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せいかつ創庫

野球・音楽・アート・街の風景など、自分自身のネタ創庫。
野球の楽しみ方、考えてます。自作イラストの展示も。

I LOVE SURPASS #6

2009年04月21日 | 惜別!サーパス
ずいぶん間が空いていますが、、
サーパス(神戸)を愛する企画。。。


まだまだ言いたいこといっぱいです!!



前回、
サーパスの応援を展開し、野球仲間だけでなく選手や関係者の皆さんとも顔見知りになって、サーパスに求めるもの、サーパスへの思いを深めていったというお話をさせていただきました。


とくに、
今日はそのなかで思い出深い関係者の方々とのエピソードをご紹介したいと思います。



その1



馬場敏文コーチ

言わずもがな!!

鬼ノック。。。
声をあげればあげるほど”ヤッて”くれる(笑)。

いやぁ
いい時代でした。。

今年からオリックスのコーチに復帰されましたが、今年は年明け早々にプライベートで交通事故に遭って骨折!

のっけから受難に見舞われましたが、まだまだお若い!
現場で選手達を牽引する存在を期待しています。




米村理コーチ

サーパスの親分のようなオッサ…いや、コーチですね。
長年コンディショニングコーチとしてチームを支えておられます。

米村さんのキャラクターは数えきれずなエピソードがありますね(笑)。



前述の応援団を地方球場の外野席でやったりすると、ふだんファームで間近で見られない、練習中の投手へのウォーミングアップの指導ぶりが見られます。

30Mダッシュで時間を計るのではなく、

「○秒で走れ!」

と、時間を逆に指定して、ニアピンを競わせたり、、


外野でフェンス越しに見ているボクたちに

「おぉい、応援団!今日は少ないやないか。もっとかき集めてこいや!」

と絡んできたり・・・


いやいや、かき集めるって。。。(笑)。





最高に笑えたのが、北陸遠征時にサーパスバスに置いてあった”その筋”系のDVD。。。

米村さんのだった。。。とか。




淡路島で開催された試合。
ここは海辺の風光明媚な場所に立地する総合運動公園なのですが、、、




海を望む堤防に、サボる投手陣を発見!!

一番態度のデカい真ん中の、、、誰やあれは!?
と、カメラを寄ってみれば、、、




米村さん。。

いやぁ
尽きん尽きん!!
今は一軍行っちゃったんですけど、チームに対するポジティブな姿勢。
そのキャラクターで人をつかむ。面倒見のいい、味のあるコーチ。

チームにとっては貴重な存在です。


そうそう!
花木さんの美化運動の言いだしっぺでもありました!!





山森雅文コーチ




山森さんはファンの多い方でしたね。
明るくて声が大きくて、ファームの元気はつらつなコーチでした。




山森さんからはユニフォームも(!)頂きました。

これは、ボクの貴重なお宝となっています。。。



ほかにも、、



別府修作コーチ



酒井勉コーチ


まぁ
今でもいらっしゃる方ばかりなのですが、”現場”という一番近い場所で指導を拝見してほんとうに魅力あるコーチ陣です。





そして、藤井康雄コーチ!!


今にいたるナイスガイなコーチ陣たちはフレッシュでない(爆)サーパス陣のなかで、ときには選手よりも光りを放っておられます。


そう見てるからかな。。




康雄さんは、ボクにご自分が使ってらっしゃったサーパス帽子を頂いたこともあります!!

山森コーチに続き、サーパスファンやってて幸せだったと、いまでも認識できる代物です。


ほんとうに、選手以上に個性的で、熱いものを持っているコーチ陣。
いまだオリックスにいらっしゃる方ばかりなので、今後も応援していきたい方ばかりです。



個性的で魅力ある人たち、、


ちょっと外れてみましょう。




中村潤さん


コードネーム、Jさん

ボクたち的に、こう呼んでいました。。。
それは、職種が幅広いということで、、、。



肩書きは広報。

ただ、
広報兼、いろいろなお仕事。。。




サーパス初期に、おもにあじさいで試合運営だけでなく、サブマネージャーのような仕事も。
こうしてお客さんに来場プレゼントをサンプリングしたり、何でもこなせたなかなかキレ者な御方です。





いろんなお仕事、、、




ボクたちだけに!シートノックをやってくれたり(笑)。
ちっさいオッサンなんですけど(爆)、野球も上手いんですよ。



と思えば、
試合中に遠くを見つめながら風に当たる姿を見たり、、、


客と絡んで楽しそうだったり、、、



「Jさんがさっきあそこで○○していた。。」



とか、
その行動が妙に話題になる興味深い方。



仕事は多岐にわたるんです。。(笑)



サーパス広報の職を移られてからは、渉外担当になられて選手獲得に走り回る日々を送られております。



ブランボーを獲ってきたりしましたね。



韓国に調査に行ったあとに「何かいいもの見られました?」


と聞けば、




やっぱちがうね~
本場の焼肉は。。。



はぐらかしたり、、、


遊び相手のようで、遊び相手にさせられていた・・・印象が強い方です。



でも
数少ないスタッフの中で、いろんな仕事を要領よくこなせる方っていらっしゃいます。


そういう方に限って、けっこうマイペースだったり。

でも、その裏でしっかり仕事をやられていたり、、、。



やっぱ要領がいいんですね。

職員にはもってこいですね。



個性キツいサーパスファンを相手に出来る。奥深い魅力を持ちえた職員さんでした。






熊谷マネージャー


この方は、最近では一軍マネージャーとして定着し、清原の広報をやったり、、この方もまたキレの良さと要領の良さを持ち得た”できる”裏方。

現場ではブルペンキャッチャーもこなし、ボクたちにもいろいろと相手になってくださった方です。




要領の、、、
いい人ばかりですが、、





ナンだぁこいつぁ


閑話球題で有名人と化した谷山氏。


サーパスではJさんを引き継いで広報をやっていました。

これが、、、Jさんのあとの広報ですから、、、



仕事のキレが、、、、




↑この始末ですからね(爆)


でも
この人、もともとは通訳で入ってきているんで、頭のいい人なんですよ!!



