日 ミッドウェー海軍が激突、壊滅的敗北を知り、昭和天皇へ手紙を書く。
「海軍は機関兵力を失ったので、この戦いはだめだ。一日も早く終戦をお考え頂きたい。
兄宮へ」
昭和17年8月7日 米軍ガタルカナル上陸開始
「ソロモン海戦の大本営発表は実にデタラメでけしからぬ話なり。今度の様なのは実に甚だしく内外ともに日本の発表の信じられぬことを裏書することになる。敵の攻略企図も上陸もいわずにまるで「ネツゾウ」記事なり。あとの報道にも差し支える。」(放送画面では朝日新聞の日本軍大勝の記事。ただし「朝日」の「朝」の部分は見せず。)
同年10月25日 近衛文麿が高松宮邸を訪問。宮に「陛下にはまずいことがお耳に入っているのだろうか。お耳に入れるように。」と。そこで高松宮の娘婿の細川護貞によって昭和天皇への筋道を作り、近衛文麿や高松宮が和平交渉推進グループとなった。
昭和19年6月15日 米軍サイパン上陸開始
同年6月22日
高松宮は御所に上り、サイパンを死守するか戦争を終結するかと提言するも、昭和天皇は内閣など責任あるものの意見しか聞かなかった。
「サイパンを失うことの重大に関し一言申しあぐ。あとつけ足りに皇族をどうしてご相談相手になさるおぼしめしなきや、伺いしところ(昭和)「政治には責任あったから出来ぬ」(高松)「統率の方も責任あるべし」結局お頼りになる者なしとのことでしょうか。(昭和)「それは語弊あり」相変わらずにて落胆す。」
同年6月24日 サイパンの放棄を大本営が上奏。
天皇は裁可せず25日元帥会議を開き意見を求めた。結論はサイパンの放棄だったが、この時点でも和平を言い出さず戦争継続の軍部を抑えない昭和天皇と高松宮の間で激論が交わされた。
同年6月26日
「元帥上奏御決定のことなれば「ひっくり返すことなし」とのお話あり。「ひっくり返すにあらず」サイパン確保と言い、実行せざることに問題あり云々からヒツコイとのことであった。」
同年7月7日 サイパン陥落 日本の敗戦は確定的となるも東條首相は終戦の方向には踏み出さず内閣改造と大本営の強化で戦局の危機を乗り切ろうとしたため、反東條の声が一斉にあがった。
この頃東條暗殺の話を高松宮と細川護貞は交わした。降伏といったら軍部から狙われるから言えないというが、東條は誰が言っても聞かない。東條を殺す以外に方法はない。しかし相手の方が情報網が発達しているのでそんなことを言ったらこちらがやられる、と宮は言った。やられる前にやるしかないが、陛下の親任している人物を自分がやるわけにはいかない。
同年7月18日 東條内閣総辞職
昭和19年9月16日 海軍少将高木惣吉が高松宮のもとを訪れる
高木は、宮は和平を説くが国民は玉砕を叫んでいると言った。宮は「そんな玉砕なんて出来ぬことをいっても駄目なり。七生報国の生きて護国の任を果たす心が国民になくてはならぬ。死ぬなんて生易しい時はすでに通り過ぎてる。悠久な日本を守るために和平も考えてよい。考えねばならぬ。」 これについて高木メモではこう記す。「条件は簡単だ。国体の護持これだけだ。」つまり天皇の存続が問題だった。
昭和20年1月26日 京都近衛文麿の別邸陽明文庫で内談したが内容は不明。
前日近衛文麿は米内光政、岡田啓介らと退位した天皇を京都に住まわせることを協議した。
連合軍が陛下の責任を追及した時は、先例に倣い陛下を仁和寺にお連れし、出家を願ってはいかがかと考える。裕仁法皇として迎える計画だった。一年前には高松宮はご退位は歴史にもたびたびあることでお上がそのお気持ちならすぐ出来ると思うと言っていた。
昭和20年6月6日 最高戦争指導会議は陸軍の主張する本土決戦、徹底抗戦を決定。
8日の御前会議も同様の決定。
昭和20年6月21日 細川日記(細川護貞)
「合理的なる理由をもって戦争を終結しようとする努力は、常に陸軍の精神論のために阻まれる。したがって我々も非合理的なる方法(天皇による和平)によらなければならない。」
同年8月10日 御前会議
