ダーティ・サリー
価格:¥ 900(税込)
発売日:2006-08
お薦め度(★★★★★)
マイケル・サイモンは恐るべき才能を持つ作家だ。新人作家とは思えない筆力と物語の構成力はもはや新人のものではない。その実力は名だたるベテラン作家に肉薄する力強さがある。ぼくの知る限り新人でこれほどの作品を描ける作家をぼくは知らない。わずかにジェイムズ・エルロイの名を挙げるにとどめるが、作品の完成度、迫力においてはむしろジェイムズ・エルロイよりも勝っているのではないかとすら感じている。
本書『ダーティ・サリー』はマイケル・サイモンのデビュー作である。物語は停職扱いから復帰した主人公のオースティン警察殺人課部長刑事、ダン・レリスが、市バスに轢かれた青年の死体現場で偶然にも地下水路に遺棄された、頭部と両手脚のない若い女性の死体を発見する場面で幕を開ける。検屍結果から遺体の胃と膣内に複数の男の精液が残留していたことから、被害者が売春婦である可能性が濃厚となる。やがて売春婦の遺体の一部が医者や弁護士、銀行頭取などの十人の富裕層に差出人不明の小包として送りつけられたことで物語は単なる猟奇殺人から知能犯による脅迫事件へと発展する。作品全体から受ける印象はエルロイ作品の流れを汲む正統派ノア ールだがその文体にはエルロイ作品に頻繁に見受けられる禁忌な言葉遊びや不旋律さはなく、エルロイの系譜を引き継ぎながら、なお文学としての素晴らしい力量を鼓舞している。
サイモンが影響されたハードボイルドやノアールは一人称で書かれることが多い。それは一人称で書く事でより読者に作品の主人公に感情移入しやすくするのが狙いであり、作品に求められるのは激情であったり、苦悩であったり、疎外感や怒りを仮想体験することである。ただし一人称で書かれる作品の殆どが「ぼく、私、おれ」を中心に描かれるので作品としての幅や奥行きが狭くなるのは覚悟しなければならない。マイケル・サイモンはそういったハードボイルドやノアールの弱点をよくわかっていて、あえて一人称で書かれた場面と三人称で書かれた場面とに意図的に使い分けをし、弱点を克服している。
マイケル・サイモンの特異性は猟奇的な題材を扱いながら、ウイットに富んだ会話を織り込んで、作品に柔らかな暖かい隙間を作っている点だ。それに欠かせない存在が検屍官、マーガレット・ヘイだ。マーガレット・ヘイは女性ながら死体解剖を楽しんでいる。P43を引用する。〈ヘイは胃を切開した。白濁した液体が流れ出た。「精液」彼女は言った。「銘柄は一種類じゃないわね。…」〉と言ったり、食堂内に残っていた遺品の黒い頭蓋骨のお守りをみせながら〈それを預かっていいかと尋ねると、ヘイは片方の眉を吊りあげた。「まず洗ってほしくない?」「ほかに病気がないか、調べてくれないか?」「調べてどうするの?もう死んでいるのよ」〉と答えたり、P45では〈「手慣れた仕事ぶりだよな」おれは言った。「犯人は医学関係者だろうか?」「それか、精肉店関係者」〉と返したり、実にウイットに富んだ会話が飛び出し、作品に安らぎを与えている。思わずマーガレット・ヘイに惚れてしまいそうだ。
バラバラ殺人をテーマに扱った作品なら国内でも桐野夏生の『OUT』が上梓されて話題を呼んだが、その発想自体には現代の犯罪傾向からしても目新しさはなく、けっして斬新ではない。遺体を発送するというアイデアも古典ではしばしば使われる手法で珍しくはない。むしろ、前述した桐野夏生の『OUT』のほうが作品に鬼気迫るものを感じる。マイケル・サイモンは過去に発表された作品を土台にしながら、より完成度の高い作品に仕上げているのだ。映画『セブン』、『氷の微笑』、ジェフリー・ディーヴァーの『ボーン・コレクター』やジェイムズ・エルロイの『ブラック・ダリア』やイアン・ランキンの『黒と青』そして本書『ダーティ・サリー』。傑作は正しく受け継がれてゆく。いずれにしろ、今後、ノアール界に王者として君臨してきたジェイムズ・エルロイを脅かす存在になることはほぼ間違いはない。いやはや、途轍もない新人が現れたものだ。最後にマイケル・サイモンの略歴を記しておく。生まれはぼくと同じ1963年。舞台俳優、タクシーの運転手、DJ、編集者などを経て、本書で作家デビューしている。ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ジム・トンプソンから多大な影響を受けている。おそらくはかなりなロック・フリークに違いなく、主人公、ダン・レリスは作品のなかでザ・フーの曲に合わせてドラムを汗だくで叩き続けている。ほかにもトム・ウェイツやローリング・ストーンズなどの気になる記述も随所にみられるので、イアン・ランキン作品の流れも忠実に辿っているようだ。次回作が待ち遠しい。