昔、サーパスで調整していたシェルドンに声をかけたら、、


「クレイジー ゼア…」


こらこら!
変な印象を植え付けるなー(怒)!!




楽しい方なんですけど、ちょっとムカつくこともいささかあったので、シートノックのとき、暴投に見せかけてヤツの足を狙いましたよ~~(爆)。



ウソですよ!!







ほかにも、いまだカラーリングを変えて現役のサーパスバスはもちろん、ファームを追いかけていると、選手との距離が近いだけじゃなく、こうしたコーチや裏方さんのお仕事、素顔も近くで伺うことが出来、それもまた魅力でした。


ボクたちがサーパスを応援し、盛り上げるためにはどうすればいいか!?


それを、ファンの分際でも”真剣”に考えることが出来た。



こんな経験、普通にファンやってたらできません。



甲斐あって、
いろんなお話も聞けたし、意見することも出来たし、ユニフォームもらったり、、、ほんとうに充実していました。



チームも変わると、組織も変わるし、方針も変わる。。

バファローズが人気チームになってくれることはとても嬉しいことですが、人気が増えると…マナーの問題やらいろいろあって、ファンとチームに敷居を高く置かざるを得なくなる。。。



ファームを観ている人、関わっている人は、他のその人たちよりもいい意味でも悪い意味でも気持ちが広いと思う。



純粋に野球が好きで、長いスパンで選手を支えている人が多いと思う。


そんな独特な雰囲気がまた、ファームの魅力。



ファームを見に来るファンが増えるのは選手にとってもいいことだし、チームにとってもいいこと。


だけど、
長いスパンでファームを観ている人間として、こんな日記が書けるようなファーム独特の価値観、、、理解してほしいなと思っています。



価値観を分かっているから関われる関係が出来たとも思っています。


それが、
ファンが増えると、それを単に「無法地帯」と勘違いする人がいて、マナーの低下につながる。


それが一番悲しいことです。


ファン同士でこんなこと、大きな声では言いたくないですが、、、
球団が合併して、清原が入って、、

と言っているうちに、こうしたマナーはどんどん低下してきていると!感じています。



話がそれました、、、


閑話球題(笑)



そして、
サーパス応援のなかで、何よりも欠かせない、最高の友人の存在を、忘れちゃいけません。。




われらがサマシルですよ。。。


次回は、このサマシルとの思い出を語ります!!

I LOVE SURPASS #5

2009年03月17日 | 惜別!サーパス
さて、
サーパスの歴史を綴り、サーパスの功績(?)とボクらの思い出をお伝えする企画。

歴史という点では、チーム的にも一番のヤマであり、ボクら的にも一番思い出深い2003年から2005年にかけてを紹介していこうと思います。



この時期、
ボクらは前面に出てまさにサーパス神戸を”応援”した時期でありました。




まず2003年
この年、じつは今回のようなサーパスの名称消滅騒動が起きているんです。




このとき、一旦穴吹工務店はオリックス球団との契約を解消しました。

しかし、
「ファンの根強い声があり、チーム名として定着しつつあるから」

という理由で、サーパスの名前が存続したのです!!


このときは、
穴吹社長や関係者にボクたちも声をあげて、あくまで抗議ではなく、前向きな提案等を行ないました。


ボクだけじゃないでしょう。

でも、のちにボクらの声が確実に届いていたことは聞いています。



それを聞いて、
サーパスはまさしくボクたちで盛り上げていくチームだ!!

と確信しました。



それ以来、
いろんなカタチで意見を述べたり、関係者さんと接触できたり、、、ファンがサポートできる体制のなかにボクは確実にいました。

そして、
表向きにも、サーパスを応援していることをアピールし、サーパスを守っていきたいという衝動にかられ、おぐりくんと結成したのが、、、




「サーパス応援団」


でした。



もう過ぎたことなので、、、
応援団関係者の皆さん、許してください。。


というか、
本物の応援団の邪魔をするような活動ではなく、あくまで個人的かつ、ちょっと組織的な応援活動が中心でした。



でも
鳴り物も、、、ちょっと使いました・・・





ちょっとどころじゃないだろって??


うるさいよっ(爆)!!






オリジナルで応援の掛け声を考えたり、横断幕を作ってアピールしたり、、
というのがメインです。




ちなみに↑↑は、上記のサーパスの名称存続のために当時作った横断幕ですね。





レプリカのユニフォームを作ったのも、この応援活動の一環となりました。


こんなもんですわ。


また、
活動の場としては、本拠地球場ではなく、あえて地方球場に限定しました。



地方球場って、イベント色が強くて、ボクたちもサーパスを知らない地元の方にサーパスの選手を知ってもらいたい。
ボクたちの応援で楽しんでもらって、サーパスを好きになってくれれば、、

というコンセプトでした。


事実、前にも話しましたが、
↑でサインをもらっている少年野球の子達

2年連続で開催された岐阜県関市での中日ドラゴンズとの一戦で、やはり2年連続で見に来ていた子たち。

ボクらのことを覚えていてくれて、





「今日は橋本センセーおらんの?」


と、声をかけてくれました。


前年に、中学校の先生からBW入りした橋本投手を

「橋本センセー!!」

とコールしていたことを覚えていてくれていたんですね。



これこそ!
応援団冥利に尽きる!!