国体に変化がない限りポツダム宣言を受託との聖断をくだす。
同年8月12日
国体は連合国の管理下。連合国側からは国は国民の自由意志にゆだねられるとの回答。
天皇は皇族を呼び意思を統一して対処することを呼びかける。
「陛下より今回のご決心をお示しあり。皆、国体護持に御思し召しに沿って勤める旨、梨本宮よりお答えし各自の意見などそれぞれ申し上げ17時頃散会。夜、三笠宮来たり。阿南(あなみ)大将の考え方、お上のお考えと大いに異なるから鈴木総理の意見を聞かんとのこと。明朝来ることに約束す。」
問題は阿南陸将をどう抑えるかだった。
同年8月13日、三笠宮と鈴木貫太郎首相が高松宮邸を訪れる。
「三笠宮、鈴木総理大臣来り。阿南大将の考えにつき語る。総理大臣は、最後は思し召しによって総てをする点につきては阿南を疑わずと。」
同年8月14日 最後の御前会議
阿南陸将は降伏反対を述べる。天皇は皆のものは私の意見に賛成してほしいと前置きし、
ポツダム宣言の無条件受諾を聖断。
8月15日以降も徹底抗戦の動きが陸海軍の中にあった。
皇族軍人は聖断の趣旨を伝えるため現地へ向かい、高松宮は厚木の海軍航空隊を説得。マッカーサー元帥の命令を陛下は受けるしかないが良いのかという質問に、そういうことはない、陛下と元帥との関係が一時的にどうなろうと将来はそういうことはないと説明する。
同年8月28日 連合軍専攻部隊厚木飛行場へ
同年9月3日
「マッカーサーは天岩戸開きの手力男命の処をつとめるものだという見方あり。こうした考え方でゆくと大きく国体護持もできるかもしれぬ。マッカーサーは確かに人物も大なりという見方をする者多し。米国の燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけである。」
同年9月11日 GHQ東條ら戦争指導者39人を戦争犯罪容疑者として逮捕。
アメリカの世論は天皇の責任を厳しく追及していた。高松宮は外務省の役人を訪ね天皇を法廷で喚問させる、または訴追の対象にしてはいけないとの話をする。
同年9月27日 天皇、マッカーサーを訪問。40分会談。
天皇は戦争遂行に責任を負うものとして自らを連合国の採決にゆだねると言ったと、後にマッカーサーは回想している。しかし会見記録は公開されていない。高松宮日記より「御前10時、陛下にはマッカーサー元帥ご訪問。マッカーサーは室内にて出迎え握手、welcome云々とて出迎えして肩をかかえるようにしてご案内。並んで腰掛、一度立って伍撮影。それから訳15分、マッカーサーは一人で語る。マ「戦争の破壊力は極めて大となれり。今後の戦争は勝敗何れとも甚だしき損害を受くべし」「陛下は実によい時機に戦を止められた。」昭「戦争にならぬ様に努めてたが及ばなかった」マ「一人の力ではどうともならぬ事がある」昭「自分も国民も十分に戦敗を認め知っておる」マ「陛下は一番日本国国民をご存知の方である。今後お考えのこと、重大なるご心配あれば、極秘裏に伝えられたい。マッカーサー一人で十分考えて協力する。」昭「今後、かかる機会をたびたび持ちたい。」予定は室内でマッカーサーは見送るはずなりしも、自然に玄関までお見送りに出てきた。」
この日記から開戦には反対だったが軍の動きを止められなかったとする天皇にマッカーサーが理解を示したことがわかる。
海外でどのように報道されているか高松宮は収集していたため会見前に数年間日本が占領され、天皇がマッカーサーのもとにあることを知っていた。マッカーサーと天皇の会見2日前に天皇がアメリカプレスと行った会見の回答文書(幣原外務大臣が作成)が見つかった。この文書では日米開戦の責任について「陛下は東條大将が宣戦の詔書を使用せるごとくこれが使用せらることは予期しておられませんでした。」と天皇の予期に反して戦争が行われ、東條に責任ありという日本側の見解をアメリカ側に伝えていた。しかしこれで国体が守られるのか高松宮の不安は消えなかった。
昭和20年10月25日
