■世界と自己、その表層と内部を、変化しつづける現在として、包括的に記述することは、きわめて困難なことです。
現実に対する自己意識の位相を、叙述するという行為において、いわば世界内存在として実現するということは、ひどく抽象的な問題をふくんでいます。
トーマス・ヘッチェが「文学のあらゆる手段を駆使して世界を理解したい」というとき、言葉と表現における現実可能性の質が問題となり、そこではしばしば、現実を問うかたちで記憶との対話がなされ、政治に対するアンガージュマンの精神を問題にするような限定的なレベルでではなく、文化的に蕩尽されたすえにもなお用具か備品のように濫用される言葉と、それに呼応するかのように絶えざる堕落を歌い上げる現実に対して、注意を喚起しつづけることが必要となるように思われます。
(ヘッチェの小説を知るずっと前から、私は殺害された主人公が〈眼〉あるいは〈聴覚〉それとも生命現象を肉体に規定することで退屈な現実に拘束されていた状況から解放されたところの〈霊魂〉となって、現実世界とするどく拮抗する情念からの脱出をはかる小説を構想していました。いまだ未完のこの長編《鎮魂と記憶の走路》は、霊魂が生者をして繰る体外離脱とサイコダイヴがめまぐるしく展開する「オカルト・アクション」ですが、叙述する位相の獲得をめぐって、ヘッチェの文体はとても参考になります。)
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_1
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_2
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_3
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_4
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_5
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_6
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_7
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_8
現実に対する自己意識の位相を、叙述するという行為において、いわば世界内存在として実現するということは、ひどく抽象的な問題をふくんでいます。
トーマス・ヘッチェが「文学のあらゆる手段を駆使して世界を理解したい」というとき、言葉と表現における現実可能性の質が問題となり、そこではしばしば、現実を問うかたちで記憶との対話がなされ、政治に対するアンガージュマンの精神を問題にするような限定的なレベルでではなく、文化的に蕩尽されたすえにもなお用具か備品のように濫用される言葉と、それに呼応するかのように絶えざる堕落を歌い上げる現実に対して、注意を喚起しつづけることが必要となるように思われます。
(ヘッチェの小説を知るずっと前から、私は殺害された主人公が〈眼〉あるいは〈聴覚〉それとも生命現象を肉体に規定することで退屈な現実に拘束されていた状況から解放されたところの〈霊魂〉となって、現実世界とするどく拮抗する情念からの脱出をはかる小説を構想していました。いまだ未完のこの長編《鎮魂と記憶の走路》は、霊魂が生者をして繰る体外離脱とサイコダイヴがめまぐるしく展開する「オカルト・アクション」ですが、叙述する位相の獲得をめぐって、ヘッチェの文体はとても参考になります。)
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_1
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_2
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_3
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_4
〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_5
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〈トーマス・ヘッチェ 『夜(NOX)』〉_8