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心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

「自然の哲学」(下)の最終講

2010年05月05日 | 哲学
 3月17日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、6名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「おわりに」「あとがき」と「自然の哲学」(上)「まえがき」「はじめに」です。



雑感
 先月、私の関心のあることとして「デフレ」であることを申しましたが、いまひとつは「自分さえよければ」という思想というか、考え方です。

 日本は、第二次世界大戦後、「自由」思想や「個人主義」「民主主義」の考え方が、アメリカから半ば強制的にもたらされました。
 憲法第19条にも、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」とあります。日本国憲法の第三章は、国民の権利及び義務について書かれています。
 憲法は、国民の自由や権利、個人として尊重されることを保障していますが、第十二条や第十三条にみられますように、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負い、権利についても公共の福祉に反しない限り、尊重されるという条件がついています。自由というのは、憲法上もまったくの無制限ではないのです。


 経済の世界では、1776年、アダム・スミスの著した「富国論」で、私利私欲が公共の善をもたらす、需要と供給については、神の見えざる手がはたらいて、それをうまく調整してくれるという考えのもとに、経済は、科学技術の発達とともに大きく発展し、世界の富も拡大しました。
 ケインズは、この考え方に反対し、「自由放任の終焉」という著書のなかで、政府の役割を強調しました。
 その後1979年、ミルトン・フリードマンが、「選択の自由」で反ケインズとして登場しました。
 そこで世の中を豊かにするためには徹底的に規制を緩和、解除すべきだという考え方が世界の先進国に広がりました。これが、自由主義から新自由主義に至る過程なのですが、ここには、公共の福祉に反しない限りという制約はつきません。みんながすき放題にすることが、経済が発展し世の中がよくなるのだという考え方です。

 たしかにカンフル剤的には、効果があったかもしれませんが、競争、競争で他社よりもより早く商品を開発し、より大きな売上を上げ、そしてその活動で得た利益で他社を買収し、さらに大きく、強くなることを永久に追求するようになりました。







 企業の本来の目的は、いったいなんなのでしょうか?少なくとも日本のように成熟化した社会での企業のあり方は、自主的な社会貢献以外にないと思います。
 ただ、やみくもに、シェアーの拡大を図ったり、規模を大きくすることではけっしてないのです。

 当然働いている人も、未成熟社会(発展途上国)の人たちのようにお金を稼ぐためにだけ働くのではなく、企業の一員として自分の能力を最大限に発揮し、技術や専門知識、コミュニケーションによって、周りの人を豊かにしていくということです。まさに、社会貢献です。
 いまは、その貢献度合いによって企業の業績が左右され、そこで働く人たちの報酬や生活レベルが決まる時代です。

 そのなかで、間違って解釈してはならないのは、自分もよくならないといけないのですが、周りの人もよくならないと自分もよくならないことを認識しなければいけないということです。特に、成熟化した社会では、社会全体の幸せを考えることが、必須の条件だと思います。

 組織はある目的をもって活動しています。会社という組織の中にいる人は、その目的に向って仕事をしています。その中では、自分が好きなようにしてよい場面はほとんどないといっていいでしょう。
 特に、社会をよくするという重要な任務を背負った会社組織においては、まず、会社の方向に向かって一丸となり、その力を結集してお客様に尽くし、社会に奉仕する結果、利益が生み出されます。
 現代日本のように、国内のマーケットの規模が縮小していて、古い業種にいる場合は特にそういえるでしょう。

 「自分さえよければ」という考えを捨てて、働く人も一生懸命、企業も一生懸命仕事をして、公共(みんな)の福祉(幸せや利益)を増進させようではありませんか。

 必ず、自分に返ってきます。

 公共(全体)の幸せが、自分(個)の幸せ。自分(個)の幸せが公共(全体)の幸せ。
 これが世の中の原理だと思います。






本日の学び
 哲学の目的は、やはり世界を正しく認識することです。なぜ、正しく認識しなければならないか?
 それは、人間はその認識にもとづいて行動し、世界を変えていく力があるからです。たとえば、物質が客観的に存在するとか、量的変化の結果、質的変化が生ずることなどです。

 今、私たちが学んでいる唯物論とは違う考え方の一つの型として形而上学があります。
 この考え方では、世界が互いに関連をもちながら生成消滅し発展することをみないで、世界の一面を固定して絶対化してしまいます。
 あるいは物質の運動の原動力が物質の内部にあることをみないで他のなにか絶対的なものによってあらかじめ規定されていると考えます。このような世界観としてまとめあげたものが形而上学です。

 このように世界の認識の仕方にもいろいろあるということです。



 この本のなかでは、世間の定説になっていない著者の自前の考えが披露されています。たとえば、生物の開放系と閉鎖系の矛盾、形態と生理、塁層的構造の二次系列、量子状態の偶然性などです。

 その例としまして、否定の否定の法則はいろいろと見解の多岐な部分があって、その意味でこの本の否定の否定の法則も一つの見解というべきものであります。
 そこでは、二度の否定の間の質的存在が古い質的存在にとって不可能である運動を可能にすること、いいかえればこの意味で否定の否定の過程は、一つの質的存在が、その質のままでは不可能な発展を可能にするという積極的な役割を持っていることを強調しています。

 世界は、常に進化・発展、繁栄していて、それが、いままでの自身の質を否定することによって実現しているということです。


 機械的決定論(宿命論)をのりこえることは、唯物論的弁証法を理解していくうえできわめて重要なことですが、このためには偶然性が客観的に存在することを認識することがキーポイントのように思われると著者は言っています。
 そのために量子的法則をもちだしてきたが、このような方法がよいかどうかは今後の問題であるとも言っています。


 最初は、私も偶然性を客観的に認めますとなんでも説明がつくように思いました。ものごとに連続性がなくてもそこに偶然が介在すると、あたかも連続を証明できてしまいます。
 偶然性は、事実を説明するとき、その因果関係の論理性を補完するオール・マイティのトランプでいうジョーカーのようだと思いました。

 しかし、量子力学における実験において素粒子が、二つのスリットのどちらを通り抜けるかがまったく論理的に説明できないとなりますと、確かにこの世の中は、偶然性も存在することを認めざるを得ません。
 この世界には、ある条件を与えれば、必ずこうなるということばかりではないということがわかります。

 物理の世界においてでさえ、こうですから、人や社会の世界では、こうすれば、必ずこうなるということは、さらにいうことができません。

 哲学というものは、やはりおもしろいですね。また、新たな生き方の発見ができたようです。




 そしてまた、「自然の哲学」(上) にもどってまいりました。
 この種の本は、何度読んでもそのたびに新しい発見や、以前学んだことが深まったり、
何のことかわからなかった言葉や概念が、他の概念と結びつき、こういうことだったのかとわかっていきますので、飽きがきません。

 上巻は、唯物論について書かれています。ここで著書から抜粋します。
 「自然観を論理的に整理した自然の哲学とは弁証法的唯物論である。このような意味で、この哲学は自然の現象に確固とした足場を持っている。
 さらに、この哲学のもとに、人間と社会に対する認識をきずきあげ、進んだ社会を作り上げていくためには、人間に対する深い認識が必要である。
 旧版の最後では、人間に特有な質が精神の自由であることを強調しておいた。人間と社会に関する理論は、人間に特有な質的特徴の認識の上に展開していかなければならない。」
とあります。

 人間と社会の問題は、そもそも「人間とはなんぞや」のところから出発しなければならないと書いてあります。
 とても興味深いですね。その成り立ちや起源がわかると、この成熟し、混沌とした世界で少しでも「どうあるべきか」がわかってくるから不思議です。

