音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

飛ぶ夢をしばらく見ない

2008年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 奇しくも山田太一の小説のタイトルと同じになってしまったけれど、勿論、山田太一の小説を語るわけではない。今夜は子供の頃によくみていた夢のことを語ろうと思う。子供の頃はどういうわけか飛ぶ夢をよく見た。ストーリーは覚えていないけれど、そのいずれもが誰かに追いかけられて寸でのところで空を飛んで遣り過ごすという全く呆れるくらいワンパターンな夢であった。

 それに空を飛んでいるのに何故か追跡者に摑まえられるのではないかと疑念するくらいの低空飛行。しかも水泳の平泳ぎのように両手両足を掻きながらでないと進まない。僕はおんぶお化けではないぞと怒りながらも夢の中ではどう足掻いても高く飛べないのだ。

 それに恥を承知で付け加えると大抵の場合僕は裸なのだ。このような夢の出来事なので当然、裸になった経緯などわかるわけがない。昔『夢判断』という本を読んだ覚えがあるけれど、これもまた何かを暗示した夢なのだろうか。いずれにしてもこんな風変わりな夢を見た後でも、幸いかな僕は不幸な目にも遭わず過ごしている。

 不思議な事に夢に出てくる登場人物は身近な知り合いが殆どなのに、どういうわけか背景は僕が子供の頃にみた原風景のままというのが殆どなのだ。勿論その当時僕がみた風景と今の風景とは比べようもなく変わってしまっている。さすがに田舎特有の田園風景はさほど変わらないのだろうが、僕が通った小学校の校舎は建て替えられて最早面影を偲ぶ事さえできない。昔は藁屋根が多かったこの界隈は、今はすべて瓦屋根の新築が立ち並んでいる。僕の家も平成元年に建て替えたので築20年になるが、それほどふるさは感じない。しかし僕が夢でみているのは明らかに昭和40年代の風景なのだ。何故か建て替える前の校舎に学校とは縁のない登場人物が現れ、さもこの土地に縁が深いように溶け込み、馴れ馴れしく振舞う。そして余りにもちぐはぐな情景が出来上がるのである。エコカーが走る時代にオート三輪が走っている。道は舗装されている筈なのに、学校に行く道は何故か砂利道で、至るところで牛が捻り落とした牛糞が行く手を阻むように落ちていた。そういえば僕が子供の頃は民家には牛が飼われていたと記憶している。僕らはそれを器用に避けながら学校に行った事を覚えている。今は、高画質テレビが一般的になっているにも拘わらず、夢を見ている家の中では未だにダイヤル式の白黒テレビが現役で動いている。そして我が家のブラウン管テレビの横には大きな水槽があってそこには数十匹の金魚が泳いでいたが、それは勿論子供の頃の話だ。今はもうない。でも夢の中では公然とそんな矛盾が罷り通っている。でも何故か今は殆どというか全くといってもいいけど、このような飛ぶ夢も矛盾する夢も見なくなった。ちょうど40の坂を登り始めた頃から見なくなった。夢はおそらく見ていると思うけど、はっきりと輪郭が浮かぶ訳ではなく、それは全く僕のみた夢の記憶からは抜け落ちてしまっている。

 話は変わるが、僕の家にカラーテレビが初めて来たのは『初代仮面ライダー』が放送された頃だったから、僕が小学校低学年の頃だ。藤岡弘が扮する本郷猛が変身する仮面ライダーは瞬く間に少年の心を虜にした。それまでは『黄金バット』や『タイガーマスク』みたいなアニメーションファンだった僕がそんな特撮ものに魅せられたのは『キャプテンウルトラ』の影響かな。本当はいけないんだけど列車の網棚から置き忘れた漫画の月刊誌をそっと届けてくれた、旧国鉄に勤めていた伯父のお陰で、小学校の頃の僕は漫画本や小説などの書籍を労せずして手に入れることが出来たし、最新刊を読むことに少しも事欠かなかった。そんなこんなで高校生になってからというものは小遣いを貰って買うようになってからは漫画本の数はめっきり減り、小説オンリーになっていった。子供の頃には未開拓だった冒険小説が好きになった。次第にアニメも観なくなり、現在は専らドラマ主体に観ているし、傾向もコメディが好きになってきている。ちなみに最近僕が気に入っているテレビドラマは『正義の味方』と『学校じゃ教えられない!』だ。『正義の味方』はこのごろ何かと評判の高い志田未来と山田優の主演女優のドタバタコメディ。原作は聖千秋著の同名コミック漫画(集英社)。自己チューな姉に翻弄される妹役を志田未来が演じている。でもいじめられる志田未来が姉の理不尽な要求にもめげず、可哀想だなと同情するより、愛嬌があって面白いんだよねこの妹。『学校じゃ教えられない!』はもう深田恭子のおっとりしたちょっとエッチな女教師キャラに尽きるね。これからの展開が楽しみだ。