とばかりに、喜んだこともありました。



ほかにも
こういうちょっと笑えるようなアホな応援を考えるのは楽しいもので・・(笑)




(嶋村)一輝選手をつかまえて



「しまむらの、ちょっとイイとこ 見てみたい・・・

 イッキ! イッキ! イッキ!・・・・・・」



はい、
コレもボクの仕業でーーす(爆)。


サッカーや他のスポーツのコールで面白いものがあれば使ったり、藤本選手の応援歌が、名前が一緒ってだけで元モーニング娘の藤本美貴の歌からカバーしたり、、、


応援の勉強や、応援のために人の心をつかむ研究をしたくて、シーズンオフにはおぐりくんと他のスポーツ試合を見に行ったり、いろんなところにも出かけてみました。




こんな感じで、野球を楽しみ、サーパスを楽しむことが第一でした。


いや
昨今の応援団のパフォーマンスは複雑化してきて、クオリティも高くなってきているのはボク自身も賞賛できるくらいのものです。


でも!
応援の原点って、こういうところなんじゃないでしょうか??




少人数だから面白い。


人間も道具もないけど、純粋に野球を楽しむ一心で応援を考えると、とても充実していました。



このあたり、
90年代のロッテ応援に繋がっているような気がします。


事実、
ボク自身がサーパス応援にロッテ応援団時代の影響があることは、裏返しもなく間違いないです。





米村コーチなんかはけっこうな理解者でしたし、ボクたちの応援でも喜んでくれる人がいると思えば楽しかったですね。




そんなこんなで、
思い出に残っている試合をご紹介しましょう。



年は変わり、2004年。



球団合併で騒がれた「あの年」。。。


サーパスも、球団合併によりまたリセットされるのではないか・・・

そう懸念しながら、1軍もファームも見守っていました。


この年は前後期制を敷いていたウエスタン・リーグ。

前期は最下位だったものの、後期についてはある「希望」が舞い込んできた。





ウエスタン・リーグ2位の好位置!!

しかも、1位中日~3位阪神までの上位が最大で2ゲーム差にいる混戦のまま9月を迎えたのでした。


後期だけでも優勝できれば、ファーム選手権への可能性がある!!


それ以前に、
サーパス”優勝”というふた文字が歴史に残る!!


球団合併についてはあまり目立つ行動はしていなかったボクが、唯一こだわったのが、サーパスの快進撃と、サーパスの最後を優勝で飾ろうということ。


それが、
ファームに育ててもらったボクだからできること。
サーパスへの感謝の気持ちでいっぱいでした。


おぐりくんはじめサーパス応援仲間、そして神戸で会うBW応援仲間にもその気持ちは共有でき、盛り上がりました。



9月11日 ナゴヤ球場



スコアボードをよくご覧あれ。




この週末は中日との2連戦となったのですが、雨の予備日が消化できず、サーパス主催の試合もナゴヤで開催したという、ホーム&アウェーな試合。

ナゴヤ球場でサーパスのホームユニフォームが見られるという珍しい試合にもなりました。

ただ、ホームゲームは12日だったんですがね。

ナゴヤでホームユニを見れる、、、
というめぐり合わせも、ボクたちへの最後のご褒美になったのかな。。。




なんてうぬぼれながらも、
この試合で優勝がほぼ決まるという負けられない試合となり、ボクたちはナゴヤ球場の3塁側へ集結!




負けられない試合を、めいっぱい応援しました。





感動したのは、この「ファン不在」横断幕を神戸の仲間が持ってきてくれたこと。

メディアでも注目されたこの横断幕を持って、ナゴヤ球場にも「合併反対」を訴えることが出来た。。


のちに、
この日の試合をブログ等で綴っていた方のHP等々を見ることがあり、いろんな方がボクたちの応援に感慨を持ってくれていたことがわかったことも、とても嬉しかったです。


さらに!



この年を振り返る加藤英司監督のインタビュー記事の中で、ボクたちのことを取り上げてくれて、このときの応援が選手にも届いていたことを知ることも出来ました。




金田、マック鈴木の先発で望んだ試合は、2連敗。。。

優勝の夢はこのときほぼ解消されてしまいました。


それでも
こうしてサーパスというチームに希望をかけて応援できたことや、それに呼応して集まってくれた仲間たちがいたことに、サーパス応援をやってよかったな、、、という思いに胸がいっぱいになりました。



シーズンが終わり、合併が決まって、ほんとうに近鉄とオリックスブルーウエーブが消滅したのち、、

高知でよさこいリーグが開催されると、ほんとうに選手が旧来のユニフォームを着て最後となるこの大会を見に行こうと、高知に駆けつけて応援をしました。




よさこいリーグの最終戦となった阪神戦。
ここでも応援を展開し、最後のブルーウエーブでの選手たちとなったサーパスを見届けることが出来ました。





ボクたちは、てっきりこれでサーパスもなくなるものだと思い、やはり即興の横断幕を作って、最後の最後まで声を送りました。。。

このときの模様を高知新聞社「土佐路の球音」というコラム記事の中でも取り上げていただきました。


2003年、2004年と、ブルーウエーブにとっては低落の年であり、
前述の契約金ゼロ選手も次々といなくなり、、、そこにきて合併・・・と、ほんとうに苦しい時期になりました。