 それは、宇宙のように際限なく広くて深く、そして思い巡らせることが楽しくなります。






 再び、著書に戻りまして、次のように著者は言っています。

 「自然と社会にたいする一般的な、基本的な認識は、たんに友人とまともにしゃべるためにだけ必要なのではない。もし私たちがいまの社会よりいちだんとすぐれた社会をつくりあげようと思えば、自然や社会の一般的見方、基本的な認識、すなわち世界観を確かなものにしていく必要がある。
 これはきわめて大切なことである。なぜならば、日常の会話をひとことかわすときにも、私たちはたえず世界観にふみこむことを思いだしてみれば、よりよい社会をつくりあげていくために必要な方向を論ずる場合には、いっそう世界観にふれることが多いと考えられるからである。

 私たちの精神と外界をふくんだ世界全体にたいする見方を世界観という。世界観とは、自然、社会および人間の精神活動など全体にたいする見解である。
 世界観には二つある。一つは観念論で、もう一つは唯物論である。」

 ここでは、いまの社会よりも一段とすぐれた社会をつくりあげるためには、自然や社会および人間の精神に関する活動など全体に対する見解である世界観を確かなものにしていく必要があり、まさにここに哲学する意義を見い出すことができるということを強く認識しました。

 そして世界観には、考えや思いが第一義的なものであるとする観念論と物質の存在を第一義的なものとする唯物論があるとしています。







 私にとって、観念論か唯物論かということよりも、「よい社会づくりをする」というのが、企業の社会的存在意義すなわち役割であり理念(企業の存在目的)だと考えています。

 企業活動をするということは、単にお金を稼ぐという経済活動をするのではなく、社会全体をよくするために、よりよい商品を考えたり、よりよいサービスをお客様に提供することによって実現しようと考えています。

 「よい社会とはどんな社会?」という問いも当然出てきます。
私の考えるところのよい社会とは、平等とか自由とかお金に恵まれているということよりも、ある一定の普遍性のある価値観のもとに、社会の成員、一人ひとりが、毎日を喜びを込めて生きいきとすごしている状態をいいます。
 言いかえますと、このような社会という具体的な目的ではなく、こころの状態です。
 
 ここからすべての発想をしていきます。そうしますと、前回の雑感でのべました「デフレ」や今回の雑感の「自分さえよければ」というのはよい社会づくりに貢献しているとは思われません。

 私の家づくりの原点もここにあります。よい社会づくりを目指して商品と、人々のよい関係性(やさしい、あらそわない)づくりを目指しています。







人間と自然

2010年03月15日 | 哲学
2月17日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第二十二話 人間と自然」です。


雑感
 今、私の関心のあることが二つあります。その一つが、日本の国がデフレであるということです。
デフレとは、モノの価格が下がって、貨幣価値が上がるということですが、単に、モノが安くなったといって喜んでいる場合ではありません。

これがグローバル化した社会で現実に起こっています。
私たち個人は、生活者という面と販売者・生産者・労働者という両面をもっています。他社でつくったり販売されているモノが安くなるということは、自分の勤めている商品の価格やサービスの価格も同時に安くなるということです。

自社(他社も同じ)のモノの価格が安くなると売上高は減ります。原価も減るかもしれませんが、経費も減らさないと企業は利益が出ません。
利益が出ないと企業は、その活動を続けられなくなります。経費のなかで大きな割合を占めるのが人件費です。

そうです。
人件費も減ります。

ということは、個人に置き換えてみると収入が減るわけですね。
昨今のように、需要が減退してきて供給側の企業数が、過剰な場合は、企業間で値引き合戦のような熾烈な争いが起こります。
いや、実際に起こって我々が現実に体験しています。それと消費者の商品やサービスに対する要求はますます高度になってきています。
つまり、仕事は日に日に煩雑になり、一生懸命仕事をしても収入が下がっていくということが、螺旋階段を降るように起こっていきます。

収入が減っても他の物資が安くなるから生活にはそんなに影響しないのでは、という意見もありますが、教育費のようにまったく下がらないものもあります。

そうです。一番打撃を受けるのは、子育て世代には、本当に厳しくなってきます。今の日本の場合、学校以外に塾や専門学校にかよって良い成績や資格を取らないと生涯賃金が大きく変わってきます。
そのために、必死で子供に教育させようとしますが、お金がないと子供に満足な教育を受けさせることができません。
ということは、デフレによって収入が下がる過程においては、子供に十分な教育を受けさせることができなくて、その結果、その子供も多くの収入を得ることを望むのは難しくなっていきます。そうしますと、2極化が生じ、一部のお金持ちと大半のそうでないものとに固定化されてしまいます。
大半の人が、夢と希望が実現できにくい社会になってしまいます。




人は、誰もが幸せに生きる権利があります。
明るい希望に満ちた元気な社会にするためにデフレと戦っていこうと思います。



本日の学び
 人間と自然の関係はどうなっているのでしょうか?著者から学んでいきましょう。




「人間が自然の史的発展の頂点に位置し、自然の以後の変化発展が人間の創造活動として展開される、あるいはまた人間は自由な意志を有し人間と自然との未来を自らの自由な手にゆだねている。」

「弁証法的唯物論は、世界の現実の過程が必然性と偶然性の統一として進行する」

「量子的状態、その特徴は同一の量子的状態から、いくつもの状態が、それぞれの確率によってひきおこされることににあった。
思考をささえるミクロの過程に量子的状態の物理的変化が顔を出しているのではないだろうかということである。
もしそうだとすれば、目的意識が存在するとき、これが物理的条件としてはたらいていて、思考をささえる量子的状態の変化の確率分布に影響するのではないだろうか。この影響は確率分布にあらわれた偶然性を介するものであって、以前の何らかの状態から運命決定論的に定まっているものではない。

人間という高次の存在は、これにふさわしい質を有している。
その質こそ目的意識の実在にふさわしい精神の自由であり、自由な意志の形成とこれをささえる社会の形成という実践である。
これこそ、世界の自然史的発展の頂点に現れた世界の最高の質的存在としての人間に特有な運動である。」



 「生物に関しては生物という質における運動として生命現象があり、社会に関しては社会という質に特有な現象として社会現象が展開されている。
同じようにして、もっとも高度に発達した物質としての脳髄には、これに特有な運動として意識現象が展開される。






 意識現象の相対的独立性とはとりもなおさず、認識し、方針をたて、決意する際の自由である。意志の自由であり精神の自由である。

 このような意味において私たちの哲学は、意志と精神がその固有の性質として自由をもつことを主張する。この自由は、生物のもつ外界にたいする能動性の「人」の段階における具体的なあらわれである。」




 「高次の質は低次の質の運動にたいして外的な条件として作用すること指摘しておいた。
異なる質相互間の関連の仕方は、意識・精神と客観的実在の運動との関係においても同様である。
意識・精神は外なる客観的実在の運動にたいする外的条件をあたえる。意識・精神は現実よりも先行することができる。
そのため客観的実在にたいしていちじるしい影響をあたえる外的条件を設定することができる。ときには十分時間をかけたとき、意識・精神の予期した状態に客観的実在の状態を近づけることも可能である。

