音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

アレサが一番だよな

2008年12月28日 | インポート

Aretha_franklin2_3

 年の瀬に身内の葬儀で何かと大変な一週間だった。例年であれば、年末にある特別番組を観たり、間近に迫ったクリスマスを祝ったり、自宅でゆっくりと過ごすのだが、今年はクリスマスを祝う心境にもなれず、結局、書こうと予定していた記事も書けなかった。漸く本日、ひと段落着いて、PCの前に坐ったものの、いまだぼんやりとして何も手につかず、仕方なく先週から聴き出したアレサ・フランクリンの『貴女だけを愛して』を家人に気を遣いながらこっそり聴きいている。この『貴女だけを愛して』はコロンビアレコードからアトランティックレコードに移籍したアレサの移籍後初のアルバムである。同時にこのアルバムはコロンビア時代にポピュラーシンガーとして売り込み、パッとしたヒット曲もなかったアレサが、強烈なインパクトと共にスターの座に躍り出た、まさに歌手として最大の転機となったアルバムでもある。

貴方だけを愛して 貴方だけを愛して
価格:¥ 1,500(税込)
発売日:2006-12-20

 一曲目があのオーティス・レディングのオリジナルのカヴァー「リスペクト」。初めてこの曲を聴いたのはアレサの2枚組ベストだったけれど、ここに入っていたのか!と見つけたときは感動であった。YouTubeではリスペクトのライブ映像をいくつか検索できるけれど、僕にとっては一番記憶に新しいアリスタ時代にベスト盤をリリースした頃(1990年)のアレサがとても色気を漂わせていて好きだ。アルバムをリリースするたびに髪型を変えるアレサは、時に奇抜で時に魅力的でアルバムをリリースするたびに吃驚させられるけど、このソバージュヘアーは良く似合っていると思う。有名なチェーンスモーカーで、ストーンズのキース・リチャーズがアメリカの遺蹟と評したそのダイナミックな歌声に当時から僕は魅了されていた。サム・クックやオーティス・レディングのような天才肌のヴォーカリストはいつしか”クイーン・オブ・ソウル”と呼ばれるようになった。

 ブラックミュージックに興味を持った切っ掛けは僕の場合、ストーンズの影響が強い。中でもアレサ・フランクリンとの出会いはストーンズと同じくらい衝撃的だった。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」をキースやロニーを初め、ワイノーズのスティーヴ・ジョーダンや今やストーンズのピアニストには欠かすことの出来ないチャック・リーベルをメンバー据えて、この60年代の代表的なロックナンバーをゴスペルナイズして歌っているアレサを見た時、僕の中で電流が走った。「このオバサン、誰?…」。ゴスペルなんだけど余りに強烈なロックビートに僕は参ってしまった。とにかくこのナンバーはトータル的に凄かった。この曲は映画『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』のテーマソングに使用されたものだが、曲の依頼はまずアレサにあり、キースに連絡を取り、「ねぇ、こんどジャンピン~レコーディングするんだけど、参加しない?」とアレサがキースに打診し、二つ返事で了解したものらしい。「その曲なら知ってるぜ(笑)。OKだ!」という具合に。ロニー・ウッドやスティーヴ・ジョーダンなどキース人脈でレコーディングされた。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」のPVには主役のウーピー・ゴールドバーグもバックコーラスで参加している。

ジャンピン・ジャック・フラッシュ(紙ジャケット仕様) ジャンピン・ジャック・フラッシュ(紙ジャケット仕様)
価格:¥ 2,310(税込)
発売日:2007-12-19

 好きなソウル歌手は誰かと訊かれたなら、ある人は、オーティス・レディングというかもしれないし、サム・クックと答えるかもしれない。…でも僕は迷わずこう答えることにしている。

 「アレサが一番だよな」と。


ジャズが教えてくれたこと

2008年12月21日 | インポート

Art_blakey_2  初めて買ったLPレコードは阿川泰子のジャズアルバムだった。けれど、最近ではもう聴くこともなく押し入れの奥に眠っている。なぜ聴かなくなってしまったかは敢えて語る必要もないだろう。当時流行っていたアイドル歌手もそうだし、マンハッタン・トランスファーもそうだからだ。

 これまでから語ってきた事だけど、僕はあれ程80年代の音楽に影響されていながら、ずっとこの時代のものは敬遠して来た。はっきり嫌いだったと明言してもいい。なぜ嫌いだったかを掘り下げて語るなら、あの80年代を象徴するパーカッシヴな音が僕にとって耳障り以外のなにものでもなかったからだ。

