音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

JOSS STONE / SUPER DUPER LOVE

2008年01月28日 | Joss Stone

 Joss_stone_9                                                       今、以前このブログでも紹介したジョス・ストーンのファーストアルバム『THE SOUL SESSIONS』を聴いている。ジャケットはUSヴァージョン。2003年9月にリリースされて以来、全世界で反響を呼び、ロングセールスを記録したアルバムである。全曲がソウルのカヴァーという大胆かつ斬新なこのコンセプトアルバム『THE SOUL SESSIONS』を引っ提げジョスはデビューを果たした。しかしこれが弱冠十六歳のシンガーのデビュー作とは到底思えない完成度の高さにどれだけの人が驚愕した事か。プロデューサーはあのマイアミソウルの重鎮、べティ・ライト。ブルースシンガー&ピアニストのラティモア、ギタリストにリトル・ビーヴァーを迎えた豪華でスタイリッシュなこのアルバムは古着の中から年代物のVintage Jeansを掘り出したようなファースト・アルバムだった。使い古されたジーンズは希少という名の魔法を掛けられて甦る。ジョスはクラッシックソウルをリメークしただけではなく、そこに新しい息吹を吹き込んだのだ。そしてソウルにとびっきりの煌びやかな灯りを灯した。

 1987年4月11日、海峡を臨むドーヴァーに生を受けたジョスは、けっして音楽的に恵まれた環境に育った訳ではない。およそ音楽産業とは無縁のデヴォン州のアッシルという人里離れた辺境で育ったジョスが如何にしてその音楽的な才能を身につけたかは今をもってしても謎だ。まさに天賦の才能が開花したとしか云いようがない。ジョスのこの『THE SOUL SESSIONS』はソウル・ミュージックの歴史を塗り替えてしまった。ぼくの記憶ではこのアルバムのリリースは極めて唐突なものだったと覚えている。ぼく自身もこのシンガーの存在はこのアルバムを聴くまで知らなかった。しかし何の情報も与えられなかったばかりにこのアルバムの衝撃波は的確にぼくに届いたのだ。

The Soul Sessions The Soul Sessions
価格:¥ 1,676(税込)
発売日:2003-09-16

 たまたまCDショップで見つけ、当時は試聴できる機械もなかった頃で、殆ど感頼りで購入した訳だ。暫くは聴かず、余暇に、思い出したように包装を破ってプラスティックケースから取り出した銀色の円盤。たいした期待もなくプレーヤーに乗せ、何気なく読み止しの本のページを開いて一曲目を待つ。レコードであればスクラッチ・ノイズの後にガツンと来るインパクトがデジタル録音された無機質なこの円盤には、ない。云い換えればCDには人間的な何かが足りないのだ。しかしぼくが初めて耳にしたジョスのヴォーカルとそのサウンドはこれまで聴いたどのソウル・ミュージックよりも人間的で、魂が込められた音楽だった。一瞬にしてその音楽はぼくの中のなにかを覚醒させた。そのなにかは今をもってしても説明できないけれど、この『THE SOUL SESSIONS』は確かにいままでのソウルの概念を覆すものだった。

 今夜紹介するナンバーはこのアルバムに収録されている「SUPER DUPER LOVE」のライヴ映像。シュガー・ビリーによる1975年のヒットソングである。このファンキーなダンスナンバーがぼくは気に入っている。映像はジョスがデビュー当時直後のライヴ映像らしく、解説では2003年10月6日に米国のテレビ局で収録されたもの、とある。前半はジョスのインタビューで、…インタビューの所々で”シックスティーン・イヤーズ・オールド”とか”アレサ・フランクリン”というフレーズが飛び出すのでなんとなくインタビューの内容は想像できるけど、曲までの1:50はあまりに退屈極まりない(ぼくが英語を解さない為)。しかしインタビューに答えているジョスは初々しくキュートだ。その表情を観るだけでもいいかと思うのだが…。ソウルに革命を齎したジョスの処女作『THE SOUL SESSIONS』はあまりにも熟した危険な果実の味がする。

Joss Stone "Super-duper Love" 2003


メランコリー・ベイビー

2008年01月24日 | 本と雑誌

 ぼくにはミステリーを決める(買う、読む)基準がある。これはあくまでぼく個人の基準なので他人に伝授する必要のない基準なんだけど、今夜は本の紹介とあわせ、その選択方法を披露することにする。休日の過ごし方の一環になっている本屋巡りは高校の時がピークで、この頃に吸収した経験が大人になった今も活かされている。本屋に入ってまずすることは新刊コーナーの棚をじっくり見て回る事だ。自分が贔屓にしている作家の新刊が発売されていないか、もしくは話題作のチェックをするのである。それからおもむろに新刊の文庫コーナーの棚に移動する。この棚には新刊で買いそびれた本が文庫化されていないか確認する為と海外小説(大抵の場合、海外ミステリーかハードボイルドなんだけど)のシリーズ化の文庫の発売有無の確認の為にしている。