 しかしながらこのような場合にも、事物がその固有の法則によって運動することを忘れてはならない。事物はいかなる場合でもその固有の法則にそって変化発展する。」



 「意識・精神の外界にたいする作用の仕方は、事物の運動にたいする外的条件を適切にもうけ、固有の法則にそって運動する事物の現実の運動状態に影響をおよぼすことである。
したがって意識・精神の自由とは、事物の変化発展が自然の史的発展過程の変化発展の方向に運動していくよう適切な外的条件を設定することにある。

いいかえれば、自由とは、現実の客観的過程に見出される進歩的な多くの傾向や可能性を意識的に能動的に発展させていくところにあるのである。人間とはこのような自由にもとづいて世界を創造的に発展させていくところに位置している。」



自然科学と社会科学の違い

「現在の自然科学では、『人』とは関係なく、『人』の誕生以前においてすでに形成されていた自然の質の系列を研究しているとかんがえてよいであろう。

 一方社会についていえば、これは人が構成しているものであり、その発展は、私たちがどのように社会をつくっていくかということによっている。」





社会の発展について

 「社会の発展がひとりでに自然とおこなわれるのではなく、『人』が意識的にこれをおこなうものであって、このような『人』の実践自身を研究の対象とする場合の『科学的』とは、どのような意味であるかということについてである。

 人類はその誕生いらい、いろいろな体制の社会を経過してきた。それは社会の質的な移行である。
ところがこれら社会の質的な移行は多くの場合平穏なうちにおこなわれたのではなかった。
それはきわめて激しい、ときには流血をみておこなわれたものであった。
このことは社会の質的移行に際して、この移行を求めてやまない側と社会体制の維持を望むものとの間に激しいたたかいがおこなわれたことをしめしている。
社会の被支配者側と支配者との闘争としておこなわれたことを意味している。

 社会の質的移行は、今日ではもはや自然におこなわれるのではなく、意識的におこなわれる。いうまでもないが、この意識的におこなうことによって実現する社会の質的移行、すなわち社会の変革もまた社会発展の法則にもとづいておこなわれる。
意識的な社会の変革の遂行には社会の合法則性がつらぬかれている。
いいかえれば、社会の法則性は、いかなる社会をどのような方法で実現していくことができるかということのなかにあらわれてくるのである。

したがって、社会の変革を阻止するところに社会の発展はなく、社会発展の法則性の展開はない。それは社会に対する非科学的な態度である。社会を変革する立場が科学的な立場であり、これを実践するところに科学的な立場がある。」





社会を構成する核としての人間の役割は

 「弁証法的唯物論にたって社会について考察する場合には、社会を構成する核としての人間について、とくに人間の本質である精神の自由について深く理解しなければならない。

 社会の変革は、歴史が示すように、単に社会のシステムを変更するだけでは達成することができない。その社会をになう一人ひとりの主体的条件が、社会をになうたるものになっていかなければならない。
 
資本主義体制は自然成長的に形成されていった。社会体制の形成が自然成長的であれば、ジグザグで不十分な部分を多分に残しながらも、この社会をになう主体的条件が曲りなりにつくられていく。

 しかし目的意識的に社会体制を形成していくときには、この社会をになうたる一人ひとりの主体的条件の形成を、自然成長性にまかせてしまうことはできない。そこに、新しい社会をささえる民主制の基本があるといえよう。」









まとめ
 「自然は、みずからのうちに意識を有する高度の存在としての人間を生むことによって、その発展に新しい決定的な条件を準備した。
その自然の発展とは人間による意識的な発展のことである。そしていまや人間はみずからの位置を理解し、その立場を自覚した。言い換えれば世界変革の哲学を理解するにいたった。

 自然を意識的に形成して全自然史的発展のなかで人間が決定的役割を演じていくこと、これが以後無限につづいていく世界の発展過程である。

そして、この基本的な課題の前に当面横たわっている課題として、社会の変革がある。それは、全人民の精神的ならびに肉体的な全面的発展を保障する社会的条件の実現である。
 
私たちは、自由な意志を有している。自由な精神を有している。
この自由は、意識に固有なものであった。この自由は生物の能動性の人間の段階における端的なあらわれである。
そしてこの自由の前には、社会の変革と自然の意識的な発展にたいする実践が私たちにたいする課題として横たわっているのである。」



ここまでが引用文です。

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今回もたくさんの大事なことを学びました。


 自由とは、外界を認識し、方針をたて、決意する際の自由である。意志の自由であり精神の自由である。

意識・精神の自由は、現実の会社や社会にたいして、進歩的な多くの傾向を意識的に能動的に発展させていくところにある。
 人間の自然に対する存在意義は、このような自由にもとづいて世界を創造的に発展させていくところにある。
 人類誰もが望む理念にもとづく自由であれば、社会の客観的実在の運動法則と合致して社会も正しく発展し、自由も生きてくる。

 理念にもとづかない、私利私欲による自分勝手な自由は、意識現象としては存在するが、自然の変化・発展にはなんの益をもたらさないばかりか、自然や社会、ひいては自分までも劣化させてしまう。

 したがって、変化発展すべく方向に発展するのみ。逆戻りはない。
 社会や人生は、人間の意志や精神の働きかけによって、よくもなり、わるくもなるのが、弁証法的唯物論の解釈である。

 だから、唯我独尊で他人の言うこと聞かない人や、深く本質を見極めるところまで考えることにたいして手を抜いている人は、その人の意識現象は、実現されない。
 会社を社会の法則性にしたがって改革していくことが科学的な立場である。会社や社会の変革を阻止するところに社会の発展はなく、社会発展の法則性の展開はない。
 社会を意識で変革していく場合には、その社会をになう一人ひとりの主体的条件の形成を自然に任せておくことはできない。そこには、秩序と一人ひとりの社会性の向上が、必要となってくる。

 自然が自然を人工的に変革させる人間を生んだ。→自然の将来は人間の手の中にある。

但し、対極として高度な生命体である人間同士の争いがある。それは、自由の意味と使い方を知らないからだろうか。
自由は何のためにあるのか?社会の変革のためと自然の意識的な発展のために存在する。





自然と人間

2010年02月07日 | 哲学
 1月13日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、9名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第二十一話 自然と人間」です。


雑感
 「変化」と「あるがまま」について
 人間はどうして変化しなければならないのでしょうか?

まず、人間は意識をもっていますから変化することも、させることもできます。そのような特質をもっていますので、
①人は今より少しでも良くなろうと努力する、
②じっとしていられない、
③好奇心旺盛で新しいことにどんどんチャレンジしていく、
④新たな刺激を求めないと人間は幸福を感じ取れなくなるなど。


 一方、人間はどうしてあるがままでなければならないのでしょうか?人間は、どんどん良くなろうと努力するのですが行き過ぎたり、情報があまりにも多く心や体がついていかなくなったり、時には他人を傷つけてしまうこともあります。ですから、
①大欲をおさえ、自分自身を守る、
②優劣を気にすると心が不安定なる、
③少欲知足でいまのままで幸せを感じられるようにするなど。
 
 このように、世の中には相反することをうまくコントロールすることが必要ですね。
 
 なぜ、仕事や勉強にがんばらないといけないのかと考えている人、人生ってなにと疑問をもつ人、少し考えてみましょう。







本日の学び
 著述より
「自然は多様でありながら統一した存在である、人間は自然の史的過程の頂点に位置している。このことから人間の役割、史的自然の発達にたいする人間の役割がみちびきだされてくるのである。


 日常身の回りに見出されるものが全て原子・分子のあつまりであることを現在では多くの人が知っている。原子は約1億分の1センチメートルくらいの大きさをもっているから、多くの物は原子が莫大な数集まっていると考えられる。