●『正義の味方』公式サイトは⇒こちら

●『学校じゃ教えられない!』公式サイトは⇒こちらRelaycakt5rg8_2

 夢から始まった今夜の記事もそろそろ終焉を迎える時が来たようだ。終わりはやはり映像ネタにすることにする。僕が最近気に入っているのはよくテレビで眼にするカルピスのコマーシャル。これには長澤まさみが出ていて「カルピスができる」説明を園児達にするとき、タッ君という園児をぎゅっと抱きしめる有名なシーンがあるけど、僕はあのコマーシャルがもの凄く好きなんだ。思わず僕がたっくんになりてぇって思ったほどさ。もっとも当のタッ君は抱き締められて「先生苦しい」と呻いているようだけど…。

 そしてもうひとつがこれ。カルピスウォーターのこのコマーシャル。「君の近くにいたい夏 告白篇」。長澤まさみのおどけた表情がカワイイね。最近はドラマでもシリアスなシーンしか記憶にないけど、このいっぷうコメディ風な設定が新鮮でいい。今度はこんな長澤まさみをドラマで見てみたい。ほんとこのコマーシャルはラブコメディのひとコマのようでずっと見ていたいと思わせる映像だ。

 どうも最近本来のブログから逸脱した記事ばかり書いている。次回はそろそろ音楽ネタに戻る事にするか!などと約束も出来ない台詞を口走るのであった。


イチロー3千本安打に思うこと

2008年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 Ichiro

 イチロー選手が29日の対レンジャーズ戦の一回第一打席で初球をヒットさせ日米通算3000本安打を達成した。日本では張本勲(3085本)に次ぐ快挙だ。時間の問題だと思われていた3000本安打だが、張本勲の日本記録は最早射程距離となったし、このまま順調に安打を積み重ねて行けば4千本安打も夢ではなくなる。ピート・ローズの持つ4256安打の米大リーグ記録を抜く日はいつになるんだろうか。

 それにしても張さんはこの偉業に対して激励の言葉を寄せていたけど心中は穏やかではないはずだ。なんせ自身の持つ日本記録を塗り替えられる時がすぐそこまで迫っている訳だから。あるテレビ番組でも「このままだと日本記録を抜く日も近いですね」と言った司会者に激怒した張さんが「イチローの記録は日米通算であって、私の記録は日本で作った記録だから比べようもない」と豪語していたようだが、傍からみると当然ながら負け惜しみの感は拭えない。確かに日本と米国だと投手の質や戦略も異なり、張さんが主張するように犠打や敬遠策が多い日本の野球に比べて、米大リーグは強打者にも真っ向勝負を挑むからヒットの確率はそれだけ多くなる。他にも球場の芝生の状態が日本と違ってヒットが量産し易い環境があるとか言ってたよな。まぁ張さんの言ってる事も判らんでもないけど、記録なんて数字上の事で状況云々なんて加味されない。イチロー選手が日本新記録を達成した時、果たして張さんはどんなコメントをするんだろうか。このまま順調に行くと、早ければ今シーズン終盤、遅くとも来シーズン序盤には日本新記録を達成する事になるんだろうから。

 きっと活躍するだろう。きっと記録を作るだろう。そんな我々の期待に応えられる選手がどれだけいるだろうか。海を渡った異国の地で地道にひとつの記録を築き上げる孤高の野球選手は、「目標は45歳まで野球を続ける事。夢は50歳」といってのける。イチロー選手にとって3000本安打も次の偉業を成す上での単なる通過なんだろう。鈴木一朗。今後もこの日本人としては余りにもベタな名前の野球選手が到達する偉業の数々から眼を離せない。


非ハードボイルドな日常

2008年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 ―これから語るメモ的記録は金曜と土曜にかけての僕の行動を纏めたものだ。時々体調が崩れて、いざパソコンに向かうと眩暈や眠気を覚え筆が進まないので、つい2日間の行動を一度に投稿しなければならなくなった。2日分の記事を書こうとすればかなりな量となるし、僕自身そんな体力は持ち合わせていないので、今回ばかりは多少の脚色を交えながら終始辻褄合わせに徹した。「非ハードボイルドな日常」と銘打っているが、文体は限りなくハードボイルドに近づけたつもりである。いつか機会があれば書こうと思っていた憬れのレイモンド・チャンドラー風日誌である―