ただそこで、
合併を訴えていたことで絆が生まれたファンの方が多かったことと同じように、

ボクたちはサーパスを通じて応援する生きがいをもらったこと。

その声が方々に響いて、ボクたちで何かを動かせるのではないか・・・?と本気で思うことが出来たこと。

仲間が増えたこと。

選手や関係者とどこかで繋がっているなぁ、、、と実感できたこと。



これが、また現在に生きる財産となった年でもありました。



チームとしても、若い選手がほんとうに頑張った年でした。

平野、後藤、本柳、竜太郎。。。

われらイチオシの2002年組が活躍し、合併があっても、これからが楽しみな選手になるのかな。。。

という、小さな光りも感じた年でもありました。



年は変わり、オリックス・バファローズになった後も、サーパスは残りました。


球団の体制が変わり、サーパス神戸の「神戸」がなくなり、近鉄の選手が入ってきたり、、、

旧BWファンの中には、合併後の”サーパス”は、私たちのすきだった”サーパス神戸”とは非なるもの。


と、仰る方も少なくありません。


しかし
ボクは、合併しても残ったサーパスという名前を大事にしたかった。


ファームを応援する者としてのせめてもの希望とも思ったし、穴吹の意向も感じたから。


合併球団を前向きに応援している身だからこその意見かもしれませんがね・・・。



2005年以降も、サーパスの応援活動はしました。

しかし、
ホンモノの応援団にも規制が設けられる世の中にもなり、微力でも目立つ応援をやっていると方々の関係者に迷惑がかかってはいけないとも思い、音頭をとって応援を行なうことはやめました。



これ以降は、
現在にいたるTシャツ作りや、仲間内での応援ツアーなど、個人レベルの応援にとどまっていますが、サーパスへの思い、仲間との絆は色あせませんでしたね。




継続は力というし、ボクもサーパスを応援する意義とか、主張みたいなものを得た気がするし、何より野球を応援する自信ができた。


それが、いまのボクのEnjoy Baseballというテーマにもつながってきています。



大事な、だいじな年でした。

そして、
サーパスとの付き合いは、これ以降も続くのでした。。。






次回以降は、
サーパスを通じて得た”人”との思い出、そして、サマシルへの想い。


サーパスへの最後の”想い”をご紹介して、シリーズも終結させていきたいと思います。



サーパス神戸
2003年 前期:6位。後期:5位。
2004年 前期:6位。後期:3位。



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I LOVE SURPASS #4

2009年02月11日 | 惜別!サーパス
アロブーも必見かも。。。

今日は、ちょっとサーパスの歴史をひも解くコラムもひと休みです。


サーパスが世に出した”グッズ”の数々をご紹介したいと思います。




まず
サーパスは商標権の関係で、グッズを量産し販売することはありませんでした。

ゆえに、
こうしたファンサービスによる”先着プレゼント”を通じて配られたものが主なグッズとなります。





まず、サーパスが最初に作ったのは、ステッカーです。

サーパスのロゴやシルエットをデザイン化した、シンプルなステッカーですね。




その後、サマシルが誕生。
サマシルバージョンのステッカーが発行され、ぐっとにぎやかになります。

また、サマシルステッカーは後年も何種類か登場しています。


ところで、
そのサマシルといえば、、




サマシルはキャラクターとネーミングを、公募で決定させたんですけど、
これが、サマシルをお披露目した際のパンフレットです。




これがサマシルとの出会いです。
思えばアローズも応援することとなり、長いお付き合いとなりましたね。

ちなみに、サーパスバスについていた謎のキャラクターが次点作品だったり、佳作の欄にボクの作品が載っていたりします(笑)。





そのサマシルは
以降球場でも人気者となりましたが、こうして携帯のストラップとして配布もされました。




サマシルストラップは、まだアローズでも未発売の代物です。

また、2005年以降はお目にかかっていないので、初期からサーパスを応援している方だけが持っている!なかなか貴重なグッズの一つといえます。




こうして地方試合ではご当地のサーパスマンション宣伝の一環でも配布されていました。





バファローズ以降のサマシルストラップは、このように変化していっています。






さらにレアグッズ。
こちらはほんとうに初期にしか配布されていません。

サマシルのテレホンカードです。


テレホンカードってだけで貴重かも、、、
でも、テレカの価値は下がってるんでしたっけ、、、(汗)。

すっごい集めていた人っていましたよね。



さて



サーパス初期はいろいろと力も入れていました。
これが、サーパスの応援歌「明日を見せてやれ」のCDです。

これも配布物だったんですが、初期のファンの方はけっこう持っていらっしゃるはずです。


例によってあじさいスタジアムでは演奏されている曲です。


ただ、
合併以降「サーパス神戸」から「神戸」が外されて以来、歌詞に「神戸」という言葉が入っているばかりに球場演奏も歌詞のないインストのみが演奏されています。

だから、
合併以降のファンは、ほんとうに歌詞を知っている方も少ないかもしれませんね。。

ちょっと残念なことです。





さぁ
まだまだ続きますよ!

