音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

マイケル・サイモン著『ダーティ・サリー』

2006年12月30日 | 本と雑誌

ダーティ・サリー

ダーティ・サリー
価格:¥ 900(税込)
発売日:2006-08

お薦め度(★★★★★)

 マイケル・サイモンは恐るべき才能を持つ作家だ。新人作家とは思えない筆力と物語の構成力はもはや新人のものではない。その実力は名だたるベテラン作家に肉薄する力強さがある。ぼくの知る限り新人でこれほどの作品を描ける作家をぼくは知らない。わずかにジェイムズ・エルロイの名を挙げるにとどめるが、作品の完成度、迫力においてはむしろジェイムズ・エルロイよりも勝っているのではないかとすら感じている。

 本書『ダーティ・サリー』はマイケル・サイモンのデビュー作である。物語は停職扱いから復帰した主人公のオースティン警察殺人課部長刑事、ダン・レリスが、市バスに轢かれた青年の死体現場で偶然にも地下水路に遺棄された、頭部と両手脚のない若い女性の死体を発見する場面で幕を開ける。検屍結果から遺体の胃と膣内に複数の男の精液が残留していたことから、被害者が売春婦である可能性が濃厚となる。やがて売春婦の遺体の一部が医者や弁護士、銀行頭取などの十人の富裕層に差出人不明の小包として送りつけられたことで物語は単なる猟奇殺人から知能犯による脅迫事件へと発展する。作品全体から受ける印象はエルロイ作品の流れを汲む正統派ノア ールだがその文体にはエルロイ作品に頻繁に見受けられる禁忌な言葉遊びや不旋律さはなく、エルロイの系譜を引き継ぎながら、なお文学としての素晴らしい力量を鼓舞している。

 サイモンが影響されたハードボイルドやノアールは一人称で書かれることが多い。それは一人称で書く事でより読者に作品の主人公に感情移入しやすくするのが狙いであり、作品に求められるのは激情であったり、苦悩であったり、疎外感や怒りを仮想体験することである。ただし一人称で書かれる作品の殆どが「ぼく、私、おれ」を中心に描かれるので作品としての幅や奥行きが狭くなるのは覚悟しなければならない。マイケル・サイモンはそういったハードボイルドやノアールの弱点をよくわかっていて、あえて一人称で書かれた場面と三人称で書かれた場面とに意図的に使い分けをし、弱点を克服している。

 マイケル・サイモンの特異性は猟奇的な題材を扱いながら、ウイットに富んだ会話を織り込んで、作品に柔らかな暖かい隙間を作っている点だ。それに欠かせない存在が検屍官、マーガレット・ヘイだ。マーガレット・ヘイは女性ながら死体解剖を楽しんでいる。P43を引用する。〈ヘイは胃を切開した。白濁した液体が流れ出た。「精液」彼女は言った。「銘柄は一種類じゃないわね。…」〉と言ったり、食堂内に残っていた遺品の黒い頭蓋骨のお守りをみせながら〈それを預かっていいかと尋ねると、ヘイは片方の眉を吊りあげた。「まず洗ってほしくない?」「ほかに病気がないか、調べてくれないか?」「調べてどうするの?もう死んでいるのよ」〉と答えたり、P45では〈「手慣れた仕事ぶりだよな」おれは言った。「犯人は医学関係者だろうか?」「それか、精肉店関係者」〉と返したり、実にウイットに富んだ会話が飛び出し、作品に安らぎを与えている。思わずマーガレット・ヘイに惚れてしまいそうだ。

