音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

その時、僕は何をしていたか―

2011年04月01日 | インポート

 不意に何かを書きたくなりノート・パソコンを立ち上げたがじきにキーボードを打つ手がとまる。 

 東北を襲った今世紀最大の大地震は、平穏に暮らす人々の町を一瞬にして粉々にしていった。

 それは巨大な何かで踏みつけられたでもしたみたいに何もかもが滅茶苦茶に壊されてしまった。

 自然が生んだ猛威の前には人間の叡知など所詮儚く脆い。

 今回、エントリーのタイトルを『その時、僕は何をしていたか―』としたのも同じ国の同胞でありながら、何も出来なかった無力さゆえである。

 3月11日、僕はたまたまその一部始終をテレビのブラウン管を通して観ていた。

 地震直後は状況の掌握が遅れていたためか、その後に起きる津波警報を発令するアナウンサーの声量もいつもと変わらず淡々としていたように思う。

 危機感というよりもむしろこれから起こるであろう出来事を凝視しようとする傍観者の心境であった。

 それはそのままテレビのブラウン管の前にいて事の成り行きをみつめるだけの視聴者にも伝染した。

 そう、それはあの惨劇が起こる前触れとは到底思えないほどにのんびりとした時間が流れていた。

 それはまるで映画か何かを観るようだった。

 一台の固定カメラが巨大な津波が押し寄せ一瞬で湾を呑み込み、家や工場を押し流し、車や何トンもあるようなコンテナがいとも簡単に水面に浮かぶのを映し出していた。

 逃げ惑う人影がないということはこの警報に迅速に対応した市民が無事に逃げおおせたのだぐらいに思っていた(この時ぼくの脳に去来したのは最悪な状況における最大限の状況)。

 なんとなくその時、命だけ助かれば再生の道も拓けると思ったのは確かだったが、夜になり、一夜明けると町の様相は一変していた。

 夜の帳が厚いベールとなり覆われていたために、「真実」は闇に隠されていた。

 これまでの自然災害を遥かに超える惨状であった。

 そこには復興を阻むいくつかの問題が二次的三次的に積み重なり横たわっていた。

 まずはその被害者の数。

 数字だけで示されるそれらの報道を聞いていると、再び傍観者の立場に引き戻される錯覚を抱かせる。

 人道的配慮が優先するわが国の報道範囲ではやむを得ない気がするが、数字が示す報道はやはりどこか人間味を欠き冷たい。

 報道の裏で報道されていない、また報道したくても出来ない裏事情。

 本当の地獄は当事者しかわかるまい、という気がする。

 ただ今いえることは、これは遠く離れた異国の出来事ではなく、日本の領土で起きたきわめて身近な出来事であるということ。

 決して他人事ではない切迫感がある。

 がんばっている人に「もっとがんばれ」とは言いづらいが、せめて希望だけは捨てないで欲しいと祈りたい。

 同じ国の同胞として。

 同じ国の隣人として。