人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

意識の潜行

2009-07-24 09:09:56 | 随想
 私が現実の構造に不満があるのは、意識や行為がもたらす結果の遅さと、概ねその結果のなかに潜む凡庸さのゆえである。世界についての直観というものが、純粋な経験のうえに決して反映されないとするなら、経験が対象とする所与の性質について、何か構造的な作為性を感知するのは、それほどふしぎなことではない。このとき直観は、それがもたらす結果に対して、経験の純粋性を奪取しようとする。すると直観は、時間と空間についての認識の飢餓となる。これはカント的な時空認識といえるだろうか。
 いずれにしても、人生を直観のポテンシャルと考えている私には、対象世界の所与の性質が煩わしくて仕方がない。生とは何か、人間とは何か、死とは何か、……こういった問題はすべて、そこから発してそこで終焉する。その様態についての認識に、私は自信をもっている。むろん、これらの問題に解答を与えることは不可能で、そうでなければ、これらはその問題としての普遍性を獲得できなかった。――太宰の「トカトントン」が激しい耳鳴りのように鳴り響く。
 人生や死の謎に拮抗しうるほどの深淵を秘めながら、純粋に現象世界に帰属するような何かを捜し求めていても、これらの設問についての模索は、その認識のはげしい飢餓感のゆえ、皮肉なことに、トポロジカルに人生そのものへの絶望へとつながっていく。もしも人生の旅を「自分探しの旅」にたとえるとするなら――この設定の陳腐さにいまは我慢するとして――因果律的に私ともうひとりの私のあいだには、決して出会うことすらないディスコミニュケーションの運命が貫かれている。
 名づけ得ぬ解を内包した現実に潜行しながら、私の意識は痙攣し、また同時に躍動する。――このとき私は、ほとんど自らが仮定した設問の解を数百のプラトーとして生きてもいるが、さらにそのうえで重要なのは、それがその解を実感することを目的としてはいないということである。明示することが不可能な所与の経験を前提として、それがもたらす時間と空間の形式に引き裂かれつつ、この世界に決して実体を結ぶことのない、さまざまな逸脱が、そこから展開される。――こうして私は生きる、バートルビーのささやかな仲間として。
 

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