 とはいえそれが阿川泰子やマンハッタン・トランスファーを聴かなくなった理由ではないけれど、この音が嫌いで逃げ込んだ場所に僕の求めていた音があったから彼らのアルバムは聴かなくなってしまったのかもしれない。

Moanin' Moanin'
価格:¥ 1,176(税込)
発売日:1999-03-17
 僕が逃げ込んだ場所は黒人が叩き出す強烈で猥雑なサウンドだった。当時好きだったのがアート・ブレイキーと彼のジャズメッセンジャーズ傘下で独特の個性を発揮していたハンク・モブレーというテナー・サックス奏者だった。まず言わせて貰うなら音が”本物”だった。「アート・ブレイキーっていうのか…この人のドラムはなんて黒いんだ…」。その瞬間、衝撃がはしり抜け、僕は茫然として立ち竦んだ。それは今まで聴いていたジャズの概念を悉く吹き飛ばしてくれた瞬間だった。特に彼のレパートリーの「モーニン」は鳥肌が立つぐらい凄いと思った。

 ジャズ・メッセンジャーズに在籍していた頃のフレディ・ハバードがこの「モーニン」で眼の覚めるようなラッパを響かせるライヴ映像にはホーンセクションからするっと抜け出すようにフロントで吹きまくる勇壮な彼の姿が映っている。でもフレディ・ハバードに負けず劣らず存在感を露わにしているのがバンドの親玉アート・ブレイキーだ。だらしなく口をあけて自分の出番が来るまでずっと固唾を呑んでいる表情は余裕綽々。しかしひとたびリズムを刻みだすとそのタッチは主役のフレディ・ハバードを飲み込むほど力強い。この人の叩き出すリズムは人間の業を一挙に担い、リズムに乗せて放出しているようだ。パーカッションの歯切れのいい電子音などではなく、それは黒人が持つ土俗的な響きなのである。

 ジャズはメンバー同士がお互いの気持ちを通わせながらコンタクトし、会話をする音楽だ。それはロックやブルースにも通じるけど、ジャズはよりそれが顕著だと思う。ジャズライヴでは同時に互いの技術をも競い合う音楽ともいえるんだけれど、その音楽的な切磋琢磨があったからこそ今日のジャズの反映があるのだと思ったりもする。 

 50年代のロックンロールやブルースのバンドには一流のベース奏者がいた。しかしバンドからアップライトベースを排除して、格下のギタリストをベースギターに配した事からロックンロールはロックと呼ばれるようになったとキース・リチャーズは何かのインタビューで応えていた。ジャズはベースで名を馳せたミュージシャンが数多いるけど、その中でも僕はポール・チェンバースとロン・カーターが好きだ。特にロン・カーターは日本でも馴染み深く、テレビコマーシャルに出演したり、来日公演も頻繁に行っている。

 続く映像は横浜"Bird"で収録されたスリリングなジャズコンサートである。曲名は「BLUES FOR D.P 」。ロン・カーター以外はニューフェイスで顔触れを見ても知らないメンツばかりだが、ロン・カーターに至っては相変らず極上のベースを披露してくれている。僕はいつもながら彼や多くのジャズメンから元気を譲り受けている。そこにジャズのパッションがあるから僕は何事にも怯むことがないんだと思う。


走れ何処までも

2008年12月19日 | インポート

 特に今夜は書きたい音楽ネタもないので、先日行われた大阪市なんばグランド花月での間寛平さんの「アースマラソン」出発式を、実況風景をまじえながら僕なりの感想を述べたいと思う。アースマラソン……初めて彼の口からこの言葉をきいた時、それが何を意味するのか俄かには理解できなかった。それが二年半をかけた世界一周走破と知った時、なんてナンセンスな企画なんだと思った。間寛平さんについてはこれまでから芸能界きっての脚力を活かしたマラソンや鉄人レースへの参加と年齢のわりに元気な姿にいつも驚かせられていたけれど、今回ほど驚かされた事はなかった。勿論人類初の試みだし、マラソン2万キロ、ヨット1万6千キロは前代未聞の構想だ。