こちらはサーパス神戸の色紙。



当然ながら、サイン会用ですよね。





また、
各種イベント等で配布されたのがTシャツ。

子供が着ている率が高いと思います。

それは、
サーパスが夏休みに小学生を招待し、選手と一緒にキャンプをおこなうという、「ちびっ子サマーキャンプ」
という企画を立てていたから。

小学生が選手とキャンプファイヤーをやったり、野球教室をやったりと、地域密着をはかったイベントでした。







つづいて、
これが歴代の日程表や地方試合のチケット。
最後となった昨年の日程表は、ボクは小松バージョンを持っています。

小松のサパユニもこの日程表上が最後の姿となりました。

あれだけブレイクするとは、思わなかったですもんね。



選手の移り変わりを見れるといえば、、団扇です。
選手の写真が紹介されています。



これは一番初期の団扇。
嘉勢選手と松元秀一郎選手です。




これは後年。
相木投手、小川投手、またこの頃からサーパスの顔といえば「迎」選手。
すでに掲載されています(苦笑)。




ぐっと最近のものですね。




一輝



金子



グッチなどが見られます。


まぁ
こうして取り上げられているって、いまにしては恥ずかしい過去になってしまうのでしょうか??


しかし、
サーパスで活躍して、チームの顔になれば、一軍定着の夢も近づくというもの。。

ファンとしては、サーパスで間近で見たいけれど、一軍で活躍してほしい。

そんなジレンマにつきまとわれるのが、ファームのファンの性です。



最後は、
販売の対象となった、最後のグッズをご紹介します。





レプリカキャップ

いちおうNEW ERA製ですが、いわゆる一般的なグッズ用の帽子です。
これは、年間チケットの特典として販売されたものです。


そういえば、
サーパスには、かつて配布された帽子もありました!!

どっかにあるなぁ。。。

ひとつはメッシュの帽子。
ひとつはワンポイントの帽子でした。


チケットを購入することで誰でも入手できるという、貴重なグッズであります。
入場プレゼントは数や配布日が限定されていますからね。

やはり
サーパスグッズを持っていない、しかもユニフォームと同じデザインのものですからね。
かなり人気がありました。

帽子欲しさでチケットを買った方も、、

いや、ボクも、、、(爆)


はい、
そういうわけです。


また




サーパス神戸より始まって以来、いちばんの宣伝効果だったであろう清原和博。

これを逃すことはなかった!!

清原が印刷された特別チケットも販売されました。




サーパス唯一の”個人”グッズです。

これもまた、反響の大きなグッズとなりました。


さて
駆け足で紹介してみましたが、、
タオルだの、さっきの帽子だの、、紹介しきれていないグッズもまだまだあります。


やはり9年も歴史があると、いろいろとグッズが出ては、思い出も甦ります。

サーパスファンのみなさん、当時からお付き合いのある仲間たち、、
数少ないグッズを身につけ、また自分たちで作ったり、、いろいろと工夫をして応援をしていきました。


一軍のファンにも、阪神ファンにも負けない!
ファンとしての情熱が、ちいさな北神戸という球場にもありました。


これもまた
スポーツの一つの文化であって歴史。

共感していただけると、嬉しいなぁ。。


さて
また次回はサーパス応援を繰り広げた歴史や、サマシルのことでも語っていきましょう。


そして!
さらに貴重なマル秘グッズも紹介します☆


お楽しみに~~



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I LOVE SURPASS #3

2009年02月05日 | 惜別!サーパス
2002年のシーズン。
いよいよサーパス応援を本格的に始めます。


この年は、もともとホークスファンであったおぐりくんが、以前から一緒にファームを見ていたところから、サーパスファンに転身した年でもありました。

さらに
ファームを通じて、いろんな方々と知り合うようになり、よりサーパスに対して濃い~~お付き合いの始まることとなりました。



この年、
オリックスブルーウエーブは、じつにドラフトで14人という、新人の大量入団をはたしました。



その選手たちは

#19 小川裕介
#9  平野恵一
#61 島脇信也
#23 早川大輔
#24 肥田高志
#56 山本拓司
#48 竜太郎
#34 本柳和也
#49 後藤光尊
#50 牧田勝吾
#60 板倉康弘
#57 深谷亮司
#65 藤本博史
#66 橋本泰由


この選手たち、
2002年のシーズンはほとんどの選手がサーパスで見ることになります。


そして、
ボクのサーパスファン人生、サーパス応援に大きな影響を与えた選手たちなんです。



さらに言うと、



この14人にくわえ、台湾からやはりプロ生活1年めをブルーウエーブ、サーパスで迎えた余文彬(ユ・ウェンピン)も含めてやりたいということも付け加えておきます。


2001年に初めてあじさいに行くことができ、サーパスの距離感、コンセプトに同調したくサーパス応援を決意したこの年に入ってきた大量の選手たち。


夢をかける若い選手たちは、自分と等身大にも照らし合わせ、またサーパスという発車したばかりの若きチームにふさわしい選手たちと思っていました。



しかし
この15人の選手たち、決して恵まれて入ってきた選手たちばかりではありませんでした。



ドラフト選手と期待して入団したと言えるのは、、
1位の小川、2位の平野、、、



いまでこそ活躍しているから言えることだが、下位では後藤光尊、牧田くらいまででしょう。

それでも、後藤、牧田は9人め、10人めの指名。
多い方である。



それより下位の選手は、契約金ゼロというカタチで入団してきた選手たちなのです!!