 新書であれば日本の文芸書は1500円程度、ミステリーになると2000円未満が相場である。ところがぼくが好きな海外ミステリーになると、途端に2400円前後に値段が跳ね上がる。これは製本に懸かる費用に翻訳代が加算される為と考えられるが、下世話な話、翻訳本を買うカネで安価な本が数冊買えてしまうので殊更〈本読み〉には頭の痛い話である。

 ぼくは通常一月5,6冊の新書及び廉価な文庫本を買っている計算になる。しかしながら年間にすると読みたい本の量が時折予算を遥かに超えていまうことがあり、そうなると、渋々、予算を切り詰めて、廉価な文庫を買わざるを得なくなる。新刊は人気作であれば、初版から数ヶ月すると文庫化になるので、それまで待ってから買うことにしている。とりわけ海外の翻訳本は文庫オンリーにして、比較的、単価が安いものだけをハードカヴァーで求めている。但しこれには例外的なものもあって、本の装丁が気に入ったものや読み切り作は値段が高くても買う場合がある。たとえばスティーヴン・キングやジェフリー・ディーヴァーなどだ。

 さてそれでは、如何にしてぼくが本を選んでいるかについて話を移す事にする。本屋に入ると、大抵は2,3時間かけてじっくりと棚の端から端まで歩いて吟味する。これが重要だ。そして次の点が最重要になってくる。

1、背表紙のタイトルで選ぶ。

2、ブックカヴァーのデザインで選ぶ。

3、文体(翻訳者)で選ぶ。

 大抵の場合、本は背表紙を手前にして縦に陳列されている。だから買う側の情報は本のタイトルが先に目に付くことになる。この時点でタイトルのインパクトの強さが本を選ぶポイントになる。ジョン・ウェインが主演した西部劇『駅馬車』は映画評論家の淀川長治氏が東宝映画宣伝部に勤務していた時に邦題として命名した、原題が『Stagecoach』という映画なんだけど、おそらくこの映画が原題通りの『Stagecoach』だったらあれほど日本で知名度を得なかったというくらいの逸話が残っている。本のタイトルが如何にして重要であるか、これは本を選ぶ基本のひとつであるし、タイトルのインパクトで9割がた本の売れ行きを左右すると云っても過言ではあるまい。タイトルの次はブックカヴァーである。これは読者がする購買目的の一連の作業のひとつだ。タイトルが良くてそのうえブックカヴァーが興味をそそられるデザインであれば、もう、ほぼ合格点を与えられていると云って差し支えあるまい。ブックカヴァーは云うまでもなく本の顔だ。ブックカヴァーは本の内容がわからなくても、そのデザインから作品の雰囲気を摑むことができるものがもっとも好ましいし、理想的である。コルト・ガヴァメントがでかでかと表紙を飾っているデザインの本がユーモア・ミステリーだとこれはもう詐欺に近いからね(笑)。しかし、モデルの審査でルックス良し、スタイル良しの美少女が最終選考で落選させられることがあるように、本の場合も作品の文体が本のイメージを大幅に壊すケースもある。最終的には文体、翻訳本ならば訳者の技量によるところが大きいのだ。

メランコリー・ベイビー (ハヤカワ・ミステリ文庫) メランコリー・ベイビー (ハヤカワ・ミステリ文庫)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2005-11