 バラバラ殺人をテーマに扱った作品なら国内でも桐野夏生の『OUT』が上梓されて話題を呼んだが、その発想自体には現代の犯罪傾向からしても目新しさはなく、けっして斬新ではない。遺体を発送するというアイデアも古典ではしばしば使われる手法で珍しくはない。むしろ、前述した桐野夏生の『OUT』のほうが作品に鬼気迫るものを感じる。マイケル・サイモンは過去に発表された作品を土台にしながら、より完成度の高い作品に仕上げているのだ。映画『セブン』、『氷の微笑』、ジェフリー・ディーヴァーの『ボーン・コレクター』やジェイムズ・エルロイの『ブラック・ダリア』やイアン・ランキンの『黒と青』そして本書『ダーティ・サリー』。傑作は正しく受け継がれてゆく。いずれにしろ、今後、ノアール界に王者として君臨してきたジェイムズ・エルロイを脅かす存在になることはほぼ間違いはない。いやはや、途轍もない新人が現れたものだ。最後にマイケル・サイモンの略歴を記しておく。生まれはぼくと同じ1963年。舞台俳優、タクシーの運転手、DJ、編集者などを経て、本書で作家デビューしている。ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ジム・トンプソンから多大な影響を受けている。おそらくはかなりなロック・フリークに違いなく、主人公、ダン・レリスは作品のなかでザ・フーの曲に合わせてドラムを汗だくで叩き続けている。ほかにもトム・ウェイツやローリング・ストーンズなどの気になる記述も随所にみられるので、イアン・ランキン作品の流れも忠実に辿っているようだ。次回作が待ち遠しい。


Avian・Totにて

2006年12月24日 | 音楽カフェに行く

  今宵はクリスマス・イヴ。Avian・TotでYと待ち合わせる。店内に入ると、予想した通りクリスマス一色。天井に届きそうなクリスマス・ツリーが無数の電飾で飾られ煌びやかにチカチカ輝いている。漆塗りの柱。レトロな写真が壁に掛かっている。綺麗な照明が淡く店内を照らしている。 スピーカーからはフランク・シナトラ風のジャズっぽいクリスマス・ソングが流れている。給仕がメニューをもって奥から現れたので、思案算段した挙句、ぼくはロイヤルミルクティーを、Yはカフェ・オ・レをオーダーする。Yは席に着くや否や溜息を付く。Yはいつもと違って元気がない。Yから笑顔が消えると、ぼくは不安になる。半ば冗談で「会うたびに面積がちいさくなるなぁ」というと、Yはまじめに取って、「そーだろーっ、もうー、そのうちカーペンターズのカレンみたいになっちゃうよ」「(カーペンターズのカレンか。うまいこというな…Y)無理して、病気にならないように、気を付けなよ」 「だってさー、上司に相談したって頼りないんだもの。信じられる? 業務終了が深夜の12時だよ。それがずっと続くんだよ。もう体ぼろぼろだよ」Yは半べそを掻いている。「もー辞める! あんな会社辞めてやる!」凄い顔。こわい!ぼくの反応がないと、「ねー、てっちゃん、私の話ちゃんと聞いてる?」Yが睨みつける。「聞いてるさ。怖いんだろ(しまった!)」「こわい? なによそれ? 全然聞いてないじゃん!」「ニンゲンって怖いという意味で言ったのさ。ニンゲンってさ、本音と建前があって、言ったことと考えていることは正反対なのさ。だから、きみの上司も心の中ではきみを早く帰したいんだろうけど、仕事優先で考えると、まったく逆のことをしてしまうのさ」 。…それからぼく達は2時間話した。拒食症のYはとうとうケーキも食さず帰って行った。中学以来、Yと再会したのがこのAvian・Totだった。ぼく達は同窓会へも行かなかったので、ここで二人だけの同窓会をして時間の埋め合わせをした。清算をして外へ出ると、辺りはすっかり暮れて真っ暗だった。ぼくはYに「元気出せよ」と手を振り、Yも手を振り返して、なにか不安なしこりを胸に溜めたまま、ぼくは愛車に乗り込んだ。ぼくはステアリングを強く握った。Yの車が駐車場をゆっくりと出て行ったので、ぼくも車を発進させた。Yが運転する車のテール・ランプをみつめながら…。 