契約金ゼロ選手


名のとおり、契約金をもらえずに入団してきた選手。
2軍で経験を掴んで、1軍で活躍が出来たら、出来高として契約金分を初めてもらえる。。

そんな契約で入ってきた選手たちで、前年には高見沢、北川。
後年は塩屋、中島も同様に入団してきました。


これは、
意図としていることは育成選手と同じようなもので、プロとしての力も期待もまだまだだが、ファームでじっくり育成をして、頑張ればプロとして評価と相応の報酬が与えられると言うもの。



サーパスで頑張れと言われて入ってきた選手なんです。


これは、サーパスファンとしては大いに応援しなきゃ!!



その人数もさることながら、
サーパスから這い上がって大きくなってほしいという願いを込める意味でもとても印象深く、またボクがサーパスを本格的に応援をはじめた最初の新人選手としても、特別な思いを持って応援をしていった選手です。




とくに思い入れの強い選手をご紹介してみたいと思います。




13巡目の藤本博史捕手

社会人野球を渡り歩き、単身渡米もしてまで現役にこだわってきた選手です。
明るいイメージと、強気のプレーが印象深い選手ですね。

藤本選手については、2003年に残念ながらオリックスを解雇されてしまったのですが、その後も再び渡米。
独立リーグでもキャッチャーとして戦歴を積みます。


帰国後、
”欽ちゃん球団”の茨城ゴールデンゴールズに入り、アマチュア野球も経験しましたが、このときはスキャンダルのあおりを受けて退団してしまいます。。。


このとき、
藤本さんはプレーでも、スキャンダルでもそれぞれ話題になったので、ご存知の方も多いと思いますが、後者によって話題になってしまったことは、ちょっとボクたちとしても不本意であり、無念なところがありました。


しかし!

藤本さんはあきらめなかった。


退団後も、こんどは台湾野球を経験。
そして昨年からは四国リーグの長崎セインツにてコーチ兼任をつとめました。


また



イチローと渡米時代に知り合った経緯から、現在も神戸で行なわれているイチローの自主トレに毎年パートナーとして参加しています。

イチローの紹介で、WBCのブルペン捕手も努めており、今年も参加されるのではないのかと思われています。



この、あきらめきれない気持ち!


最近では、シーズンオフにチームから戦力外を受けた選手たちのドキュメントをよくテレビなどでも放送することがあります。

サーパスを応援していると、毎年こうした選手の去就や挫折に直面することになります。

しかも、
間近で見ていて、話をしたり、、友達が選手をやっているような感覚で付き合っていけるので、よりリアルに受け止めることになる。。



それを踏まえて見ていても辛いものがあるのですが、
藤本選手ほど根強く現役にこだわっている選手は見たことがありません!!




一度、渡米をした際に手紙を書いたら、返事をくれたこともありました。
野球に対する情熱と、人を大切にする藤本選手に出会えたことは、ボクのサーパスファン人生でも大きな糧となっています。


さらに
現役のころはそれを間近で見ていたんですから、ボクがサーパスを応援していきたいと思いついたその気持ち。皆さんにも感じていただければと思います。



契約金ゼロ選手以外で、いまでも活躍されている選手といえば、、



現阪神の平野恵一

彼は、年もひとつ下で同年代ということもあり、また非常に真面目で、秘めた熱い闘志を感じる男。
その後もオリックスでは1軍にも上がり、レギュラーをとっていく成長を見せたことは皆さんもご存知でしょう。

しかし、
恐れずにまっすぐに立ち向かう姿勢が逆に怪我を生み、また真面目な性格が自分を追い込んでいったり…と、ボクらも見ていて辛くなることもあるような、見守りたくなる選手でした。

新人時代は進んで荷物係をやったり、ボクらの声かけにもソフトに応じてくれましたね。



彼は、本当にいいヤツなんですよ!



以前、またご紹介しますが、サーパスが野球教室をやってくれました。


バッティング教室に参加した際、ボクのスイングを見て、


「こうした方がいいですよ!」


「そうです!!」


「じゃあ、今度はバットをもっと放り投げるように大きく振ってください」


「いいです!じゃあ、今度は踏み込みを意識してやってみましょう」


「すごい、もう少し重ねるともっとキレイになりますよ!!」



トスをしながら、延々5分以上かけてボクを指導してくれました。。。



その時の教えは、覚えてますよ~。


「いやぁ、もともととても上手なので、こっちもつい力が入りました。」


ほめたらいかんて~~(照)。

その熱心さ。
ボクは、こいつが悩んでいたら心から応援してやりたい!

と、その時思いました。



つづいて



”一球投魂”の本柳和也投手

Bsファンにはお馴染みですね。
身体は小さいけど、闘志みなぎる投球でぐいぐいと攻めるのが気持ちのよい投手。

球団イチ”腰が低い”ことでも有名な本柳さんは、おぐりくんが彼のサーパスのレプリカユニフォームを作ったときに感激し、ボクらにはとくに親しく接してくださいました。



この選手たち、、

とくにいま現在においても、現役で一線にたって活躍されている選手です。

ロッテに行った早川含め、後藤もまた目下一線で活躍されていますし、そういった選手たちは、ボクたちの誇りであり自慢にもなっています。


それは、
間近で悩んだ時期も知っているから。


それが、サーパスにひきつける”プロの現場”の、もうひとつのカタチでした。


スケールはまだまだ小さいかもしれないが、男の生き様がそこにありました。



サーパスを応援するために、あじさいやナゴヤには通いました。




また
サーパスが地方で試合をやる際は、即席の応援団を立ち上げて、独自の応援も展開しました。




レプリカユニフォームも作りましてね。

選手や関係者の方にも、怒られるかな・・・

なんて思っていたら、


本柳さんのように喜んでくれる方もいれば、


「おぉ、よ~できとるな(笑)」

と笑ってくださった方もいたり、、


そんな距離感と一体感があるのが、またファームの楽しみであり、好きでした。




応援も、いろいろと考えましてね。。
一軍とは違った応援をあみ出して展開したり、



14巡目の橋本泰由投手なんかは、箕島高OBで教師をやられていたところからプロになったという経緯があったため、


”橋本センセー!!”