 さて今夜紹介するロバート・B・パーカーの『メランコリー・ベイビー』はぼくの三つの選択方法を悉くクリアーした作品である。訳者は菊池光氏。ロバート・B・パーカーの著書全般を担当している常連の翻訳者だ。最近ではロバート・B・パーカーの作品というより翻訳者・菊池光氏による翻訳本というイメージが強く、専ら、菊池光氏の翻訳ならば品質を保証された感じで愛読している。物語は、私立探偵のサニー・ランドルが元夫のリッチーが再婚すると知って相手の女に殺意を抱く件から始まり、大学生のサラの依頼で、サラの本当の両親を探す為に、調査をする過程で起きる様々な事件を解決していくサニー・ランドル・シリーズの4作目である。ロバート・B・パーカーには彼の3本柱となるシリーズがある。本シリーズのほか、出世作スペンサー・シリーズやジェッシイ・ストーン・シリーズである。本を読むならなるべく同じ著者のものを読むことをお薦めしておきたい。同じ作家の本を読むということは、その作家の人生そのものを読む事にも繋がっていく。実際のところ、スペンサー・シリーズは彼の実生活が反映されたシリーズだし、本作に登場する精神科医のスーザン・シルヴァマンはスペンサーの恋人として登場するスペンサー・シリーズの重要なキャストである。作品が単体の世界では終わらず、作品と作品の間を行き来する。これも同じ作家を読むもうひとつの楽しみでもあるわけだ。『Melancholy Baby』はジャズ好きのパーカーらしくジャズのスタンダード・ナンバー「My Melancholy Baby」から思い付いて名付けたもののようだ。さて今夜は特別にYou Tubeよりみつけた「My Melancholy Baby」をご覧頂きましょう。ディーン・マーティンでもなく、エラ・フィッツジェラルドでもなく、今夜はバーブラ・ストライサンドのヴァージョンの映像をお楽しみいただきます。本と音楽の融合。たまにはこんなのもいいかな。

Barbra Streisand - My melancholy baby 


私の男

2008年01月17日 | 本と雑誌

 第138回芥川、直木賞が決定した。いつもは参考程度にしか興味を示すことはない文学賞なんだけど、今回は違った。なんたって直木賞候補作のなかにはぼくが推す馳星周さんの『約束の地で(集英社)』と桜庭一樹さんの『私の男(文藝春秋)』が最終選考に残っていたからだ。馳星周さんの作品は殆ど購入しているほどのファンなので同賞の歴代授賞者の桐野夏生さんや船戸与一さんと是非とも肩を並べて欲しいと思っていた。桜庭一樹さんは候補作の『私の男(文藝春秋)』が始めて読む作品なんだけど、つい数日前から読み始めてちょうど半ばまで読み尽くした。秀逸な作品は最後まで読まなくてもその真価は伝わってくるものだ。

 さて前置きはこれくらいにして授賞結果に移る事にするけど、既にテレビのニュースや新聞等で昨夜から今朝にかけて報じられているので今更勿体つけて公表する必要もないわけだが、芥川賞は川上未映子さんの『乳と卵(文学界12月号)』、直木賞は桜庭一樹さんの『私の男(文藝春秋)』に決まった。桜庭一樹さんの授賞は素直に喜びたい。惜しくも授賞を逃した馳星周さんは次回作を期待したい。

 ところで芥川・直木賞の由来なんだけど、これは直木三十五氏と親交の深かった菊池寛氏が自ら率いていた文藝春秋社で43歳で逝去された直木氏の名を記念して直木賞を設立することを発案し、同時に芥川賞も設立することを宣言、昭和10年に制定されたのが始まりらしい。しかるに制定された当初の授賞基準は現在とはかなり違っていたらしい。いつ、現在の基準で定義付けされ審査されることになったかはわからないけど、芥川賞は各新聞、雑誌などに発表された短篇の純文学作品で、無名、新進作家が対象となっている。又直木賞は各新聞、雑誌などに発表された作品かもしくは短篇及び長編の既刊された大衆文芸作品で、無名、新進、中堅作家が対象となっている。ところが年間膨大な量の文芸作品が発表される中、期間内に到底審査員がそれらを一つひとつ吟味していく余裕はないわけだから、候補作を絞る必要がある。その選考役を担っているのが文藝春秋の社員であり、社員の多数決で候補作品が選ばれ選考委員会の俎上に乗るわけである。つまりは候補作の殆どが文藝春秋の社員の趣向に委ねられ、彼らの好みに合わないものは選考から外されることになるのだ。

 さてそれではぼくが推して、見事直木賞を授賞された桜庭一樹さんのプロフィールに触れておこう。生まれは1971年。鳥取県出身。『赤朽葉家の伝説』は日本推理作家協会賞受賞、同作は前回の第137回直木賞候補となっている。ちなみに芥川賞を授賞された川上未映子さんは1976年、大阪府生まれのシンガー・ソングライター。処女小説『わたくし率 イン 歯ー、または世界』が第137回芥川賞候補となっている。