 正直なところ、僕は間寛平さんについては芸人として評価を低く見ていた。子供の頃から吉本新喜劇や「あっちこっち丁稚」で観させていただいていたけれど、決して巧い芸人さんだなぁと思った事は一度もなかった。お笑いは嫌いではなかったけれど、僕が好きなのは落語や漫才。いとこい、やすきよ、Wヤングはいつも巧いなぁと思いながら楽しい時間を過ごさせて貰っていたけれど、基本的に僕はコントはお笑いとして認めていないようなところがあった。かくべつ間寛平さんが演じる「元気過ぎる」お爺さんには違和感を覚えたし、失笑を買う為の奇抜なメイクにも違和感を感じていた。彼はおそらく芸人として自信がないのだ。それをカヴァーする為にあんなメイクを施したり、滑稽な動きで笑いを誘おうとしている、と僕の眼には映ってしまった。芸歴で言えば島田紳助さんや明石家さんまさんに引けを取らない筈なのに、司会業は皆無、レギュラー番組はあるものの、若い芸人に混じってとても大御所とは思えないバカをやっている。もしかしたら芸人としては、僕達が評価を下すまでもなく、間寛平さん自身がその実力を一番良くわかっているのかもしれない。けれどある時、24時間テレビで走っている間寛平さんをみた時、思わず僕は感動で年甲斐もなく涙を流してしまった。「元気」を売り物にしている芸人さんは他にもいるのかもしれないけれど、間寛平さんのレベルはちょっと格違いなようにも見えた。

 芸人として笑わせるだけが能じゃない。それが長い芸能生活で間寛平さんが到達した答えではなかろうか。イベントにはロックミュージシャンの忌野清志郎さんが寛平さんの為に作った「走れ何処までも」がビデオメッセージと共に流された。ついにスタートが切られたアースマラソンはおそらく人類史上最大のパフォーマンスになる。それは同時に芸人・間寛平が仕掛けた途轍もないプロジェクトであり、不器用な彼流の表現方法であったのだろう。芸人魂ここにあり。いろんな芸人さんを見てきたけれど、これほど人に愛され、人を惹き付けてやまない芸人さんは僕の記憶にはない。まさに関西の誇り、芸人の誇りなのである。


最晩年に甦った神様

2008年12月14日 | インポート

Muddy_waters2  ミック・ジャガーとキース・リチャーズが同じバンドのメンバーになる切っ掛けを作ったのは、チャック・ベリーやマディ・ウォーターズのLPレコードだった。彼らがローリング・ストーンズを結成し、翌年、チャック・ベリーの「カム・オン」でデビューを飾った1963年に僕は生を受けた。ローリング・ストーンズの名付け親だったブライアン・ジョーンズはメンバーから解雇を言い渡されその後、謎の死を遂げてしまったが、彼が愛したローリング・ストーンズは今も尚元気に活動を続けている。

 「ローリン・ストーン」。

 マディのこの曲名を捩ってバンド名にしたのは全くの偶然だった。当時はバンドの中心人物だったブライアンがギグに出る為に偶々傍にあったマディ・ウォーターズのLPレコードから苦し紛れに名付けた名前だったのだ。当時イギリスには白人の品の良いポップスソングが流行していた。イギリスの若者はもっと粗雑でワイルドな音楽に飢えていた。そんな渇望が生んだロックバンドがイギリスを席巻するのにさほど時間はかからなかった。そうやってブルースやロックンロールフリークが集まって出来たイギリスのバンドの中ではローリング・ストーンズも数多いるカヴァーバンドのひとつに過ぎなかった。それが今や世界的なロックンロールバンドになっている。初めは趣味の域を出なかったものが、その内、思わぬ反響とともに身辺が激変していく。しかし、アメリカに渉り、イギリスと同じ歓迎を受けるものと思った思惑が粉々に打ち砕かれ、それがやがて反骨精神となって音楽に反映されていく。彼らを虚仮にしたという事は、同時に彼らが愛していた音楽をも愚弄しているようなものだ。彼らの音楽の芯がぶれなかったのは、今でも心からブルースを愛している証拠だし、この時の苦い想い出があるからだと思う。

ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ +8 ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ +8
価格:¥ 2,039(税込)
発売日:2001-08-22

 僕は1980年代の半ばから1990年の初め頃まで頻繁にブルースのアルバムを収集し始める。初めて買ったマディ・ウォーターズのアルバムは『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』だった。彼はストーンズを介して知ったブルースマンであったけれど、それまで一度もマディ自らの曲は聴いたことがなかった。当時マディ・ウォーターズについてはブルースにエレキを最初に導入した革命者という、眼で読んだ知識しか知らなく、それは殆ど知らないのと同じだった。初めて聴いたマディ・ウォーターズの第一印象は、ブルースというより、ロックそのものだった。それからしばらく書物でブルースのことを調べ始め、ブルースがロックの源流の頂点にある事を知り、いわばロックの親玉みたいなものだという事が判った。でも原曲がこれ程シンプルだとは驚きだった。演奏が淡白であるからマディのヴォーカルが際立っているような…。だから、晩年、マディが「泥水」から「聖水」になったと酷評された事が僕は理解できなかった。 

