大徳寺 大仙院
いつも座禅でお世話になっているが、応仁の乱直後永正6年(1509)の創建で、その方丈が日本最古の遺構で国宝とは知らなかった。
しかも、座禅を組んでいる本堂のすぐ後ろが、かつて利休が秀吉に茶を供した茶室だったとは。茶室というか八畳の書院の間。
その際、秀吉は花器がないのに利休に突然「生け花を生けよ」と命じたらしい。 いつも無茶を言う人だ。
すると利休は、茶室前の枯山水の石庭の平たい石の上に一輪の花を生けたという。
ネットに、撮影禁止のはずの写真がアップされていた。
くだんの石に赤マークをつけてみた。
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大仙院
応仁の乱直後の永正6年(1509) 大徳寺第76世住職 古岳宗亘(こがくそうこう)を開祖として創建。
4年後の永正10年(1513)、古岳宗亘の隠居所として建立檜皮葺屋根入母屋造りの方丈(本堂)が完成。
大徳寺山内で最も古く 国内最古の方丈建築遺構(国宝)
なお「玄関」も 日本最古の玄関として 国宝に指定されている。
その後の住職には、大林宗套 笑嶺宗訴 春屋宗園 古渓宗陳ら名僧が続く。
特に三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれて自害させられ一条戻り橋に晒し首にされたという利休の首を持ち帰り、手厚く葬ったという。
大仙院のすぐ横が利休他千家の墓のある聚光院。
漬け物「たくあん」を考案した七世沢庵(たくあん)和尚が宮本武蔵に剣道の極意を授けた所としても有名。
永正6年(1509)創建時に庭園も造られた。
庭園の北東角に見事な大石で組まれた堂々たる滝石組がなされ、蓬莱山から落ちる滝 堰を切って大海に流れ込む水すべてを砂で表し 宝船や長寿の鶴亀を岩組で表している。
そして茶室一番手前にくだんの石がある。
方丈「檀那の間」の襖絵は 相阿弥 狩野元信 狩野之信ら室町時代の巨匠が手がけた作品
ホームページ他参照
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/88/141dca9851a5a3988e0e7257ab52c53f.jpg)
いつも座禅でお世話になっているが、応仁の乱直後永正6年(1509)の創建で、その方丈が日本最古の遺構で国宝とは知らなかった。
しかも、座禅を組んでいる本堂のすぐ後ろが、かつて利休が秀吉に茶を供した茶室だったとは。茶室というか八畳の書院の間。
その際、秀吉は花器がないのに利休に突然「生け花を生けよ」と命じたらしい。 いつも無茶を言う人だ。
すると利休は、茶室前の枯山水の石庭の平たい石の上に一輪の花を生けたという。
ネットに、撮影禁止のはずの写真がアップされていた。
くだんの石に赤マークをつけてみた。
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大仙院
応仁の乱直後の永正6年(1509) 大徳寺第76世住職 古岳宗亘(こがくそうこう)を開祖として創建。
4年後の永正10年(1513)、古岳宗亘の隠居所として建立檜皮葺屋根入母屋造りの方丈(本堂)が完成。
大徳寺山内で最も古く 国内最古の方丈建築遺構(国宝)
なお「玄関」も 日本最古の玄関として 国宝に指定されている。
その後の住職には、大林宗套 笑嶺宗訴 春屋宗園 古渓宗陳ら名僧が続く。
特に三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれて自害させられ一条戻り橋に晒し首にされたという利休の首を持ち帰り、手厚く葬ったという。
大仙院のすぐ横が利休他千家の墓のある聚光院。
漬け物「たくあん」を考案した七世沢庵(たくあん)和尚が宮本武蔵に剣道の極意を授けた所としても有名。
永正6年(1509)創建時に庭園も造られた。
庭園の北東角に見事な大石で組まれた堂々たる滝石組がなされ、蓬莱山から落ちる滝 堰を切って大海に流れ込む水すべてを砂で表し 宝船や長寿の鶴亀を岩組で表している。
そして茶室一番手前にくだんの石がある。
方丈「檀那の間」の襖絵は 相阿弥 狩野元信 狩野之信ら室町時代の巨匠が手がけた作品
ホームページ他参照
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