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今日・明日はわたしのロッキード事件(全く記憶にございません!)を解明する時間だ

2011-08-20 06:56:50 | 日記
人は知らない間に傷つきそれを無意識で人生の中に織り込んでいくようだ

傷が深ければ深いほど心に蓋をして

無かったことにしている

無かったことにしているのだが

しっかりと人生の脚本を創るとしたら

大きな出来事またはエッセンスとして必ず組み込まれている

もしくはベースの色

私は5歳以下の記憶がほとんどない

南座の西5件ほどのところで生まれているのだが

そこで暮らした記憶がほとんどない

京の町屋でウナギの寝床のように長かったことと

裏庭が隣とつながっていた事

その隣はふんどし大臣と言われた水谷長三郎という人の家であるという事

そこにはおばあちゃんがいたこと

ぐらい

京都のメインイベント祇園祭の神輿洗いも水谷さんちの井戸で洗ったのを見ていると父が言っていた

『全く記憶にございません』(ロッキードの田中角栄みたい)

祇園さんの中に円山公園があってその中に昔は丸山幼稚園があった・・いまはどうだか・・・・

そこへ通っていることは覚えていない

けれどトイレタイムの時にたくさん並んでいたので順番が回って来るまでにおもらしをして

廊下で園のパンツに履き替えた・・・これが白いのだがブルマーのように大きくて嫌だったことは覚えている

あとは・・・・・

出町の家へ引っ越してしまうまで記憶がない

けれどどうやらその時代の恐怖・不安は引きずったようである

酔っ払いに対する感情はどうもその時の父とかぶっているのだはないだろうか?

そんなこんな・・・

両親が離婚しているがその時のバトルも有っただろうが

記憶にございません・・・・

新しい母が来て

今は寝たきりで1年ほど前に

その母が父と一緒になったいきさつのような話を

父から聞いているか?と尋ねられたが

全く記憶にございません

50歳前後からふっと過去の知らない映像や

記憶がパサッと出てくることがある

実母が亡くなる前にも離婚の時の様子で気になることを聴いてみたら

「だれから聞いた?」といったが

ふっと紙芝居の一枚のように出てきた映像なのだ




そんな風に産まれてからづっと物語は創られていて

紙芝居風になっているが

抜け落ちている

悲しすぎる

辛すぎると

その時思えば

無かったことにするのだろう

けれど心の底には悲しみや

さみしさの根っこが残っている

もう子供ではないのにね

それを癒す作業をするのだが

すごく抵抗がある

それを持っているから自分であるという何かが働くのだろう

もう出かけなくてはならない時間になっている

非常に抵抗している

田中角栄もそうだったのかなあ・・・・・

『全く記憶にございません』

では・・行ってきます

そんなことになりますやら

乞うご期待?!


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