 ジョニー・ウインターがマディをプロデュースした最晩年のブルースカイレーベル時代は、まるで最後の生の焔をめらめらと燃やすような時間だったに違いない。さすがに演奏のほうは全盛期の冴えはなかったけれど、ジョニー・ウインターの好サポートにより完全に甦ったマディの姿があった。

 僕はマディの『アイム・レディ』を聴いている。僕が映像で初めて観るマディよりもすこし前のマディの切れ味鋭い歌声が録音されている一枚である。始めてみたマディはストーンズのメンバー達と「マニッシュ・ボーイ」をジャムっていた。仏陀のように椅子にどっかりと坐って、その姿は威厳たっぷりに見えた。ストーンズのメンバーはあともう少しでマディが逝った年齢に届こうとしている。でも『SHINE A LIGHT』を観る限り、彼らはマディよりもずっと長生きしそうな気がしている。ひょっとしたらマディが「まだ来なくていいよ。もっとそっちで頑張ってな」と下界を見下ろして笑っているような気もする。

アイム・レディ アイム・レディ
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2004-07-22

-収録曲-

  1. I'M READY
  2. 33 YEARS
  3. WHO DO YOU TRUST
  4. COPPER BROWN
  5. I'M YOUR HOOCHIE COOCHIE MAN
  6. MAMIE
  7. ROCK ME
  8. SCREAMIN' AND CRYIN'
  9. GOOD MORNING LITTLE SCHOOL GIRL
  10. NO ESCAPE FROM THE BLUES
  11. THAT'S ALRIGHT
  12. LONELY MAN BLUES

エタに熱視線を送るロックンロール・レジェンド

2008年12月10日 | インポート

Chuck_berry

 先日、映画『SHINE A LIGHT』を観た帰りに昼飯を食べる為、「タン・カフェ」というベトナム料理屋に入った。場所はさんプラザ地下一階にある。すこし路に迷ったが、電話で確認するとすぐにみつかった。店に入るとお香のような匂いが鼻腔を擽る。日本語で対応した店長は、流暢ではないが、かくべつ聞き取り難いという訳でもなかった。勧められるままにフォー付きの定食を注文した。フォーは米粉のうどん、きし麺のような食感でこしがある。バジリコが入っている為、初めての人には漢方薬のようなその香りに戸惑うかもしれない。皿には豚の角煮、春巻き等が乗っている。オーダーしたものがテーブルに運ばれてくるのは意外に速く、映画館で買った映画のパンフレットを開く間も無く出て来たそれらを、早々に食べる羽目になった。そしてそれらを無言で食べ終えた我々は、食後の余韻もそこそこに、その店を後にした。帰りに名刺を貰ったが、生憎、僕のは家に忘れてきた為、渡す事ができなかった。名刺なんていうものは一度に数百枚は刷るのでこんな機会でもないと容易に消費しない。僕はそんな貴重な機会を喪ったわけだ。

 次に我々が向かった場所は、タワーレコード。豊岡にはTSUTAYA系列のCDショップはあっても、タワーレコードのような大型店はない。品数は雲泥の差だ。ネットで買う機会が増えた最近でもやはり直に手にとって買う醍醐味は通販にはない。だから今回是非ここへは足を運ぶつもりだった。距離も三ノ宮駅から10分とかからない。なんとなく雑誌のある棚を覗くと早々と『ロッキング・オン』が発売されていた。特集は勿論、映画『SHINE A LIGHT』。ミック&キースのロングインタビューが掲載されていた。まずはこれをゲット。

rockin'on (ロッキング・オン) 2009年 01月号 [雑誌] rockin'on (ロッキング・オン) 2009年 01月号 [雑誌]
価格:¥ 650(税込)
発売日:2008-12-01
 続いて好きなマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフのアルバムを物色する為、右往左往。しかし、肝心のブルースの棚を探すのはなかなか難儀であった。漸く見つけたものの、輸入盤の編集盤が意外に多く、オリジナル盤が少ないのが残念であった。4,5年前に大阪や神戸をうろついていた頃は、それでもあっと驚く名盤が必ずといっていいほど陳列していたものだ。
Breakin' It Up & Breakin' It Down Breakin' It Up & Breakin' It Down
価格:¥ 1,372(税込)
発売日:2007-06-05
それでも買おうと思っていたウォーターズ、ウインター&コットンの『BREAKIN' IT UP & BREAKIN' IT DOWN』は、輸入盤と国内盤の数枚が置いてあったので、僕は国内盤を買うことに決めた。
ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ
価格:¥ 2,394(税込)
発売日:1997-10-22