というコールを応援で展開していたら、近くに座っていた関係のないお客さんも楽しんで、選手の名前を覚えてくれたり。。。


そんな言動がサーパスの応援や、認知度に役に立っていると思うと、応援団冥利に尽きるというものじゃないですか。





「少人数でも、楽しく野球を応援しよう」


という、
いまにつながるようなコンセプトも、こんなところから生まれたのかもしれません。



ただ、
契約金ゼロ選手たちの選手生命は、長くはありませんでした。。。

ほとんどの選手が2004年までには解雇され、引退していきました。
唯一、バファローズに残ったのは、2003年入団の塩屋のみでしょう。
楽天に行った中島も生き残りではあります。



中島はのちに楽天で一軍に出場できましたがね。
ほかも、一軍に出場したのは北川と高見沢のみ。


それでも、ケガに泣き、長く続かないで終わってしまいました。



のちに、中村GMは
「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」
といい、契約金ゼロ契約を廃止しました。


たしかに、
技術の及ばない選手に、いくら契約金ゼロとはいえ、及ばぬ夢を見せるのではない。
と、批判する人はいた。


でも
育成選手と言う概念を作り出した一つのアイデアかもしれないし、少なくともボクたちは、契約金ゼロで入ってきた選手のプロ生活を見て、プロの厳しさ、夢を持つことのすばらしさを知った。

いまでも現役で活躍している選手も含め、2002年入団の選手たちには、心から感謝している。


2002年という年を機に、サーパスを通じて感じるプロとは何か?
プロを夢見る選手たちとは何か?


そして、
若い選手たちの可能性を信じ、チームへの関心を高め、プロ野球界の底上げに協力できれば、、、

ファームをとりまくいろんなことに興味を持ち、また自分たちの力で盛り上げることが出来るのではないか。。

そう思い、サーパス応援を展開するようになるのでした。


事実、
これ以降、サーパス応援を通じ、いろんな選手や関係者さんと知り合いになり、いろいろな話を聞いたり、ボクら自身が投げかけた問題に対し、チームが動いてくれたり、サーパスを通じて充実した野球感を得たつもりでいました。



2002年 32勝50敗8分けのウエスタンリーグ最下位。。


プロの道は厳しくも面白いと実感する一年でした。



<つづく>


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I LOVE SURPASS # 2

2009年01月27日 | 惜別!サーパス
ウエスタンリーグ最下位で、大きな話題もなかった一年目のサーパス。

2年目の2001年からは、ボク自身もはじめてあじさいスタジアムにサーパス観戦に行くことができました。


また、
サーパスは地域密着&独立採算の一環で、さまざまなファンサービスをはじめとした運営方法を模索しては実施していくようになりました。




そのなかで、特に際立って人気のあったのが、「シートノックに挑戦」





試合前のグラウンドに入って、ポジション別にコーチから本当にノックを受けることが出来る!!

という超参加型企画。


グラウンドに入れるというだけではなく、選手はもちろん近いし、なによりコーチから実際に打球を受けることが出来る。



野球好きには夢のような企画ですよね。



でも
言い返せば、元手はかかっていない企画。

お金はかからず、かつ贅沢な企画なんです。



こういうのが、知恵の産物だと思います。
ファームチーム、マイナーチームが集客の努力に知恵を絞る。

この姿勢が、またサーパスの大いなるマイナー意義のひとつだったと思います。




理屈だけではなく、実際に面白いですしね。





2001年6月の第一回のイベントで、
ボク、みすたーKどの、階段どのの3名が参加。


シートノックは↑のように、先着順ですがポジションも好きなところが選べました。



最初に参加したのは、サード。

担当してくれたコーチは、、、



馬場敏文コーチ。



ここで、ボクたちは”伝説”を作ります。。。




やはり、
この手のイベントは”子供”主体なモノなんでしょうが、このシートノック挑戦は年齢、性別不問。



てことで、
”大”の大人であるボクたちは(笑)、ただマジメに参加するだけでは恥ずかし……いや、おもしろくないっ!!