 日常品などの買い物はなるべくまとめて済ませるようにしている。高騰を続けるガソリン価格。その理不尽とも言える上昇率は怒りの度合いを越えている。朝刊を読む限り、来月にも1リットルが190円となる予想のようだ。きょうは母親を車に乗せて駅前のショッピングセンターへ。屋上の駐車場は平日にも拘わらず満車状態だった。それでもなんとか隙間を見つけて駐車すると、買い物に付き合うことは出来ないので僕は車に残って読み止しの文庫本を開く。横溝正史の『病院坂の首縊りの家』の上巻。少し前から読み始めて漸く上巻の終盤に差し掛かっている。映画でもこの作品はみたけれど文庫で読むのはこれが始めて。映画ではストーリーが凝縮されていたが原作では事件発生から解決まで凡そ20年という歳月をかけている。映画化するに当たってはさすがに原作どおりという脚本には無理があったみたいだ。映画には『犬神家の一族』に引き続き、横溝正史とその細君が出演している。役者としてはずぶの素人なので勿論台詞は棒読みだ。けれどその存在感たるや名だたる俳優陣をも凌いでいた。

 母親を待つ事30分。さすがに車内も炎暑な熱気が籠もり始める。暑さで錯乱する寸前で車外へ逃亡する。ショッピングセンターの中は程よい冷房が効いている。まっすぐ自販機の前に直行した僕はシナモンラッテを購入する。円卓の傍の椅子に腰掛け通路を歩く人を眺める。夏休みという事もあり女子学生の姿が目立つ。女性物の衣類を専門に扱う店には尻の大きな女の定員がいる。そのデカさは半端ではない。尻の大きな女は嫌いではない。しかしそれには条件がある。太ももに豊かな充実感があり、脹脛は細く、足首にしても同様に細くなくてはいけない。あいにくこの店の女店員は僕の理想に反している。

 シナモンラッテの芳香が口一杯に広がる。紙コップの半ばを飲み終えたところで氷を噛み砕く。携帯の時間を覗き込む。すると先ほどより更に30分が経過している。僕は残りを飲み干し1階の食品売り場へと足早に急ぐ。

 午後からは馴染みの散髪屋へ行く。でもその前に腹ごしらえだ。学生の頃によく通った軽食喫茶。軽食と書いてあるが、この店は焼き飯をオーダーすると通常の2倍の量の焼き飯が運ばれてくる地元でも有名な喫茶店だ。学生の頃は店に置いてある大量の漫画本目当てによく通ったものだが、偶々飯を頼んだところ、想像を絶する量の焼き飯が出されたものだから、部活が同じ自称『どか食いの」友人を引き連れてよくこの店に行ったものだ。あれからもうかれこれ20年ぶりくらいにこの店の玄関を潜ったが、内装は殆ど変わらなかったように思う。相変らず客層は、漫画好きの痩せた青白い顔をした男か、もしくはフードファイターのような体つきをした頑健そのものの男達がいて彼らの溜まり場になっている。相当冷房は効いている筈なのに彼らが発する熱気で店内は生ぬるい。むさ苦しい男達に混じって恋人らしい男女がいたが、女の方が店の雰囲気に呑まれて圧倒されながら辺りをきょろきょろ見渡している。男達はご飯を喰う事もそこそこに一様に漫画を読む為に箸を休める。子供の頃はなにかをしながら食事をすると行儀が悪いとよく母親に叱られたものだが、ここではそんなことが平然と罷り通っている。そしてあの頃のように僕は焼き飯をオーダーする。本当は出されたおしぼりで貌を拭くのは汚らしくて嫌なんだけどぎらぎらする貌の表皮が気持ち悪くて、今回ばかりは許し乞うように叩く感じで貌を拭いてみる。

鎮魂歌は歌わない (文春文庫 ウ 20-1) 鎮魂歌は歌わない (文春文庫 ウ 20-1)
価格:¥ 780(税込)
発売日:2008-07-10

 飯が来るまでの間、僕はまたもや鞄の中から読み止しであるロノ・ウェイウェイオールの『鎮魂歌は歌わない』を取り出して読む。この本は完全なるハードボイルドだ。復讐を膨大なエネルギーに変えて疾走する本書は久しくその勢いを失っていたハードボイルドが甦った小説である。これぞ、ハードボイルドをこよなく愛する作家と訳者、それに編集者が絶妙なタッグを組んで築き上げた渾身のレクイエムである。無駄を一切欠いたストレートな文体は、怒りの情念を呼び起こすには充分すぎる風格をしている。ハードボイルド風スタイルを銘打つ姑息な小説が蔓延る中、久々に届けられた本格的なハードボイルド『鎮魂歌は歌わない』が読めるのは至上の喜びである。しばらくするとオーダーした焼き飯が運ばれてきたが、それをみた僕は声には出さないが、歓喜の雄叫びを上げていた。物価高云々はなんのその皿に盛られた焼き飯はあの頃のように桁違いの量だ。値段は680円という激安さ。その量に多少怯んだもののスプーンでご飯を掬い取りながら喘ぎ喘ぎ、山盛りご飯の「山」を削り取って行く。ほかの連中のようにながら食事は無理だと思い無心にその焼き飯と格闘する事30分。漸く完食し終えた皿には一粒の飯も残っていなかった。


