しょく日記。

三河地方をこよなく愛するしょくが、ささいな出来事から温泉レポ、旅日記、親バカ奮闘記などをつづった日記です。

グレート家康公「葵」武将隊 その8  徳川 家康

2011年05月05日 | 歴史

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こんばんわ。しょくです。

やっと紹介できますね。

葵武将隊の大将、神君徳川 家康。

ご存じ、日本全国を統一し、江戸幕府を開府した方です。

すみませんんね。家康様は若くありません。

イケメンを期待していた方も多いかと思われますが・・・。

 

ここから演舞の始まりです。

徳川家康と徳川四天王、決まってますね。 

 

ここから演舞が始まりまりますが、その様子は次回。 

 

 

では。

 

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グレート家康公「葵」武将隊 その7  徳川四天王

2011年05月05日 | 歴史

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こんばんわ。しょくです。

今回は徳川四天王4人まとめて紹介します。

徳川四天王(とくがわしてんのう)とは、徳川家康の側近に仕えて

江戸幕府の創業に功績を立てた4人の武将を顕彰して呼んだものである 。

仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。

 

四天王筆頭は酒井忠次といわれている。ほかに本多忠勝、榊原康政、井伊直政がいる。

ではこの方から紹介します。

 

 

 井伊 直政(いい なおまさ)

自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。

赤備えあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事であり、

武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊の意味合いがあった。

最初は武田家家臣、飯富虎昌山県昌景の軍であったが、武田家滅亡後、旧武田家臣を

引き継いだ井伊直政が復活させた形である。

かっこよかったですね。誰かに似てるんだけど、思い出せない。

 

 

原 康政(さかきばら やすまさ)

三河上野郷(現 愛知県豊田市)に生まれる。

姉川、三方ヶ原、長篠など数々の戦いで戦功を立てた。

特に姉川では朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。

「葵」武将隊の中で一番背が高い感じがした。

かっこよさは一番じゃないかな。

ちょっときざっぽい役を作っている感があった。

 

 

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)

父、本多忠高、母、小夜(植村氏義の娘)

 

本多忠勝のお父さんとお爺さんは、わが安城市にかかわりがあり安祥合戦

2人共うちの近くにお墓があるのもあり、

以前、しょく日記で紹介しております。

本多忠勝のおとうさんをご存知ですか?

本多忠勝のおじいさん、本多忠豊

 

安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として

三河国額田郡蔵前(現 愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれる。

戦国最強武将の名が高く、生涯において参加した合戦は五十七回に及んだが、

いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。

 

愛槍は「蜻蛉切」。笹穂型の大身槍。

穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付き、

「天下三名槍」の一つ。

こちらも背が高く、かっこよかったですよ。

 

 

 

酒井 忠次(さかい ただつぐ)

徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣、酒井忠親の次男として

三河額田郡井田城(現 愛知県岡崎市井田町)に生まれる。

服後、徳川家康の父、松平広忠に仕えた。

 

松平信康自刃事件で織田信長からの詰問を受けたとき、酒井忠次は信康を十分に弁護できず、

信康の切腹を防げなかったと言われ、これが家康の遺恨として残ったようだ。

 

こんな逸話がある。

嫡男家次が与えられた臼井3万石は当時、徳川四天王のほかの3人が

10万石規模であったことに比して小禄であった。

これに酒井忠次が抗議した際、「お前も我が子が可愛いか」と

信康事件の不手際を責められたという。

なんかこの兜見ると、源平合戦の時の物の様に感じちゃう。

では。

 

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