 原子は、100種類ほど発見されているにすぎないが、物の種類は膨大な数にのぼっている。現在知られている化合物は1000万個をこえ、毎週200個以上の新しい化合物が合成されている。

 生体物質であるタンパク質は、20種類のアミノ酸がつらなったものである。アミノ酸の分子自身は数十個の原子からできている。これらのアミノ酸が約60個つらなると、大宇宙の陽子や中性子の総数に匹敵するほどの異なる種類のタンパク質をつくることができる。


 パチンコの玉の運動法則と原子の運動法則とはまったくことなったものである。前者はニュートンの運動法則、あるいは古典的法則と呼ばれるものであり、後者は、量子力学と呼ばれるものである。

 原子・分子やパチンコの玉がそれぞれ異なる性質を持っているとしても、両者はけっして互いに無関係なのではない。
原子の集まりが分子をつくり、分子の集まりがパチンコの玉をつくる。
すなわち、原子という質を持つ物質が量的に変化(増加)することによって分子という質が生成する。さらに分子が量的に変化(個数の増加)することにより、古典的法則にしたがうという、たとえばパチンコの玉といったような新しい質が生成する。







 パチンコの玉などのように古典的運動法則にしたがう物質を巨視的物質と呼ぶことにしよう。

その巨視的物質がさらに量が増大したとき、天体は新しい質が生成される。
このとき天体はみずから原子エネルギーを放出する。太陽や多くの星がその例である。
すなわち、天体の内部で発生する熱の約半分が大きな天体では外部に放出されないで蓄積されていき、ついには原子が分解して原子核と原子核の間の衝突(核反応)が生じ、これとともに新しい原子核、すなわち新しい元素が生成する。このとき、天体は自ら核反応をおこない、元素を生成し、絶え間なくエネルギーを放出して
変化していく。これが天体に特有な新しい質である。この天体は、やがて最後の段階に達して爆発、凝縮化の過程を経て、宇宙にまた新しく天体の生成過程がはじまる。





 この大きな方向とは反対に、ちいさな方向においても自然の研究はおしすすめられている。
原子の中心には1兆分の1センチメートルの大きさの原子核があり、そのまわりを電子が運動している。
原子核は、中性子、陽子すなわち核子と中間子からできている。かつては原子核が物質の究極的な単位を考えられていたことがあったが、やがて電子や核子、中間子などの粒子が自然を構成するより基礎的な粒子とみなされてきた。
これらの粒子を一括して素粒子と呼んでいる。



 さて、素粒子はけっして自然を構成する最終的な単位ではない。
最終単位とする見方はいままで回をかさねて述べてきた弁証法的唯物論にそった見方ではない。
なぜならば、この見地では、1個の素粒子もまた物質のひとつの運動形態であって、素粒子としての運動は素粒子の内部矛盾にもとづいて生じているはずである。

事実1970年以降、素粒子の研究が一段と進んできた。その結果、自然を構成する素粒子はクォークとレプトンという二つの族であることがわかってきた。陽子や中性子をつくっているのがクォークであり、電子やニュートリノはレプトンに属する。
さらにこれら素粒子と素粒子間の相互作用を統一的にとらえることがしだいにできるようになってきた。






 中性子・陽子は互いによく似た粒子であってまとめて核子と総称する。
核子の間には強い力がはたらいている。これを核力という。さてこの核力は他の電気的な力とくらべるとたいへん強い。たしかにそのとおりであるが、別の意味では核力はけっして強いとはいえない。
その理由は簡単で、もしこの核力がかりにもう少し弱いと仮定すれば、原子核は一つにまとまっていることができず、個々の核子に分かれてばらばらになってしまう。

つまり核力は原子核を形成できるぎりぎりの大きさになっている。
もしこの自然のなかで原子核が構成されなければ、当然のことであるが原子や分子もつくられることがなく、この多彩な自然はけっして実現されなかったであろう。この核力の大きさは、核子の内部構造や核力の原因となっている中間子の性質からきまるものである。

一方これら核子や中間子の性質はもっと深いいっそう基礎的な自然の法則から定まるものであって、けっして原子核を結合させることができるようにこのことを目的としてこれらの性質が決まっているのではない。
現在の核子や中間子の性質はいっそう深い自然法則の結果であって、結果として生じた現実の核子と中間子が原子核を構成することができるのは、いわば一種の偶然のことであるとういうことができよう。


 ここで強調したいことは、素粒子以下から天体にいたる物質の系列がただなんとなく、かつなんの障害にもあわずつくられていったのではないということである。

適当な素粒子が適当な大きさの相互作用をおよぼしあっていたのでは、日々目のあたりに見る自然はとうてい形成されることがなかったであろう。この経過は、偶然性と必然性がたがいに媒介しあって展開されていった生物の進化を思わせる。





 さて、素粒子から銀河にいたる自然の質の系列は、自然の弁証法的構造を良く示している。しかしながら、自然にはこのほかに重要な質が存在する。
それは生物である。
今まで述べてきた自然のなかのどの質とも異なるものである。
生物は無生物に比べてきわめて高い運動性、すなわち多様な反応性に富んでいる。

しかも、その反応性が個体から固体へと継承されている。
この意味で高度の反応性はまことに安定である。さてこの生物は、素粒子からはじまる質の系列、すなわち自然の類層的構造にたいしてどのような位置を占めているのであろうか。
生物は高度に発展した物質系ではあるが、原子の集合であることも確かである。
なぜならば、生物は原子の中心にある原子核を破壊し原子核の反応を利用するような体制はとってはいない。
放射線を放出する原子核の性質、すなわち放射能を積極的に利用する生物は見出されていない。
したがって生物は原子という質の上に発展した原子の集合としての物資系であるとみなすべきであろう。



 ところで生物は、巨視的物質とは異なる質、生きているという質をもつものである。このため、生物を自然の類層的構造の中に位置づけようとすれば、原子の集合という意味で原子・分子の質から出発するとともに、巨視的物質と異なる位置におかなければならない。そこで生物を原子・分子から派生した別の系列である二次系列として位置づけることができよう。
これに対して、素粒子から宇宙にいたる系列を主系列と呼ぶことにする。

 

 次に人間などの知性体が二次系列とは異なる系列として示されている。
ここでいう知性体とは、人のように高い知的活動をおこなう存在全体を意味している。
全宇宙には、地球上の人類と等しい、あるいはそれ以上の知的活動を行っているものが存在していると考え、それらと地球の人類を総称してよんだものである。
著者は、高い知的活動が生きていることと生きていないこととのちがいほど大きいことではないかと考えている。高い知的活動が、外界からの情報を意味づけて認識体系を形成させ、目的をもつことを可能にし、かつ人の活動の結果が極めて広い範囲に及ぶことを可能にすることにもとづいている。

いまひとつは、人がまだ高い知的活動をおこなっていない間の人口数が、野生哺乳動物と大差なかったということである。
その数にたいして現在の人口数は一万倍から一○万倍の大きさである。この数が人の高い知的活動の所産であることには異論をはさむ余地がない。

また、先に哺乳動物のエネルギー転換の割合が、太陽のそれの一○万倍であることを注意していた。さきにあげた数字とこの数字の思いがけない一致は、知性体が新しい系列を生成しているという見地の、一つの証になっているだろう。