「蜂が窓から入って手にとまる。弱っている。払い落として踏み殺す。これが蝶ならほったらかしておくものを、刺すほど力なき蜂でも刺されるという観念は恐怖心を起こさせて、力なき蜂は殺される。米国は武装国家として戦勝国として残る以上、実力を持たなければ蜂の運命を辿る。蝶となるか蜂となるか。」占領下の皇室や日本の脆弱さを憂うもの。
高松宮は戦後の皇室改革案を検討
皇室の持つ土地の一般解放、皇太子の留学と米国の教育を受けさせること。
皇居の移転について秩父宮への手紙
「陛下が江戸城にお住まいのことがよくないと思います。是非城でない御所にお移りのことと思います。これも考えに入れて東京から京都に遷都あそばしたらと思います。」
同年12月2日 GHQは59人の戦犯容疑者を追加逮捕の命令。
梨本宮も含まれる。4日後、天皇の側近だった近衛文麿にも逮捕命令。
同年12月16日 近衛服毒自殺。
同年12月17日 高木が高松宮を訪れた。
宮はGHQが皇室解体を目指しているのではと心配し、天皇退位による危機打開策を語る。
高木メモより
「いつかなる順序で御譲位なるがよろしいか。御譲位になってしまえば向こうは利用価値がないから個人としての御上を追及する危険もあるし、さればと言って漫然と過ごせば向こうから戦争責任を追及されてそれから御譲位を迫られては猶更具合が悪い。ここに難しいところがある。しかし国をこの事態に陥れられたことについて、御上は皇祖皇宗に対してこのままではおすましになれぬ。ご責任があるからこれはどうしても御退位にならなければならぬ。ただその時期と方法とが難しい。」
連合国には戦争の責任の追及の声が高かったがマッカーサーは天皇制を維持しながら民主化を進める方法を固めていった。マッカーサーは戦前の天皇制の改革に着手。
同年12月15日 国家神道を禁ずる。
昭和21年1月1日
天皇は現人神(あらひとがみ)、現御神(あきつみかみ)ではないという人間宣言を発表。高松宮は人間天皇を思いやりにあふれ、繊細で生真面目だという談話を発表。
同年21年1月1日
「寝正月のつもりで夕食してすぐ寝る。これで少しは元気を出したいものだ。詔書発布。誠に結構なるものだった。」
また日記では「現御神」より「神」ではないと明快に言うべきだったとする。
オーティス・ケーリ GHQ民間情報教育局
6回ほど高松宮と会う。宮に皇室改革案を提言。
焼け野原の日本を励ますのは天皇だと。
宮中では新しい天皇像を作る。
アメリカの雑誌「LIFE」に天皇一家の団欒の写真を掲載。題は「裕仁家の日曜日」。最後のページにはリンカーンの前で天皇が英字新聞を読む写真が出た。
同年21年2月27日 フェラーズからのメッセージが届く
今後の天皇の処遇について
「陛下が唯一の現実の指導適格者と認めるからもっと積極的になさるが良い。マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる。」
天皇の退位は必要ない、アメリカは天皇を裁くつもりがないことをマッカーサーは宮に伝えたのだ。が、まだ各国から東京裁判には検事が派遣され予断が許されない。極東軍事裁判を控え高松宮邸では晩餐会が開かれGHQの高官が招かれた。宮内庁が人選を行い、陛下が平和を愛する人だということをアピールした。
同年5月3日 東京裁判開廷
A級戦犯28名が起訴。昭和天皇の名はなし。
同年11月3日 天皇を国民統合の象徴とする新憲法が公布。
東京裁判の最中、天皇は退位についてGHQに打診したが受け入れられなかった。
同年11月12日 東京裁判の判決が下された。
天皇は退位せずとの決意をマッカーサーに伝えたという。
日記は昭和22年をもって終わっている。