 ハウリン・ウルフをロンドンに招いて収録された『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』は、発売当時つい買いそびれてしまった一枚だ。ストーンズのメンバーだったビル・ワイマンや現在もストーンズで活躍しているチャーリー・ワッツ、それにエリック・クラプトン、イアン・スチュワート、リンゴ・スターまで参加した豪華セッションだ。ストーンズファンならおさえておきたい名盤中の名盤である。これもゲット。

 そして最後は、チャック・ベリー『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』。1986年に60歳のバースディ・コンサートとして開催されたチャック・ベリーのライヴ映像を中心に構成されたテイラー・ハックフォード監督の映画作品。映画製作に当たって音楽プロデューサーとして白羽の矢が立ったのはストーンズのキース・リチャーズだった。

チャック・ベリー ヘイル!ヘイル!ロックンロール [DVD] チャック・ベリー ヘイル!ヘイル!ロックンロール [DVD]
価格:¥ 5,900(税込)
発売日:2007-03-21

 僕は当時この映画をVHSで観た。ちょうどブルースやサザン・ソウルを齧り始めていた頃で、この映画は僕にとって黒人音楽へのかっこうの入り口になった。チャック・ベリーの曲を始めて耳にしたのはストーンズの「キャロル」だった。当時はよもやこの曲がチャック・ベリーの曲とも知らずに聴いていた訳だが、はっきりとチャックの曲と知ったのはこの『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』を観てからだった。この映画を観たチャック・ベリーの第一印象は正直なところ、その余りの暴君ぶりには共感を持てなかったものだが、特に場外篇としてキースとやりあうリハーサル風景は緊迫感に満ちていて殺気すら覚える。なにが気に食わないのかキースの演奏にけちをつけるチャック。ふて腐れて鬼の形相になるキースの貌がゾッとするほど恐い。若い頃に、ビジネス面で騙された経験から人間不信に陥り、喧嘩っ早くなり、刑務所に入っていた頃もあるチャックは傍から見れば卑屈で変人に見えても仕方がない。

しかし、DVD化となった本作では本編には入らなかった貴重なリハーサル風景があって、そこでのチャックはうって変わって陽気でひょうきんだ。この映画の為に招待したゲスト陣を選ぶ段階でキース側が予定しているエタ・ジェイムスの参加に反対したチャックが、試しにエタ・ジェイムスに歌わせてみたところ散々な結果で、「ほらみろ、ダメじゃねぇか」と毒づく。エタ・ジェイムスは咄嗟の事で眼鏡を失くしたり、曲のコード進行も把握していなかった。キースはエタを気遣い、優しく抱き締め、もう一度憶えなおしてトライするように薦めた。それが、本編の「ロックンロール・ミュージック」に結実している。残念ながらその時のリハーサル風景はキースの配慮で撮影されなかったけれど、マディ・ウォーターズの「フーチー・クーチー・マン」を「フーチー・クーチー・ギャル」の替え歌で歌うエタに熱視線を送るチャックは先ほどとは別人のように穏やかだ。チェスでチャックのバックコーラスを務めたこともあるエタをチャックは憶えていなかった。「エタ・ジェイムス? 誰だそれ」。キースに紹介されたエタを怪訝に見ていたであろうチャック。エタ・ジェイムスを知らなかったのも驚きだけれど、こんなふうに豹変するチャックにも驚きだ。この映像があったからこそ、本編でのあの感動的な盛り上がりがあるのだろう。チャックがエタを抱き締め、そこへキースが加わる。この映画の成功を占うようなとても爽やかでほっとするシーンだった。

 追記: ジョニー・ジョンソンのピアノはいつ見ても凄いなぁ。キースがチャックのレコードを初めて聴いた時、まず知りたいと思ったのは、歌っている男とピアノを弾いている男が誰かという事だったらしい。ジョニー・ジョンソン・バンドを乗っ取って自分のバンドにしたチャックだったけれど、彼と対等に音楽を作れるのは本当のところ、ジョニー・ジョンソンしかいないんじゃないのかな。ジョニー・コープランドは自分の持ち味が消されるのでジョニー・ジョンソンは二度と雇わなかったようだ。晩年はセッションマンとしてあらゆる大物ミュージシャンのアルバムに参加するなど、余りに忙しない老後だった。けれども、長いキャリアのなかでもソロアルバムはたった一枚リリースしただけでこの世を去ってしまった。今頃は先に逝った連中と物凄いセッションを繰り広げているに違いなく、そんな想像をしながらこの映像を観るのもなかなかいいものだ。節くれだった太い指が鍵盤を軽快に飛び跳ね、チャック・ベリーのスタンダードナンバーを弾いていく。その演奏は見かけによらずスピード感に満ちてしかも繊細だ。