音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

モータウン時代のグレイテスト・ヒッツを聴く

2009年07月11日 | インポート

 マイケル・ジャクソンの記事の後には、本来なら別の記事を入れようと思っていた。出来得ることなら、ちょっとマイナーな話題がいいなと思っていた。しかし、毎度のことながら、書く内容をあらかじめ用意しているわけでもなく、かといって咄嗟に思いつく話題もないので、近頃、殆どのTV局が挙って報道しているマイケルの追悼式の話にしようと思う。

 僕はその一部始終を観たわけではないので、たまたまダイジェストで報道していた番組からの僕の感想を言わせてもらうと、そうだな、…正直なところ、僕にはお世辞にも感動的な追悼式とはいえなかったと思う。

 確かにこれは言語の違いや文化の差はあるのだろうけれど、先ごろ亡くなった忌野清志郎の葬儀のように胸を打つ刹那感や喪失感が、マイケルの葬儀に欠けているのはどうしてなんだろうと考えてみた。葬儀に参列したいくつかのミュージシャンにもかくべつな思い入れがないのもその要因だけれど、どういった理由であれ、クインシー・ジョーンズやダイアナ・ロスが現れなかったのはやはり疑念が残る。父を讃える長女のコメントも当時のシンガーが一人も参加していない「ウイ・ア・ザ・ワールド」の合唱も取って附けたようで、とても、感動を呼ぶ出来ではなかったと思う。ただ、こんなに短い期間にスティーヴィー・ワンダーやライオネル・リッチー、それに、マイケルのカヴァー曲を歌ったマライア・キャリーや当時恋人の噂があったブルック・シールズなどそうそうたる有名人を揃えたのはさすがというほかにないのだが。

 誰でもオーティス・レディングやサム・クックのようになれないのと同じように、また、誰でもマイケル・ジャクソンのようにはなれないのだ。けれど、マイケル・ジャクソンもエルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラのようにはなれない。それは、日本人が根深いところでゴスペルを歌えないのに似ている。80年代に日本で流行ったアメリカのソウルやR&Bのさきがけになったのは、TVで流れるミュージック・ビデオだった。その先陣を切っていたのがマイケルで、あの衝撃的な「スリラー」により、一気に黒人音楽をメジャーにしていった。

 日本でもゴスペルやR&Bのグループが登場して、それなりに人気を博していたけれど、それはあくまで模倣どまりで、本場の音楽に比べるとまだまだレベルは低かったように思う。でも、決定的な違いというか、明らかなレベルの差を日本人が感じたのは、マイケル・ジャクソンの存在そのものではなかったか。

 誰でもマイケル・ジャクソンにはなれない。そこには想像を絶するステージがあり、聴衆を魅了する歌声がある。それはおそらく、神がいるとしたら、こんな声をしているのだろうと思わせる完璧さである。

グレイテスト・ヒッツ

 僕が彼を天才と思った最初は、彼がジャクソン・ファイヴに在籍していた頃のグレイテスト・ヒッツを聴いたときだ。僕は元来、ある程度の年齢に達していないアーティストのものは聴かないことにしている。そんな僕がジャクソン・ファイヴだけは聴けるのは、そこに弾けるような若さと、猛烈なパワーを感じるからである。彼が亡くなったと知ったとき、僕は真っ先にこのアルバムをプレイヤーにかけた。CDの無機質なサウンドの後に、幼いマイケルの懐かしい歌声が聴こえてきた。そこには、確かにソウルがあった。

 若いのによくやるな、こいつ。久しぶりに彼の歌声を聴いたけれど、少しも色褪せていないんだよ。初めて聴いたあの頃のまま、こうしてマイケルは永遠に生き続けるのさ。手のひらに乗る小さな銀色の円盤の中で…。

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Jackson 5 - I want you back