高松宮妃が高松宮の死後その日記の公開を決定した。かなり宮内庁の反対もあったようだが、昭和の歴史の重要な証拠の一つとして発表された。以下、番組から。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃、「ハワイ」奇襲成功 暗号電報、外国の電報が日記には多数書き記される。当時宮は軍令部に勤務。1週間前の御前会議で真珠湾は決定しており、これを宮は知っていた。前日に宮邸で晩餐会が開催予定だったが「後世の歴史家の誹りを受けるだろう」という昭和天皇の言葉でひっそりと晩餐会が開かれたことが記されている。真珠湾攻撃の前夜、高松宮はあまり寝ていないかった。
10年前の新婚旅行では高松宮夫妻は最終訪問地アメリカで日米友好を訴えた。渡米前に宮にもたらされた昭和天皇の手紙
「私はかねてから英米との協調によって世界平和を確保せんと考えております。私の微志を察して渡米の暁には尚一層外交上のために努力をなさることを切望致します。長きご旅行のことゆえお体をお大切に帰国されることを望みます。妃殿下によろしく。昭和6年3月8日
裕仁 高松宮様」
昭和6年9月 満州事変
昭和8年 国際連盟脱退
昭和9年1月17日
「私は戦争をどうしても日本のためにも道徳の上からも進んでやるべしとは思えない。死力を尽くしても避くべきであると信ずる。」
昭和12年6月2日
「米国の東洋における関心は支那以外にはない。日本の大陸政策が米国を刺激せざるをえざる以上日米開戦の機会はないと言い得る。しかし今日の陸軍の状況においてこれを信ずるのは容易ではない。」
昭和12年7月7日 日中戦争勃発
同年7月14日
「陸軍の統制は今尚極めて不十分なるを組織の上より感ず。北支事件も発砲は支那が先か知らねど発砲せしむるごとき演習をなすことにも十二分の欠点あり。あるいは支那兵営に突撃の教練をなしたり、あるいは内地と同様にしかも現地にて演習するは不謹慎なり。」
昭和15年11月11日 紀元2600年奉祝会
奉祝会にて「臣 宣仁」と昭和天皇に奉じる高松宮。天皇を中心とする国民総動員の中で、昭和天皇と高松宮は兄弟から君子と臣下になった。
昭和16年以降は軍事日誌のようになる
昭和17年6月5日 ミッドウェー海軍が激突、壊滅的敗北を知り、昭和天皇へ手紙を書く。
「海軍は機関兵力を失ったので、この戦いはだめだ。一日も早く終戦をお考え頂きたい。
兄宮へ」
昭和17年8月7日 米軍ガタルカナル上陸開始
「ソロモン海戦の大本営発表は実にデタラメでけしからぬ話なり。今度の様なのは実に甚だしく内外ともに日本の発表の信じられぬことを裏書することになる。敵の攻略企図も上陸もいわずにまるで「ネツゾウ」記事なり。あとの報道にも差し支える。」(放送画面では朝日新聞の日本軍大勝の記事。ただし「朝日」の「朝」の部分は見せず。)
同年10月25日 近衛文麿が高松宮邸を訪問。宮に「陛下にはまずいことがお耳に入っているのだろうか。お耳に入れるように。」と。そこで高松宮の娘婿の細川護貞によって昭和天皇への筋道を作り、近衛文麿や高松宮が和平交渉推進グループとなった。
昭和19年6月15日 米軍サイパン上陸開始
同年6月22日
高松宮は御所に上り、サイパンを死守するか戦争を終結するかと提言するも、昭和天皇は内閣など責任あるものの意見しか聞かなかった。
「サイパンを失うことの重大に関し一言申しあぐ。あとつけ足りに皇族をどうしてご相談相手になさるおぼしめしなきや、伺いしところ(昭和)「政治には責任あったから出来ぬ」(高松)「統率の方も責任あるべし」結局お頼りになる者なしとのことでしょうか。(昭和)「それは語弊あり」相変わらずにて落胆す。」
同年6月24日 サイパンの放棄を大本営が上奏。
天皇は裁可せず25日元帥会議を開き意見を求めた。結論はサイパンの放棄だったが、この時点でも和平を言い出さず戦争継続の軍部を抑えない昭和天皇と高松宮の間で激論が交わされた。
同年6月26日
「元帥上奏御決定のことなれば「ひっくり返すことなし」とのお話あり。「ひっくり返すにあらず」サイパン確保と言い、実行せざることに問題あり云々からヒツコイとのことであった。」