私の男 私の男
価格:¥ 1,550(税込)
発売日:2007-10

 桜庭さんはミステリーの女流作家だ。作品は孤児になった少女と養父の禁断の愛と罪を描いた長編小説だ。基本的なところはミステリー小説なんだけど、そこは直木賞候補だけあって謎解きよりも精神的心理描写が色濃く浮き出ている。しかしこういった趣向の作品をぼくは特別好む訳ではない。少なくとも若いうちなら興味本位で読んでいたかもしれないが、歳を重ねるともっと手の込んだ読物を欲するようになり、露骨な性描写が書かれたものを目にすると、途端に本を閉じてしまう習性が出来上がってしまった。矛盾するようだが、ポルノならそれを想定して描かれているので読むけれど、それ以外の書物に性描写は求めないのである。宮本輝さんの小説にやはり禁断の性の世界を描いた『焚火の終わり』 という作品がある。桜井亜美さんの作品にも売春や近親相姦を扱った『イノセント・ワールド』という小説がある。直木賞を授賞された桜庭一樹さんの『私の男(文藝春秋)』も倫理観を損なう題材を扱っている。しかし宮本、桜井両作家にも共通して云える事だが、そういった際どい性描写を随所にちりばめながらもすこしも卑猥ではなく、むしろ読んでいく過程の中でその描写の必然性というか、捩れた描写を作品の中に捻じ込もうとする説得力があるのである。「近親相姦」という重いテーマは正直なところ読みたくはないし、ずっと封印しておきたい題材のひとつだ。しかしそこに真剣に向き合い、人間が持つ歪んだ愛の形を怖気ずに晒してみせたところにこの桜庭一樹という女流作家の作品へ賭ける意気込みを感じる。今後の活躍が楽しみな作家である。あと未読が百ページ弱。最後まで読むのがなんとなく惜しい気がする。


愛がいない部屋

2008年01月14日 | 本と雑誌

 作家・石田衣良氏の『愛がいない部屋』を読んだ。短篇集はあまり好みじゃないんだけど、この小説は意外に面白く読めた。全12編。舞台を神楽坂のタワーマンション「メゾン リベルテ(自由の家という意)」に限定し、そこに暮らす人々の暮らしをオムニバス形式で描いてゆく連作集。但し、それぞれの物語自体はあくまで単独で繋がりはない。だからセオリー通り始めのページから読む必要がないので、読者は好みのタイトルから選べばいい訳だ。

 ぼくは子供の頃から所謂文学少年というのではなかった。ミステリーは好きで読んだけれど、専門馬鹿で、純文学にのめり込んだ事はなかったように思う。自堕落で、興味のないものにはいつもそっぽを向いて生きてきた。それは映画にも、音楽にも共通して云えることだ。だから作業自体に非常な時間を要する読書は厳選して書物を選んできた。映画にしてもそれは例外なくね。かりに同じ原作の映画でもあればたぶんそちらのほうを最優先で観てしまうかもしれない。映画を観れば原作本は読む必要がなくなるのできっと読まない。記憶の中でも、邦画にしろ、洋画にしろ、映画化された本を殆どぼくは読んでいない。この作品の内容が知りたい、から始まり、わかった段階で完結する。だからその方法がどうであれいい訳だ。ぼくが読む本には映画化された本は勿論ある。しかし、本を読んでから改めて映画を観た記憶がない。それは映画を観た後も然りである。

愛がいない部屋 愛がいない部屋
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2005-12

 文学とか映画は表裏一体だと思っている。本が売れたから映画化される。つまり売れない本が映画化されるケースは殆どない。それと映画化したくても倫理的、予算的なものもクリアーできるものでなくてはならない。映画は誰でも観る。大人も子供も。そして配役は知名度のある役者が選ばれる。たとえ原作には不釣合いな役者でも我々はそれを素直に享受しなければならない。しかし本は自由だ。キャスティングも思い思いの役者を配置すればいい。いうなれば自分の中で理想に近い物語を形成できる、という訳だ。こんな便利な方法があるであろうか。

 『愛がいない部屋』は物語にけっして劇的な展開がある訳ではない。ごく日常の他愛ない出来事が連続しているだけである。しかし、そこには映像化できない心の動きやあまりにリアルな生活臭が漂ってくる。石田衣良氏の作品は映像的なんだけど、容易には映像化できない繊細さがある。そこが良い。ここに収められた12編の恋愛短篇集はどれもこれも課題を残したままの終わり方をしている。主人公はけっして幸福とはいえない、ある悩みを抱えて生きている。でも、現状から逃げ出すことはせずに懸命に立ち向かう姿勢をみせる。ハッピー・エンドな終わり方ならぼくの中でもう読み返す必要はなくなる書物となる。しかし、この『愛がいない部屋』は物語が完結した後の主人公の生き方がどうなっていくのかある種の不安を抱かせる。そしてぼくはそれぞれの生き方がこうであればいいと願い、もうひとつの物語の続きを自分の中で自由に描いてゆく。このタワーマンション「メゾン リベルテ」の名の由来のように。そして主人公の未来が輝かしいものであることを期待しながら。