田中小実昌を研究する(図書館にてⅡ)

2006年12月21日 | 本と雑誌

天国までぶらり酒

天国までぶらり酒
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2000-06

(★★★★★)

 田中小実昌という人は面白い方だ。

以前何かの対談で奥さんがゴミとまちがえて

大事にしていた生原稿を捨ててしまったという

話をされていたが、

飄々とした風貌からは想像も出来ない高い声で、

話されると意外に饒舌なので

吃驚したのを覚えている。

ぼくが作家、田中小実昌氏に出会った

(もちろん、著者の作品を介してだが)のは

高校のときで、

それまでは翻訳家という印象のほうが強かった。

谷崎賞を受賞した「ポロポロ」がはじめて読んだ

小説で、

それ以降は主にエッセイを発表されていたので、

それを読んだ記憶がある。

先日、図書館に行き田中小実昌氏の著書を二冊

借りてきた

天国までぶらり酒』『ないものの存在』

がそれで、ページを開いた途端、

のっけから田中小実昌氏独特の言い回しが

飛び出してきて、

ついつい氏の世界に引き込まれていった。

田中小実昌という作家には読む者を

吸引する力がある。

それは言葉では的確に言い表せない吸引力だ。

語彙は決して多くない。

にも拘らず、

あれほど複雑な哲学風に書ける作家は稀だ。

田中小実昌氏は

(素人のぼくがいうのもおこがましいが)

接続詞の使いかたが天才的にうまい作家だ。

著書『ないものの存在』の「クラインの壺」からの

引用である。

「…(前略)…たいていの人はパノラ型で、

それは世間がパノラ型だから、

パノラ型でないと生きていけないのだろう。

ただし、ひとはパンのみにて生くるにあらず、

たいていの宗教は、持たないこと、

蓄積しないことを説く。

持たない、持たない、ただ受けるだけ、

ぼくの父は、ただアメンを受けるだけ、

といつも言っていた。

そんなへんなうちに、ぼくは生まれて、そだった。

しかし、これも、ごく常識的だが、

がんばり屋でも、とくべつ勤勉ではなくても、

ふつうの人はパノラ型だけど、

これが、あんまりマジメにパノラ型だと、

ひとを追いこして出世したりもするが、

純なるパノラ型は精神病院にいれられる。

純なるスキゾ型もおんなじだ。

だいたい、純なニンゲンなどはいない。

不純なのがニンゲンなのだ。

それが純だと、ビョーキってことになる。」って

具合に。

ただ氏の場合、

回りくどい表現が随所に現れるので

何度も読み返さないと、一度には咀嚼しがたい。

「たいていの人はパノラ型で、

それは世間がパノラ型だから、

パノラ型でないと生きていけないのだろう。」は

簡単に、

「たいていの人はパノラ型でないと

生きていけないのだろう。」

とすると判りやすくすっきりする。

なんども同じ言葉を連呼、繰り返すことは文章上、

拙いとされているからだ。

このような反芻表現は作家としては致命的だ。

なのに「たいていの人はパノラ型で、

それは世間がパノラ型だから、

パノラ型でないと生きていけないのだろう。」を、

「たいていの人はパノラ型でないと

生きていけないのだろう。」

とするとあまりにも明確すぎて、

かえって本題がぼやけてしまう。

ついにぼくは、

田中小実昌の魅力の一端を見た気がしている。

こんなふうにBlogを書いてみたい!