同年7月7日 サイパン陥落 日本の敗戦は確定的となるも東條首相は終戦の方向には踏み出さず内閣改造と大本営の強化で戦局の危機を乗り切ろうとしたため、反東條の声が一斉にあがった。
この頃東條暗殺の話を高松宮と細川護貞は交わした。降伏といったら軍部から狙われるから言えないというが、東條は誰が言っても聞かない。東條を殺す以外に方法はない。しかし相手の方が情報網が発達しているのでそんなことを言ったらこちらがやられる、と宮は言った。やられる前にやるしかないが、陛下の親任している人物を自分がやるわけにはいかない。
同年7月18日 東條内閣総辞職
昭和19年9月16日 海軍少将高木惣吉が高松宮のもとを訪れる
高木は、宮は和平を説くが国民は玉砕を叫んでいると言った。宮は「そんな玉砕なんて出来ぬことをいっても駄目なり。七生報国の生きて護国の任を果たす心が国民になくてはならぬ。死ぬなんて生易しい時はすでに通り過ぎてる。悠久な日本を守るために和平も考えてよい。考えねばならぬ。」 これについて高木メモではこう記す。「条件は簡単だ。国体の護持これだけだ。」つまり天皇の存続が問題だった。
昭和20年1月26日 京都近衛文麿の別邸陽明文庫で内談したが内容は不明。
前日近衛文麿は米内光政、岡田啓介らと退位した天皇を京都に住まわせることを協議した。
連合軍が陛下の責任を追及した時は、先例に倣い陛下を仁和寺にお連れし、出家を願ってはいかがかと考える。裕仁法皇として迎える計画だった。一年前には高松宮はご退位は歴史にもたびたびあることでお上がそのお気持ちならすぐ出来ると思うと言っていた。
昭和20年6月6日 最高戦争指導会議は陸軍の主張する本土決戦、徹底抗戦を決定。
8日の御前会議も同様の決定。
昭和20年6月21日 細川日記(細川護貞)
「合理的なる理由をもって戦争を終結しようとする努力は、常に陸軍の精神論のために阻まれる。したがって我々も非合理的なる方法(天皇による和平)によらなければならない。」
同年8月10日 御前会議
国体に変化がない限りポツダム宣言を受託との聖断をくだす。
同年8月12日
国体は連合国の管理下。連合国側からは国は国民の自由意志にゆだねられるとの回答。
天皇は皇族を呼び意思を統一して対処することを呼びかける。
「陛下より今回のご決心をお示しあり。皆、国体護持に御思し召しに沿って勤める旨、梨本宮よりお答えし各自の意見などそれぞれ申し上げ17時頃散会。夜、三笠宮来たり。阿南(あなみ)大将の考え方、お上のお考えと大いに異なるから鈴木総理の意見を聞かんとのこと。明朝来ることに約束す。」
問題は阿南陸将をどう抑えるかだった。
同年8月13日、三笠宮と鈴木貫太郎首相が高松宮邸を訪れる。
「三笠宮、鈴木総理大臣来り。阿南大将の考えにつき語る。総理大臣は、最後は思し召しによって総てをする点につきては阿南を疑わずと。」
同年8月14日 最後の御前会議
阿南陸将は降伏反対を述べる。天皇は皆のものは私の意見に賛成してほしいと前置きし、
ポツダム宣言の無条件受諾を聖断。
8月15日以降も徹底抗戦の動きが陸海軍の中にあった。
皇族軍人は聖断の趣旨を伝えるため現地へ向かい、高松宮は厚木の海軍航空隊を説得。マッカーサー元帥の命令を陛下は受けるしかないが良いのかという質問に、そういうことはない、陛下と元帥との関係が一時的にどうなろうと将来はそういうことはないと説明する。
同年8月28日 連合軍専攻部隊厚木飛行場へ
同年9月3日
「マッカーサーは天岩戸開きの手力男命の処をつとめるものだという見方あり。こうした考え方でゆくと大きく国体護持もできるかもしれぬ。マッカーサーは確かに人物も大なりという見方をする者多し。米国の燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけである。」
同年9月11日 GHQ東條ら戦争指導者39人を戦争犯罪容疑者として逮捕。
アメリカの世論は天皇の責任を厳しく追及していた。高松宮は外務省の役人を訪ね天皇を法廷で喚問させる、または訴追の対象にしてはいけないとの話をする。