 
 さて、いまから一○○億年くらい以前にこの宇宙と宇宙に含まれている全物質が生成したのではないかという見方は、現在広く受け入れられているといってよい。

 弁証法的唯物論では、物質が客観的に存在していて、絶えまない運動状態にあるという見方をとっている。同じことであるが、物質は消滅することもなければ新たに生成することもない、ただその運動形態、あるいはその存在様式が絶えず変化しているのだと表現してもよい。一○○億年前に宇宙が爆発的に生成し、物質が生成したという考え方は、前述した物質の運動形態の変化としてとらえていない。


 物質の状態が有限なこなたにあるのか、または無限のかなたにあるのかを見定めるのは、この状態を表現している表示が有限か無限ではない。
それは問題としている状態が現在の私たちの手のとどく状態から到達できるか否かできまることである。例えば絶対零度の状態は到達可能ではない。
したがってこの状態は無限のかなたにある。宇宙のはじまりについては今のところ何もいえない。
それ以前のことについては物理的理論の適用可能性の問題もあり、また、宇宙のはじまりと考えている状態が到達可能か否かという点もまた今後の問題である。



 いまのべたように、一○○億年前の自然では、物質、中性子、陽子(核子)以前の形態、すなわち非核子的形態をとっていたのであって、この形態から一○○億年よりも以前かまたはそのころに物質の核子的形態が生じ、さらに原子核、原子、分子等の主系列が生じたのである。
ここまでのべた推論にそえば、こうして自然は核子を基礎においた循環的な世界ではなくて、物質の運動形態のたえざる変化発展がおりなす非循環的な世界となる。
すなわち弁証法的唯物論の立場に立った世界観とは、自然を歴史的にみる世界観であるということができる。


 自然ははるか以前、一○○億年以上も前に、それまできわめて長くつづいてきた非核子的状態ののちに核子を生成するにいたった。
これは自然の飛躍的な発展であった。やがて、自然には第二の飛躍的発展のときが到来する。それが宇宙的規模における生物の発生である。このような過程を経て、いまや自然にまったく新しい質が生まれるにいたった。これこそが意識を持つ存在としての人間である。このような意味で、自然は史的発展をとげつづけてきたのであって、意識をもった存在としての人間は、その史的発展の頂点に位置しているのである。



 今後の発展を特徴づけるものは、現在の自然の中にすでに生まれていながら、過去の自然の史的過程には存在しなかったものであるはずである。
いいかえれば、現在までの自然の否定、現在の自然の特徴を否定する積極的なものでなければならない。
これこそ、自然成長的に発展してきた過去の自然にたいする意識的存在としての人間のその活動でなければならない。
いいかえれば、自然を意識的に変革していく人間とその活動こそ、今後の自然の変化発展の主要な特徴を耐えるものである。こうして、自然にたいする実践、自然の意識的改革が、自然の歴史的発展の今後を特徴付けるものとなってくる。



 二次系列の最も発展した段階に生まれた人間は、いまや意識的に自然を整えていくことができる。
その結果、自然には予想もされなかった側鎖の形成が可能となるかもしれない。このような自然の発展にあっては物質のもつかぎりない豊かさが目ざましく花開き、展開していくのではないであろうか。」






長くなりましたが、ここまでが引用文です。




 今回の学びから得たことは、たくさんありました。
大きな物質と小さな物質とでは連続しているにもかかわらず、その運動法則が違っていること。
原子核の中には、陽子や中性子という核子と中間子でぎりぎりの力で無駄がなく原子核が保たれていること。元素は太陽のような天体の中で原子核の反応にもとづいて生成されているが、いまかりに陽子や電子の持っている電気量がごくわずかだけ実際の値よりも大きければ、天体のなかで元素を生成することができないこと。
人類は、自然のなかから生まれてきたのであるが、質の違う三次系列であるということ。
ここに自然に対する人間の役割が示されている。すなわち、人間だけが、この社会や自然を変えられるということです。

これらから推測すると自然のなかで人間が更に発展して第四時系列ともよべる側鎖が発生しても不思議ではないように思われます。
さらに100億年前の自然では、物質、中性子、陽子(核子)以前の形態、すなわち非核子形態をとっていたのであって、この形態から100億年よりも以前かまたはそのころに物質の核子的形態が生じ、さらに原子核、原子、分子等の主系列が生じてきたことを知ったのが、大変な驚きでありました。


 今回、学んできましたように、われわれの世界、あるいは自然は長期にわたり想像もつかないぐらい変化を続けていっているのがわかります。
まさに、現代も、どれくらいの規模、あるいはどのくらいの歴史的スパンなのかは、わかりませんが、世界が今までになく大きな変化をしている時と考えてもまったく不思議ではありません。
そう考えますと今までの価値観がごろっと変わるような気がします。新しい社会や自然に期待と不安でワクワク、ゾクゾクしてきます。
 





カテゴリー

2010年01月12日 | 哲学
前回、ブログの字数制限で説明しきれていませんでした、原子力についての基礎的なことを
経済産業省 資源エネルギー庁編集、(財)日本原子力文化振興財団発行の「原子力2008」から引き続き学んでおきます。




原子力発電では、運転に伴い、熱エネルギーだけでなく様々な放射線が発生します。放射線とは、原子炉内等で作り出される不安定な原子核の崩壊や核分裂のときに放出される粒子や電磁波のことです。よく似た言葉として「放射能」がありますが、これは放射線を発生させる能力のことをいいます。ただし、放射能を持つ物質(放射能物質)のことを指して用いられる場合もあります。




・放射線の種類と性質
放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線等があります。

アルファ線は陽子2個と中性子2個が結び付いたヘリウムの原子核と同じもので、プラスの電気を帯びています。物質に吸収されてエネルギーを失うと周囲にある電子と結び付いてヘリウム原子になります。なお、アルファ線を出した原子は、それだけ陽子と中性子の数が減るので、別の原子に変わります。

ベータ線は原子核から高速で飛び出す電子であり、これに伴い原子核の中では中性子1個が陽子に変わります。このため、ベータ線を出した原子は、陽子の数が増えることになり、別の原子に変わります。

ガンマ線は原子核からアルファ線やベータ線が飛び出した直後等に、余ったエネルギーが電磁波の形で放出されるものです。電磁波は電波や光やガンマ線等の総称です。エックス線も電磁波であり、一般にガンマ線に比べれば波長は長くなりますが、ガンマ線と同じような性質を持っています。

中性子線は核分裂等に伴い放出される中性子であり、電気的に中性です。このため、 非常に強い透過力(物質を通り抜ける力)があります。
強い透過力を持つ放射線も適切な材料を使えばさえぎること(放射線の遮蔽)ができます。また、材料によっては放射線が当たると蛍光を発したり、写真が感光したりしますが、これは放射線が物質に当たったときの原子や分子の励起あるいは電離作用の結果です。この性質を利用して放射線のエネルギーや強度を正確に計ることができます。




                      
・日常生活と放射線
放射線や放射線物質は、人間が原子力の利用を開始したことによって初めて生まれたものではありません。人間は、有史以前から様々な放射線や放射性物質の中で生活してきており、放射線や放射能物質はもともと私たちにとってきわめて身近な存在でありました。
地殻を構成している岩石や土砂等の中には、ウラン系列、トリウム系列、カリウム系列等の放射性物質が含まれていて、これらは絶え間なく放射線を出しています。また、ウラン系列、トリウム系列から生じたラドンは気体上の放射性物質であり、空気中に混じっていて、呼吸することによって体内に取り込まれ、体の内部で放射線を受けることになります。さらに、宇宙のかなたから飛来した宇宙線と呼ばれる放射線も人間に降り注いでいます。これら自然界に存在する放射線は、自然放射線と呼ばれています。
 放射線が人体に与える影響を表す単位としてシーベルトがありますが、人間は、1人当たり平均して1年間で約2.4ミリシーベルトの自然放射線を受けています。その内訳は、宇宙船から飛来してくるもの0.39ミリシーベルト、土壌から放出されるもの0.48ミリシーベルト、日常摂取する食物を通じ体内で照射されるもの0.29ミリシーベルト、それに空気中のラドン等の吸収により1.26ミリシーベルトです。