とぼくはおもう。

しかしそれが容易には叶う事のない

虚無な現実を感じている。


但馬路をゆく 但馬牧場公園

2006年12月19日 | インポート

 ぼくの手もとには一冊の本がある。『城崎郡・豊岡市・出石郡 畜産の歩み』という本で、城崎出石畜産農業協同組合連合会が発行した記念誌である。この本のなかで格別興味を惹かれるのは当時城崎郡畜産組合の獣医師をしていた伊賀平内左衛門氏が外国種の血の導入を強行に拒み続け、但馬牛純血種の近親交配を推し進めた結果、現在の但馬牛ブランド「蔓牛」の基礎を築いた構図が詳細に語られており、その功績には頭が下がる思いだ。ブラウン種などの血統の濃い改良和種との体質の違いは顕著で、伊賀氏が寄稿した純血但馬牛の体質の解説文を引用する…『(前略)…中躯短く、胸深く、肩薄く、背線直なること。腰角は適当に座幅は広からずむしろ狭いほうがよい。首は長く、太からず、鼻梁短く、口唇厚く、鼻翼大。耳小さく、眼大きく、温和、眼瞼皮膚のきわめて薄いこと。角は細かく丸く、尖端帯黒色、根元にいたるにしたがい青色もなくなり、次いで飴色透明性となり、脂気を有す(角質は特に土質など、飼育環境に支配されることを見る指標となる)。尾根部は太く急に細くなり、尾は直で短いこと。陰部よく緊縮し、臍よく締まり、側面より能わず。皮膚薄く、被毛は鬼毛あるも細毛密生、指圧に対し抵抗性のあること。毛色は帯褐黒色。このような牛であれば飼料の利用性に富み、肉量、肉質に優れていること間違いありません。但馬牛は後躯が貧弱なことがいつも指摘されています。…(中略〉…なだらかな丘陵や平野に恵まれず、急傾斜の山地に放牧されてきた彼女等は、急坂を上ったり下ったりしなければなりません。そのためには、乳牛のように前躯に比し、後躯の発達が勝っていたならば上りにくく、下りには転倒し、牛も環境の動物であり、後躯の見劣りも自然環境のしからしめたところと考えております。』 ここで伊賀氏は和牛の皮膚の薄さに言及し、それが肉の歩留まりをよくしていることを強調している。改良種は外型は優美なんだけど質の点において劣っているというわけだ。伊賀氏の寄稿のなかで「よし蔓牛」についての興味深い記述があるので引用する… 『確か大正8,9年前の頃のことであったと思います。服部県知事臨席のもとに、養父郡で但馬5群の連合犢牛品評会が開催されましたが、竹野村須井の家畜商増田庄三郎氏出品の牝犢が第一席の栄冠を勝ち得ました。その頃但馬牛の品評会で一等賞を獲得するものは美方郡産と相場が決まっており、城崎郡に思わぬ栄冠を持ち去られた美方郡の畜主達は憤慨のあまり、牛諸共総退場するという珍しい騒動が起きたぐらいであります。この犢牛の親牛なるものは増田氏がブラウン種に染まりつつある美方郡から、まだその影響を受けていないものを見出して求めてきたものでありますが、だいたいこの頃はブラウン種に対する反省の期でもありましたため、このような結果も生じたものでありましょう。私はこの犢牛を口佐津村相谷の田中芳重郎に飼いせしめ「よし号」と名付けられたものであります。やがて牡犢が産まれ、県より種牡牛として奥竹野村に配置を命ぜられましたが、老父と図った結果佐津地区に置き、近親繁殖を断行しました。…(中略)…よし号の産犢成績はすこぶるよろしく、今日のよし蔓の基をつくり上げたものであります。』但馬牛のルーツは古くは400年に遡るが、新しくは明治36年城崎郡、明治39年出石郡にそれぞれ産牛組合が結成された。戦中戦後を経て昭和42年、城崎畜連、出石畜連が合併し「城崎出石畜産農業共同組合連合会」が確立した。城崎畜連、出石畜連が合併するまでの間、城崎郡に昭和19年「よし蔓造成組合」が結成され、昭和21年には出石郡で「高橋村いなきば蔓牛組合」が結成された。この組織の統合は但馬牛の振興を目指して立ち上げた一大事業だったが、平成7年10月1日、但馬農業共同組合に業務を吸収された。 これがおおまかな経緯である。但馬牛の産地移行については大字能夫氏寄稿を引用する。『昭和24年12月12日香住の市場のことであるが、但馬畜産試験場の当時場長であった神原先生が退職後四国の香川県に産地移行を計画され、出石郡いなきば蔓牛改良計画のため畜連獣医師新井先生私方西田清一氏の3人で口佐津村安木の安田やすし氏のやす号を競り上げ…(中略)…落札したことがある。豊岡のコウノトリのポスターに映っているのが因縁の牛である。』