ビールとレゲエと淡い恋物語

2008年07月24日 | Bob Marley&The Wailers

 本格的な夏の到来で普段なら海に山に繰り出したいところなんだけれど、この殺人的な暑さに怯んでつい自宅の快適な空間のなかでしかレゲエを聴く気になれないのは僕だけだろうか。初めて僕がレゲエという音楽を耳にしたのは二十歳を幾らか過ぎた夏の事であった。当時は些か偏った音楽嗜好があったので勿論レゲエを聴くのも初めてで、偶々貸しレコード屋で借りたボブ・マーリィーの『コンフロンテイション』が僕のレゲエ初体験第一号となった。「初体験」などと書くと世のスケベなオッサン連中はあらぬ想像を膨らましてしまいそうだが、僕の場合はまさしくこの言葉がぴったり当て嵌まるくらい衝撃的なものだった。音楽は制約された空間では余り聴きたくない思いが強いのでジャズであれ、ロックであれ、レゲエも例外なく屋外で、それも生演奏で聴くに限るとずっと思い続けていたのに、この歳に至るまで一度も生演奏を屋外で聴いた事がないという体たらくである。だから夏の太陽が燦々と照り付ける屋外のコンサートでバドワイザーを飲みながら観るレゲエはさぞかし格別だろうなと思う訳だ。屋外という開放されたシチュエーションで聴くレゲエは僕にとって好きな女に恋焦がれる場面に似ている。レゲエは1960年代にスカからロック・ステディ―レゲエとその音楽スタイルを変革させながら成長した音楽だ。ゲットーで生まれたリディムは後にストリートスタイルを汲むリリック重視のレゲエへとその姿を変えていく。ジャマイカという島国で生まれた黒人音楽がやがてアメリカ全土を席巻するのにそれほど時間はかからなかった。その絶対的な頂点にいたのがボブ・マーリィーだったのだ。

 スイカのような乳房をした女がその褐色の膨らみをあられもなく晒して乳児に与えている。乳児は裸だった。港の近くを新聞紙だかなんだか判らない紙の屑がカモメの飛翔と共に宙に舞っている。半裸の男がジャマイカカラーのニット帽をかぶってドラムを叩いている。声高にメッセージを込めたヴォーカリストが一杯のビールの為に唄ってる。僕が思い描くこれがジャマイカの姿だ。今もさほど変わってはいないだろうこの国に、当時から夢や希望はあったのだろうか。純粋な音楽は等しく政治に利用される。ラスタファリズムの思想は崩され汚されていく。レゲエは同時に貧困から生まれた究極のストリートミュージックともいえるんだ。

 そんな事に思いを馳せながら僕は今夜一枚のアルバムを手にする。ボブ・マーリィーの『バビロン・バイ・バス』だ。ボブはライヴレコーディングになるとロック色が強くなって僕の嗜好とはかなりずれてしまうし、『ライヴ!』に比べて知名度の低いこのアルバムをなぜ敢えて選んだかといえば、かつて『ブリッジ・トゥ・バビロン』のツアーを開始する際にマスコミの前に現れたキース・リチャーズが着ていたのはボブ・マーリィーのティシャツだったのを想い出したからだった。その時僕が思ったのは凡そのレゲエファンが察したようにこの『ブリッジ・トゥ・バビロン』が過去にボブ・マーリィーがリリースした『バビロン・バイ・バス』へのオマージュ的な思い入れがあったのだろうと感じた事だった。

 レゲエを聴く事は僕にとってはいわば見知らぬ誰かと恋をしている事と同じだ。あの間延びしたリズムと歯切れのいいドラム。そして何よりどんな音楽よりもストレートにハートにこの音楽は届くんだ。こんな歳になるまでずっとこの得体の知れない音楽の正体が知りたくて聴いている。今でも聴くたびに新しい発見をしているこの音楽には、人のぬくもりや優しさを感じずにはいられない。まるでそれは美しい娘に淡い恋をしているように―。

バビロン・バイ・バス バビロン・バイ・バス
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2005-05-11

―収録曲―

  1. POSITIVE VIBRATION
  2. PUNKY REGGAE PARTY
  3. EXODUS
  4. STIR IT UP
  5. RAT RACE
  6. CONCRETE JUNGLE
  7. KINKY REGGAE
  8. LIVELY UP YOURSELF
  9. REBEL MUSIC (3 O'CLOCK ROADBLOCK)
  10. WAR/NO MORE TROUBLE
  11. IS THIS LOVE
  12. HEATHEN
  13. JAMMING