 また、自然放射線からの線量は場所によりその大きさが異なります。これは地質等により、その場所ごとの自然放射性核種濃度がことなるためで、例えば、我が国では最も少ない神奈川県と最も多い岐阜県とは年間約0.38ミリシーベルトもの開きがあります。
また、ブラジルのガラパリという地方では、年間約10ミリシーベルトの自然放射線を受けています。
 我が国の原子力発電所が周辺地域に与える影響は、法令で定められている線量(年間1ミリシーベルト)に比べ十分低い値になるよう管理されています。この目標値は、1年間で0.05ミリシーベルトであり、実際にはこれよりも低い値に抑えされています。


・放射線が人体に与える影響
放射線が人体に与える影響は、放射線の種類や量によって異なります。放射線は、それ自身の持つ電離作用等の性質により、生体に影響を与えます。
 放射線の生体への作用には、放射線が細胞のDNA(遺伝子を構成する高分子化合物)等に直接当たることによって生ずる「直接作用」と放射線が細胞内の水や有機物質等を電離することにより化学反応性の強い物質(フリーラジカル)を発生させ、このフリーラジカルがDNA等を傷つける「間接作用」とがあります。
これからのDNA損傷の程度は放射線を受ける部分や放射線の量で変わってきます。一般に細胞分裂の盛んな部位ほど、放射線の影響をより多く受けることになります。
私達は、自然放射線を受けているわけであり、つねに放射線によりDNAや細胞内の分子が損傷を受けていることになります。
しかしながら、生態にはDNAや細胞レベルでの自己修復作用があり、少々の損傷は修復されます。この自己修復作用の能力を超える損傷をうけたとき、放斜線による影響が症状として現れます。

大量の放射線が外部から当たると、多少の個人差はあっても、皮膚が赤くなったり、もっと強く照射されると、潰瘍を起こしたりします。これは、放射線をうけた部分の細胞がある程度破壊されるためです。
また、一度の大量の放射線を受けると急性放射線症の症状として、吐き気、おう吐、下痢、発熱等が現れ、この後にも様々な症状が発生することがあります。非常に大量の放射線を受けると死にいたります。

これらの症状は、医学・生物学の立場から、発生する時期により早期影響と晩期影響に分けられます。早期影響とは、白血球の減少等のように放射線を受けた後、数十日以内に現れる影響のことです。

これに対して晩発影響とは、白内障、白血病やがん等のように放射線を受けた後数年以上たって現れる影響のことです。
このほか放射線を受けた人の子孫に対し、遺伝的影響が証する可能性も考えられますが、これまでの疫学調査では検出されていません。

 放射線防護の立場からは、放射線による影響は、確定的な影響と確率的な影響に分けられます。
確定的影響とは、一定の放射線量以下では医学的検地できるほどには現れないとされている影響で、早期影響として現れる症状は全て確定的影響に含まれます。
この境界の放射線量を「しきい値」と呼んでいます。
これに対し、確率的影響とは、放射線の量に比例して影響が発生する確率が高くなると考えられている影響のことで、晩発影響のがんや白血病等がこの確立的影響に含まれます。
確率的影響の発生には放射線量の「しきい値」がないものとして、放射線の被ばくによる影響が評価されます。





このへんで、原子力についての基礎的な話を終わります。
さて、六ヶ所村の原子力施設見学の続きですが、核分裂による原子力エネルギーをいうのは、今学びましたように、質量の重い原子の原子核に中性子を当てて物質の最小単位ともいえる原子核を破壊し、そのときに生ずる質量欠損分の主に熱エネルギーを利用するというものですが、私は、エネルギーを得るために人為的に自然を破壊(原子核を破壊する)することが、人間と自然の関係でどうなのかということに一番疑問を感じました。

 それと、核分裂する過程において放射線でDNAや細胞内の分子が損傷を受けることは、たいへん恐ろしいことですが、現代のエネルギー事情を考えますと、他国にみられますように電気を得るために脱硫装置が不十分なまま石炭をもくもくと燃やしているような状態と比べますと、はるかに地球保護につながります。
(原子力発電は、発電の過程において、大気汚染・酸性雨の原因となる硫黄酸化物、窒素酸化物も出しません。二酸化炭素排出量も原料の採掘や輸送、発電所の建設や運転などに消費するエネルギーを含めて算出した場合においても、1キロワットアワーあたりの発生する二酸化炭素の量は、石炭975.2グラム、原子力21.6~24.7グラム、水力11.3グラム、太陽光53.4グラム、風力29.5グラム)
そう考えますと、放射能という人体に危険なものでも、安全対策を十分にすれば、そこで働く人たちや周辺地域にもほとんど問題ないと施設を見学して感じました。
ただ、輸送過程は何が起こるかわからない、すなわち不安定要素、不確実要素が増えるのでそこには十分注意をしなければいけないとも感じました。
今後、自然エネルギーに移行する過程では、我々がどうしても必要な電気をつくるのには、原子力発電は人類がもっている手段の一つとしては、有効ではないかと思いました。
使用済み核燃料の廃棄場所の問題など、まだ解決しなければならない問題は残りますが、他の地球環境や戦争や病原菌や貧困などとは切実さのレベルが違うと思われました。

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12月9日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、5名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第二十話 カテゴリー」です。


雑感
 この時期は、いつも経営指針書づくりをしています。
新しい期の基本的な行動指針は、「柔軟」です。2008年9月15日のリーマンショック以来、北米で起こったことが、すぐさまわれわれにこれだけ大きく直接影響したことはなかったです。
株価が下がり、円高になり、北米でモノが売れなくなり、自動車や電気、工作機械など輸出に頼っていた日本の経済は急激に落ち込みました。
わが滋賀県も製造業の比率が日本一高い県ですので、昨年の今頃は、中小の企業はピーク時の2割~5割程度にまで受注が下がりました。あれから一年経ってやっと6割~8割程度戻ってきてはいますが、本格回復にはいたっておりません。
住宅の着工件数も前年比70%の水準で推移しております。









 それどころか、今回の一件で、世界の先進国の消費構造、生産構造が大きく変化したり、アメリカ中心だったものが、中国中心にシフトしております。まさに、弁証法的にいいますと産業革命以来、今までの経済が量的変化を重ねてきた結果、質的変化を起こそうとしているのかも知れません。今回の変化を質的変化と捉えると、今までの価値観がごろっと変わるぐらい変化するということです。ですから、私たちも今までの経営をしていてはもう時代遅れということです。ですから、今期に関しましては、変化の質を観察しながら「柔軟」に経営の舵取りをしていくことが決定的に重要だと考えております。




本日の学び
 カテゴリーとは、矛盾、運動、形式、内容、必然性、偶然性、物質、意識、観念、真理、対象物、矛盾、統一、否定、質及び量、時間、空間、対立物、否定、因果関係、本質と現象、可能性と現実性、個別と普遍、具体的と抽象的などをひとまとめにしたものを指すようです。もう少し著者の言葉を借りて説明を試みてみます。