 最後になったけど、この記念誌にはぼくの父親の名が載っている。城崎出石畜連職員名簿に技師(受精士)として昭和37年5月1日から昭和39年9月15日までの約二年余りを在職していた記録が残っている。ぼくは昭和38年5月31日に生まれた。畜連の寄宿舎で。

 


但馬路をゆく 湯村温泉

2006年12月13日 | インポート

   湯村温泉へは若い頃、幾度となく訪れているけど、その景観に格別の変化はない。それは誰もこの鄙びた里に変化を求めないからだ。今日は氷雨が降っている。以前訪れた時も季節は冬で、やはり今日のような氷雨が降っていた。ぼくはそんな風に昔に思いを馳せながら紅葉の進む通りを歩いていく。 Yは風邪が悪化すると言い張るので駐車場に残したまま、ぼく一人で通りを歩き始めたのだ。ぼくのBlogは大別すると、三つの伏線に分類される。未来、現在そして過去。四十数年生きてきたので過去が大半を占めている。輝かし過去もあれば思い出したくもない過去もある。現在は人間関係がパラレルだ。ぼくには愛する女が居て、愛する家族が居る。でも、肝心な家庭がない。人間関係はきわめて希薄だ。それを世間一般では「異質」と呼ばれもなんら不思議はない。そんなふうに考えを巡らしていると目の前に石段が現れる。 雨で濡れた路面が光っている。ぼくは想念を引き戻す。…未来はぼく自身にもわからない。それはこのBlogがいつまで続くか誰もわからないように。けれど、過去や今生きている現在があるから、未来があり、そこへ繋がっていく気がする。…商売熱心な年配の女が店から通りに現れ、売り物を買わないか勧める。ぼくは丁重に断り、歩を進める。 ぼくはBlogで本について語っている。音楽についても語っている。そのいずれでもない事についても語っている。しかしそのすべてがどこかでリンクし、大小さまざまな歯車となり連動してゆく。それがぼくのBlogの最大の特徴だし、「謎」の部分だと思う。いわばぼくのBlogはそれ自体立派なミステリー性を孕んでいる。 ヒントは今までのBlogのなかで提示してきたつもりだし、このBlogの意図する事柄が何なのかを暗示している。ぼくは普段は寡黙だが、ことBlogになると話は別で、至って饒舌となる。吉永小百合主演の『夢千代日記』が上映されたのはいつの事だったろう。随分前の事で忘れてしまった。豊岡の映画館で観たのは覚えているのだけど、大雑把な年月さえ思い出せないでいる。話の筋も朧げで当時観た覚えのある『天国の駅』や『おはん』とストーリーを混同してしまう有様だ。 …余談だけどぼくがはじめて覚えた女優の名前が「吉永小百合」だと母親から聞き、幼い頃、TVで「吉永小百合」が映ると「さゆり! さゆり!」と嬉しそうに騒いでいたらしい。 今回のBlogは過去に向かって思い出を辿る旅だ。ここにYがいないことはもしかしたら大きな意味があったかもしれない。 ぼくはそんな思いを胸に湯村温泉を後にする。石段の上からは大勢の観光客が降りてくる。冬場にシーズンを迎えるこの温泉地はいつにもまして華やいで見えた。紅葉に彩られた通りを抜け、Yが待つ駐車場に歩を速めた。