ポジションにつく。




Kどのが、あおる。



ボクたちは、注目を一心に集めるほどに大声を上げて気合を入れる。


コーチを煽る。




馬場さん
笑顔でものすごい球を打ってくる。





振り回される。



スタンド、どっかん(爆笑)。




はい

これ、鉄板(爆)♪



とことです。



しまいには、あきらかに”ムリ!”な打球もこれはお約束♪♪



大いに楽しんで参加しました。




でも
ボクたちにとってはやはり貴重な体験ですし、ファンとしても参加意義の高いイベントで、選手と話が出来たりと、イチバンのファンサービスでした。




毎年、年に1~2回開催されて、2001年から昨年まで行なわれたイベントですが、



ボク、通算で欠席1回(笑)。



準解禁♪



1回は(学校の夏休み中で)ド平日のナイターだったばかりに、行けませんでした。





そして、
とくにBW時代に企画されたイベントには、選手との距離の近い、敷居の低いファンサービスやイベントも多く、ボクたちも関係者の方といろんな情報や意見を交わす機会ができて、それがその後のイベント企画や運営、そしてボクたちの活動にも大きく影響を与えることとなりました。



シートノックを通じて、選手コーチにも顔なじみが出来たり、ファン仲間も徐々に増え、回を重ねるごとに盛り上がりもみせてきました。


サーパスの地域密着、ファームならではの活動意義や、ファンサービスの変遷は、あらためてご紹介いたしましょう。



ただ
この「シートノックに挑戦」という企画は、そんなサーパスのファーム独立化の根っこになる”マイナー意義”を提唱する究極のカタチ。



そこにサーパスらしさが存在し、ボクたちは魅了されていったひとつとなった。



これ
間違いないです。



サーパス神戸、2001年の成績は32勝45敗のウエスタンリーグ5位。



1軍であるBWも2年連続でBクラス。
仰木監督(一次政権)が勇退するなど、厳しいチーム状況に陥りつつあった時代。


サーパスも底上げには成功しなかったものの、葛城育郎の成長など、イチローが抜けた新しいチームの確立、若い力への期待感が高まっていきました。


そして
翌2002年には、とんでもない選手獲得が行なわれ、よりボクたちのサーパスへの話題と愛着が深まっていくのでした。

<つづく>




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I LOVE SURPASS # 1

2009年01月21日 | 惜別!サーパス
今日からシリーズで、サーパスの歴史について、またサーパスに込めた思いを語っていきたいと思います。

みなさん、よろしくお願いいたします。




さて、
一回めは、いきなり珍しいものからお見せいたします。


写っ

メンバー表です。



2000年3月31日金曜日、ナゴヤ球場

ウエスタンリーグ開幕戦
中日ドラゴンズ × サーパス神戸


サーパス神戸、史上初の公式戦、
記念すべき初スタメンのメンバー表。



このメンバー表がNPBの公式な書式であり、両球団が試合前に記入して、審判を介し交換されます。

ボクは例によって、当時ナゴヤ球場で球場スコアラーのバイトをしていました。
その際に、スコア入力用として回ってくるもので、これもバイトの特権で獲たものといえます。




どんよりとした曇り空、
一般客の開門よりちょっと早い球場入りで目にした練習中のサーパス選手を見て、鮮烈だけど、期待過多だったのか、曇り空だったからか、あまりユニフォームが栄えない印象もちょっと感じました。


慣れなかったからでしょうかね。

濃紺にターコイズブルーと、寒色系の色使いでしたから。
でも、すぐに慣れると、プレーをしている選手たちを見て、満足感は高まってきました。





記念すべきサーパス公式戦初の先発は#39ウイリー。


今後、何度かサーパスのマウンドで見ることとなります。
安定感はなく、内容は悪いけど結果に見えない、評価しづらいピッチャーだった記憶があります。

ただ、この年の途中で帰っちゃいましたけどね。




試合は葛城郁郎に記念すべきサーパス第一号ホームランが飛び出すも、
結果は7×6で敗戦。

負けは平井投手。



高松から穴吹の関係者が「頑張れサーパス神戸」という横断幕まで持ってきて、気合の初戦でしたが、勝利を飾ることは出来ませんでした。



ついでにいうと、、

4月1日 1×5●
4月2日 1×5●


とまぁ、
3連敗と言う…弱小オリックス、転落の前途を予知するような船出となりました。

ナゴヤでは、たしか6月に1勝したのみで、この年はウエスタンリーグ最下位。



ナゴヤ球場では勝てない。


というひそかなジンクスも、サーパス初期にはありました。。




しかし
こっから、サーパスの歴史が始まっていったわけです。



ボクは、まだロッテの応援団に所属していたことから、この年サーパスのために遠征したり、北神戸に足を運ぶことはありませんでした。

サーパスの戦績はすべて、ナゴヤ球場での(バイトがらみの)結果です。



でも、
来年に控えた就職を機に、ロッテの応援団をやめて応援の一線からは引こうと思っていたこの年。

派手なことをしなくてもいいから、自分の目の届くテリトリーでチームの戦績だけではなく、運営面など、裏方的な部分も含めてチームの歩みを見つめてみたい。。。


バイトをしていたおかげで、裏方さんとの交流があったり、野球を違った目線から見れたことも、こうした価値観の移行の要因になったんでしょう。



そんな、
あらたな価値観を、この出来たての新しいチームに見出していきたい・・・と、沸々と感じていった年なのでした。



この年、
ボクの大学の卒業論文は、


「パリーグ球団とマイナースポーツに見る、球団経営とマーケティングについて」



また、
自身の卒業制作と、前述のようなチームを陰から支え、応援したい気持ちのカタチとして、



グリーンスタジアム(当時)のデッキ絵画に応募、参加しました。



Enjoy Baseball

いまのボクがあるのは、やっぱり「サーパス」に大きく影響を受けたもので、このナゴヤ球場の3連戦から、この長いサーパスとの付き合いが始まっていくのでした。




※ちなみに、、、
中日の方の3番レフト「李」は、李炳圭じゃなくて、李鍾範っすからね(笑)!?


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