余命1ヶ月の花嫁

2008年01月08日 | インポート

1 ある日曜日の午後のこと。何気なく付けたTVの向こうで酸素吸入器のチューブを鼻に付けた可愛らしい娘さんが映っていた。乳癌から肺に転移した末期癌患者。しかし、外見からはとてもそんな深刻さは伝わらない。ふっくらとした頰に屈託のない明るい笑顔。そこから末期癌の悲壮さを感じ取ることは難しい。(本当にこの娘さん、癌なんかなぁ)。その映像を観た方なら一様にそんな感想を洩らすことだろう。

 初夏か秋か―。放送を観た季節さえ忘れてしまったが、彼女のその笑顔はしっかり脳裏に焼き付いている。長島千恵さん。それが彼女の名前である。番組は長島千恵さんが余命1ヶ月の宣告を受けて暫く経ってから撮影が始まっている。それは彼女の意志によるものである。人の役に立ちたい。その想いが彼女を駆り立てた。そしてそれが報道関係者をも動かした。彼女の想いはついにTBSの報道番組「イブニング・ファイブ」の特集という形になったが、奇しくもこの番組の感想を一番聴きたかった千恵さんは番組が放送された時には既にこの世の人ではなくなっていた。TBSテレビ報道局の樫元照幸さんはその無念さを回想している。しかし、それから2ヵ月後に千恵さんの最後の1ヶ月を追ったドキュメンタリー番組『余命1ヶ月の花嫁』が放送されると大反響を呼び、その放送を観た視聴者から、信じられないくらいのメールや電話、手紙が届けられた。この本はそのテレビ番組の書籍版である。

 美しい音楽があるように、美しい人生というのもきっとある筈だ。その美しい生き方を一冊の本として出版する。それは極めてありがちな企画である。しかしそれが闘病記、しかも余命宣告をされたある若い女性のものとなると事情は少し違ってくる。これは映画でもドラマでもない、24歳の女性が余命1ヶ月を懸命に生きた「真実」であり、しかも癌と闘うことになる壮絶な闘病記録である。「普通の人生が送りたかった」、「普通の結婚をして、普通の幸せが欲しかった」。ささやかな幸せ。それは普通に生きていく者にはなにかしら物足りない願望でありはしないか。しかし千恵さんは切実にそれを求めた。

 谷川俊太郎さんの詩集『うつむく青年』に「生きる」という詩がある。生の断片を切り取ったようなその心あたたまる詩に余命1ヶ月を懸命に生きた長島千恵さんの姿が重なる。

生きているということ/いま生きているということ/それはのどがかわくということ/木もれ陽がまぶしいということ/ふっと或るメロディを思い出すということ/くしゃみをすること/あなたと手をつなぐこと/生きているということ/いま生きているということ/それはミニスカート/それはプラネタリウム/それはヨハン・シュトラウス/それはピカソ/それはアルプス/すべての美しいものに出会うということ/そして/かくされた悪を注意深くこばむこと/生きているということ/いま生きているということ/泣けるということ/笑えるということ/怒れるということ/自由ということ/生きているということ/いま生きているということ/いま遠くで犬が吠えるということ/いまどこかで産声があがるということ/いまどこかで兵士が傷つくということ/いまぶらんこがゆれているということ/いまいまが過ぎてゆくこと/生きているということ/いま生きているということ/鳥ははばたくということ/海はとどろくということ/かたつむりははうということ/人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/いのちということ

 普段、ぼく達は生きていることを実感する覚えがあるだろうか。美味しいものを食べた時。欲しいものが手に入った時。気になる異性に声をかけられた時。確かに心があたたかなもので満たされることだろう。しかしそれでも生きていて良かったと感謝することは滅多にない。それはぼく達の人生の終着点が未だずっと先の事だからに違いない。余命1ヶ月。なんと短い期限であろうか。ぼく達がもしもそんな事実を突きつけられた時、果たして何を思い、何を考えるだろうか。

 父親の貞士さん。叔母の加代子さん。最愛の人、太郎さん。友達の桃子さん。みんなに見守られて千恵さんはしずかに息をひき取った。あの笑顔をみていると最後には奇跡が起きそうな気がいつまでもしていた。しかしぼく達の想いとは完全に離脱した最悪の結果に愕然となった。(あの娘さん、死んじゃったんだね…)。そう思うと、無性に口惜しかったけれど、生前の千恵さんのあの笑顔を思い出すとなぜか悲しみもやわらいで行くような気がした。

 あの笑顔と癌を克服しようと前向きに生きた千恵さんの姿にぼくらは何か答えを探さなくてはならない。それが生かされている者に課せられた課題である。