同年9月27日 天皇、マッカーサーを訪問。40分会談。
天皇は戦争遂行に責任を負うものとして自らを連合国の採決にゆだねると言ったと、後にマッカーサーは回想している。しかし会見記録は公開されていない。高松宮日記より「御前10時、陛下にはマッカーサー元帥ご訪問。マッカーサーは室内にて出迎え握手、welcome云々とて出迎えして肩をかかえるようにしてご案内。並んで腰掛、一度立って伍撮影。それから訳15分、マッカーサーは一人で語る。マ「戦争の破壊力は極めて大となれり。今後の戦争は勝敗何れとも甚だしき損害を受くべし」「陛下は実によい時機に戦を止められた。」昭「戦争にならぬ様に努めてたが及ばなかった」マ「一人の力ではどうともならぬ事がある」昭「自分も国民も十分に戦敗を認め知っておる」マ「陛下は一番日本国国民をご存知の方である。今後お考えのこと、重大なるご心配あれば、極秘裏に伝えられたい。マッカーサー一人で十分考えて協力する。」昭「今後、かかる機会をたびたび持ちたい。」予定は室内でマッカーサーは見送るはずなりしも、自然に玄関までお見送りに出てきた。」
この日記から開戦には反対だったが軍の動きを止められなかったとする天皇にマッカーサーが理解を示したことがわかる。
海外でどのように報道されているか高松宮は収集していたため会見前に数年間日本が占領され、天皇がマッカーサーのもとにあることを知っていた。マッカーサーと天皇の会見2日前に天皇がアメリカプレスと行った会見の回答文書(幣原外務大臣が作成)が見つかった。この文書では日米開戦の責任について「陛下は東條大将が宣戦の詔書を使用せるごとくこれが使用せらることは予期しておられませんでした。」と天皇の予期に反して戦争が行われ、東條に責任ありという日本側の見解をアメリカ側に伝えていた。しかしこれで国体が守られるのか高松宮の不安は消えなかった。
昭和20年10月25日
「蜂が窓から入って手にとまる。弱っている。払い落として踏み殺す。これが蝶ならほったらかしておくものを、刺すほど力なき蜂でも刺されるという観念は恐怖心を起こさせて、力なき蜂は殺される。米国は武装国家として戦勝国として残る以上、実力を持たなければ蜂の運命を辿る。蝶となるか蜂となるか。」占領下の皇室や日本の脆弱さを憂うもの。
高松宮は戦後の皇室改革案を検討
皇室の持つ土地の一般解放、皇太子の留学と米国の教育を受けさせること。
皇居の移転について秩父宮への手紙
「陛下が江戸城にお住まいのことがよくないと思います。是非城でない御所にお移りのことと思います。これも考えに入れて東京から京都に遷都あそばしたらと思います。」
同年12月2日 GHQは59人の戦犯容疑者を追加逮捕の命令。
梨本宮も含まれる。4日後、天皇の側近だった近衛文麿にも逮捕命令。
同年12月16日 近衛服毒自殺。
同年12月17日 高木が高松宮を訪れた。
宮はGHQが皇室解体を目指しているのではと心配し、天皇退位による危機打開策を語る。
高木メモより
「いつかなる順序で御譲位なるがよろしいか。御譲位になってしまえば向こうは利用価値がないから個人としての御上を追及する危険もあるし、さればと言って漫然と過ごせば向こうから戦争責任を追及されてそれから御譲位を迫られては猶更具合が悪い。ここに難しいところがある。しかし国をこの事態に陥れられたことについて、御上は皇祖皇宗に対してこのままではおすましになれぬ。ご責任があるからこれはどうしても御退位にならなければならぬ。ただその時期と方法とが難しい。」
連合国には戦争の責任の追及の声が高かったがマッカーサーは天皇制を維持しながら民主化を進める方法を固めていった。マッカーサーは戦前の天皇制の改革に着手。
同年12月15日 国家神道を禁ずる。
昭和21年1月1日
天皇は現人神(あらひとがみ)、現御神(あきつみかみ)ではないという人間宣言を発表。高松宮は人間天皇を思いやりにあふれ、繊細で生真面目だという談話を発表。