 「どのような個々の領域にたいしても、その領域に関係した重要な概念を見出すことが、対象を深く認識する第一歩である。これらの概念は、細胞、固体、原子、分子、商品、貨幣など、実在物の名前であることもあれば、温度、景気、進化、古代、近代のようにそれぞれの分野における客観的実在の状態やその変化に関するもの、すなわち客観的実在の運動に関するものであることもある。これらはそれぞれの領域における客観的実在の重要な基本的部分や、その運動に関する本質的なものをあらわしていることである。実際、細胞はそれ自身生命の単位であってかつ多細胞生物の基本的な単位である。また温度は物質の状態をしめす一般的な概念である。温度の概念が導入されてはじめて熱現象の科学的研究が行われるようになったのである。すなわち客観的実在の変化発展における一般的で本質的なものを映し出した概念である。」


 これで私も少し理解できたような気がします。花の名前のように個々のものを区別するだけのものではなく、その概念からどんどん広がりを見せたり、深く考えることができたり、概念同士のつながりを考えていく過程の中でさらに世界をよく認識できるものだということです。

 ここでは著者は、「どんな現象にもその必然性と偶然性がそなわっていて、両者はたがいに他方の存在を前提として存在していることを認めたうえで、現象における両者の関係、すなわち相互に相手の存在を前提としてはじめて自分の存在があるという相互依存の関係と相互否定関係を認識することができた」といっています。

 これも本質的な概念です。私たちの世界は、宇宙が誕生したとき正物質と反物質があったようにすべてのものにたいして正・反、プラス・マイナス、否定・肯定、好き・嫌いなどの相反する概念が入り混じっているのが世界の本質ではなかろうかという気がします。そうしますと、その矛盾こそが、世界の進化発展のすなわち運動(内部矛盾)のもととなっているというように考えられます。





 ですから、組織内でも国家間でも内部矛盾があってこそ進化・発展していくものだということがわかります。ただし、人間には意識があります。物質相手の科学的なことは、まったくさかさまの方向から考えたり、常識を否定したりすることによって世界は広まっていきます。しかし、人間や社会の問題は、意識的に対立して争うこともできますし、意識的に協調しあうこともできます。でも、世界を見ていますと自分にとって生きるか死ぬかということを目の前に突きつけられないと人間は協調して生きることは難しいようです。

 ただ、今、地球環境問題とか、戦争、紛争の問題など人類全体でしか捉えられない問題が発生してきています。そういった意味では、現代は人類にとって大きな転機に直面しているのだと思います。100年に一度の経済危機というようないわれ方をしていますが、このことは、自然の問題であり、人類の進化発展過程における必然的かつ質的な変化をもたらす問題だというようにみることもできます。

 今は、世界をどのように捉え、どのようにしていくのかが一番重要なことだと思います。そうしないと、ヘーゲルが言うように、すべてのものは内部矛盾によって崩壊する、言い換えれば、人類は人類の持つ自己矛盾によって、自己崩壊するのかもしれません。

 私たちのすべきことは、人間の本質である真理、すなわち真・善・美に目覚め、目の前の欲にとらわれずに行動していくことが求められているようです。



否定の否定の法則

2010年01月11日 | 哲学
11月11日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十九話 否定の否定の法則」です。



雑感
 10月の23日、24日に関西電力様のサービス懇談会で青森の六ヶ所村の原子燃料サイクル施設に行ってきました。前回の哲学学習会でたまたまウラン238などの放射性元素について学びましたので大変興味深く見学をさせていただきました。






 まず、三沢空港に降り立ったのは初めてでしたが、米軍の施設が空港内にあり、沖縄と同じでいつもとは違う緊張感を感じました。
そこからバスで日本原燃さんの六ヶ所村へと向かいましたが、道すがらは観光地とは違い寒々しい殺風景な風景でした。





施設に近づきますと、まず、目に入るのが風力発電用の風車です。少し前に三重県の青山高原に行ったときにも風車は見ていたのですが、六ヶ所村は圧倒的な数でした。ちなみに風車の数は青森県が日本一多いそうです。そのほかにも、国家石油備蓄基地もありました。六ヶ所村の施設は、広大な原野の中に「ウラン濃縮工場」、「高レベル放射性廃棄物貯蔵監理センター」、「低レベル放射性廃棄物埋設センター」そして「再処理工場」がありました。
 









 施設内には、PRセンターがあり、たいへんわかりやすく核施設の内容や原子力発電のしくみやウラン鉱石の実物や原子力のことがよくわかるようにつくられていました。
 その後、施設内をバスで見学しましたが、印象的だったのは警備が大変厳しいことと、施設の安全管理が今までいろいろな工場を見てきましたがこれほどのところはありませんでした。一例を申し上げますと、建物屋根は1.2メートルのコンクリートで保護されていますので飛行機が落下してきても大丈夫だそうです。また、建物は、地上に見えている部分の高さは、そんなに高くないのですが、地下がすごいです。地下施設といっていいぐらいです。また、使用済みの燃料棒といっても大変高温(300℃)で放射線も多量に放出していますが、人が触れることなく地下で移動できるようになっているそうです。また、施設内で働く人たちの安全教育などは、模擬施設も完備しており、かなり高度で徹底されていると感じました。



ここで原子力について基礎的なことを経済産業省 資源エネルギー庁編集、(財)日本原子力文化振興財団発行の「原子力2008」から少し学んでおきます。
今回は一部で、次回に続きます。





一口に原子力といっても、そのエネルギーを発生させる現象は原子核の崩壊、核分裂、核融合等さまざまなものがあります。このうち大きなエネルギーを発生させるものは、核分裂と核融合です。
核分裂とは、原子核が分裂することで、核融合とは複数の原子核が合わさり1つになることです。現在、エネルギーの分野で実用化されているのは、核分裂によるエネルギー利用です。

 すべての物質はたくさんの原子から成り立っており、原子は原子核とそのまわりにある電子からできています。
 原子核は中性子と陽子からなり、それぞれは核力と呼ばれる強い力で結び付いています。陽子と陽子の間には、クーロン力と呼ばれる電気的な反発力も存在しますが、核力のほうが勝っており、原子核は1つにまとまっています。原子核を1つにまとめているエネルギーを、その原子核の結合エネルギーと呼びます。結合エネルギーの観点から見ると、鉄やニッケル等の中くらいの重さの原子核が一番安定しており、いくつかの例外を除き、重くなるにつれ、あるいは軽くなるにつれ不安定になります。このため、ウラン等の重い原子核は、分裂して軽い原子核になろうとする傾向があります。反対に水素等の軽い原子核は、融合して重い原子核になる傾向があります。



しかしながら、不安定といっても比較の上での話であり、それぞれの原子の原子核は非常に安定しており、基本的にはそのままの状態で核分裂や核融合が起こることはありません。核分裂を起こすには、原子核を一度不安定な状態にする必要があります。この役割を担うのが中性子です。ウランの核分裂を例に取ると、ウランの原子核に外から中性子が飛び込むと、原子核は不安定な状態になり、分裂して2つ以上の異なる原子核に変わります。この時、膨大なエネルギーが発生します。

 核分裂反応の前後で、陽子、中性子の個数の合計は変化しません。しかしながら、元の原子の質量に比べ、新しく発生した原子や粒子の質量の合計は、わずかながら減少しています。これを質量欠損と呼びます。