同年21年1月1日
「寝正月のつもりで夕食してすぐ寝る。これで少しは元気を出したいものだ。詔書発布。誠に結構なるものだった。」
また日記では「現御神」より「神」ではないと明快に言うべきだったとする。
オーティス・ケーリ GHQ民間情報教育局
6回ほど高松宮と会う。宮に皇室改革案を提言。
焼け野原の日本を励ますのは天皇だと。
宮中では新しい天皇像を作る。
アメリカの雑誌「LIFE」に天皇一家の団欒の写真を掲載。題は「裕仁家の日曜日」。最後のページにはリンカーンの前で天皇が英字新聞を読む写真が出た。
同年21年2月27日 フェラーズからのメッセージが届く
今後の天皇の処遇について
「陛下が唯一の現実の指導適格者と認めるからもっと積極的になさるが良い。マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる。」
天皇の退位は必要ない、アメリカは天皇を裁くつもりがないことをマッカーサーは宮に伝えたのだ。が、まだ各国から東京裁判には検事が派遣され予断が許されない。極東軍事裁判を控え高松宮邸では晩餐会が開かれGHQの高官が招かれた。宮内庁が人選を行い、陛下が平和を愛する人だということをアピールした。
同年5月3日 東京裁判開廷
A級戦犯28名が起訴。昭和天皇の名はなし。
同年11月3日 天皇を国民統合の象徴とする新憲法が公布。
東京裁判の最中、天皇は退位についてGHQに打診したが受け入れられなかった。
同年11月12日 東京裁判の判決が下された。
天皇は退位せずとの決意をマッカーサーに伝えたという。
日記は昭和22年をもって終わっている。
(米軍の新兵器の一つに、散弾を詰めた砲弾を放つ戦車砲がありました。ヨーロッパ戦線では非人道的という理由で使わなかったもので,米軍はこれを日本軍のバンザイ突撃には有効に使ったそうです。)
米軍を「偵察上陸」と見くびって、未明の歩兵突撃で陣地を突破できるとした軍首脳の作戦の杜撰さに呆れます。正確な情報を与えず、精神力で「何とかなる」という作戦を兵士に強いていたのです。
”一木支隊はこの作戦の直後、真夜中に旭川連隊本部に現れ,自分たちの兵舎に戻るのが目撃された。しかし朝になると兵舎には誰もいなかった。”という逸話が残されています。兵士たちはあまりにも無念だったので、亡霊として戻ってきたのでしょうか。
一木支隊の全滅は、しかし教訓とされず、日本軍は同じパターンを後々も繰り返しました。
《昭和17年(1942年)8月7日アメリカ海兵隊1万1千人の兵力が、日本による飛行場建設が完遂した直後を狙って、ガダルカナル島への上陸を敢行します。これは連合国側の太平洋反攻作戦の第一歩でした。米軍ガダルカナル上陸は直ちに,日光で静養中の天皇に伝えられます》
”・・・昭和天皇は即座に事の容易ならざることを認識して愕然となったという。そしていった。
「それは米英の反攻の開始ではないか。事は重大となった。いまは日光なぞで避暑の日を送っているときではない。即刻帰京して、憂いをわかち統帥部とともに策を練らねばならない。帰還の用意をするように。」(内大臣木戸幸一の日記より。)
~半藤氏は天皇の鋭い戦略目に瞠目しています。天皇の驚愕にも関わらず、軍部は
米軍の動向は「偵察上陸」でたいしたことはございませんと天皇を安心させて,東京への帰還を思い止めさせたといいます。
この話は、2ヶ月前にミッドウエイ作戦で手痛い敗北を喫したのに(日本空母4隻が撃沈され、主力の機動部隊を失った)、相変わらず米軍を過小評価する思い込みを軍部が捨てていなかったことを伝えています。
木戸日記によれば,日米開戦(1941年12月真珠湾攻撃以降)からシンガポール攻略、フィリピン攻略、オランダ領ジャワ島占領等で連戦連勝当時,天皇は作戦に深く関わり上機嫌であったことも記しています。半藤の、昭和天皇が軍参謀以上の戦略眼を持っていたという指摘と考え合わせると興味深い記述です。