 相対性理論によると原子レベルでは、質量とエネルギーは同じものであり、その変換式はE=MC²(E:エネルギー、M:質量、C:定数(光の速度))で表されます。質量欠損は、元の原子が質量として持っていた結合エネルギーの一部が、核分裂によって外部にエネルギーとして放出されるために生じます。このエネルギーのほとんどは、新しく発生した原子や粒子の運動エネルギーとなりますが、最終的には熱エネルギーとなります。この熱を発電に利用したものが、原子力発電です。


一方、核融合では、水素等の軽い原子を超高温高圧のプラズマ状態(電子と原子核が分離してバラバラになっている状態)にしてやることにより、その原子核を融合させます。太陽は核融合を持続させることにより、エネルギーを発生しています。太陽の内部では水素が融合し、ヘリウムが次々に生まれています。









原子の存在は遠くギリシア時代のデモクリトスから予言されていましたが、原子力開発の歴史が始まったのは、19世紀末から20世紀の始めにかけて、多くの科学者によって原子論が展開され、放射線が発見されたときからです。こうした分野で活躍した人たちとしてドルトン、長岡半太郎、レントゲン、キュリー、ラザフォード、アインシュタイン等が挙げられます。
 
 その後、放射線の実験から原子が人工的に変えられることがわかり、多くの科学者を核分裂の実験に駆り立てました。そして、ついに1938年オット・ハーンとマイトナーが核分裂を確かめました。しかし、核分裂の発見の時期が第2次世界大戦と重なったことは、原子力にとって、とても不幸なことでした。
 
 1942年、アメリカへ亡命していたイタリア人エンリコ・フェルミを中心に、シカゴ大学で史上初の原子炉が作られ、ウランの核分裂が人の手で自由にコントロールできることが確かめられましたが、これは世界に先駆けて原子爆弾を作ろうとするアメリカの計画の一環としてでした。
 
原子力が平和のために本格的に使われ始めたのは、第2次世界大戦後の1953年、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で「平和のための原子力」と呼びかけてからです。





核分裂を起こす物質(核分裂性物質)として、ウランやプルトニウムがよく知られています。
自然界に存在するウランのうち、核分裂を起こしやすいものは、陽子と中性子の合計数(質量数)が235であるウラン235です。自然界に存在するウランのうち、大部分(99.3%)は、核分裂を起こしにくいウラン238であり、ウラン235は残りの0.7%です。ウラン鉱石から精製した状態のウランは、ほぼこの構成比になっており、これを天然ウランと呼んでいます。

我が国の商業用の原子力発電所(軽水炉)においては、天然ウランで発電を行うことはできず、ウラン235の比率を3~5%程度に高めたものを燃料として使用します。この状態のウランを濃縮ウランと呼びます。

このほか、核分裂性物質の中には天然に存在しない人工元素があり、プルトニウム239やウラン233が知られています。プルトニウム239はウラン238が中性子を吸収することにより、ウラン233はトリウム232が中性子を吸収することにより生成されます。





ウラン235等の原子核が、外部から入ってきた中性子が当たる等のきっかけにより複数の異なる原子核に分裂するとき、同時に中性子を出します。この中性子で次の核分裂を起こすようにし、これをくり返していくと、核分裂が継続して発生するようになります。これを核分裂連鎖反応と呼びます。
 ウランやプルトニウムでは、1回の核分裂により、複数個の中性子が放出されます。核分裂により発生した中性子は、外に逃げ出す、核分裂を引き起こさない物質に吸収される、次の核分裂を起こすという3つの場合のいずれかとなります。1回の核分裂で発生した複数個の中性子のうち、1つのみが次の核分裂を引き起こす状態、つまり核分裂を引き起こしたのと同数の中性子が次の核分裂を引き起こす状態では、核分裂の数がつねに一定に保たれます。この状態を臨界と呼びます。
 これに比べ、核分裂を引き起こした数よりも多い中性子が次の核分裂を引き起こす状態では、核分裂を起こす原子核の数がどんどん増えていきます。この状態を臨界超過と呼びます。次の核分裂を起こす中性子の数が核分裂を引き起こした数より少なければ、臨界や臨界超過は発生せず、核分裂連鎖反応はやがて終焉に向かいます。
 
 原子力発電の運転においては、出力を一定に保つため、核分裂の数を一定に維持する必要があります。つまり、臨界の状態を維持するように運転します。





原子爆弾と原子力発電はともに核分裂によるエネルギーを利用する点は同じですが、その仕組みは根本的に違います。
 
 例えばウランを用いた原子爆弾は、一瞬のうちにほとんどのウランを核分裂させ、爆発的にエネルギーを放出させるものであり、効率よく瞬時に核分裂連鎖反応を引き起こさせるようにウラン235の割合が100%に近いものを使用します。原子爆弾の核分裂は、複数の中性子が、他の物質に吸収される間もなく次の核分裂を引き起こします。核分裂で発生したままの速い状態の中性子によって行われるため、非常に短い時間で核分裂数が倍増することになります。
 これに対し、ウランを燃料とする原子力発電では、燃料中のウランを少しずつ核分裂させ、少しずつエネルギーを取り出すものであり、一定の規模で核分裂連鎖反応が継続されるように、燃料中のウラン235の割合が3~5%のものを使用しています。
そして、燃料の大部分を占めるウラン238が中性子を吸収する働きがあるのに加え、原子力発電では、発生した中性子の速度を遅くしてから次の核分裂を行うような設計となっているため、原子爆弾と比べると、核分裂の変化は非常に緩やかになります。
また、我が国の商業用の原子力発電で使用されている軽水炉は、温度が上昇するとウラン238がより多くの中性子を吸収する現象(ドップラー効果)等を利用して、核分裂数が増加して原子炉の出力が上昇しても、燃料の温度が上昇することによって自然に核分裂が抑えられるような設計になっています。



次回は、放射線について学びましょう。

それでは、本題に戻ります。
 
本日の学び
 まず、弁証法とは何でしょうか?世界を語る普遍の真理とでもいいましょうか。ただ、ひとつの理論で世界を語りつくせないことは、その後の哲学が証明していますが、この弁証法を知っておくことは世界を深く探求するためには、有益な手法だと思います。
弁証法の三法則は以下のものです。
原因の法則:対立物の統一と闘争
変化の法則:量的変化と質的変化
発展の法則:否定の否定の法則

今回は、弁証法の第三法則、否定の否定の法則についてです。

    





デモクリトスの原子論

物質は質的に同一でかつ不可分な、不変で自立性をもつ究極の単位からつくられていまして、この究極の単位が原子と呼ばれるものです。万物、人間精神および社会状態までをふくめてすべての現象は原子の離合集散によって生じます。したがいまして、世界は原子の離合集散という単一の現象の世界と考えられ、その意味ではけっしてばらばらでもなく、まとまりがつかないものでもなく統一した存在です。その反面、原子の離合集散が多様であればあるほど、それに応じて自然は多様性に富むことになります。
 このようにこの世界の矛盾した特徴、すなわち多様性と統一性をきりはなさないで一つのこととして理解する唯一の道が原子論です。
 事物の進化発展についてですが、事物はその内部に矛盾を有しており、この結果として、けっして静かな不変な状態を続けることはできません。その内部矛盾をみなもととして、たえず変化し運動することを余儀なくされています。その変化が量的に一定のところまですすんで、もはやいままでの質でささえきれなくなると急速に質的変化をひきおこして質的に異なるものに変化し、さらにたえず量的に変化していきます。

生命について
 ほとんどすべての生物個体は一定期間生存して死にいたりますが、個体は個体を生んで生命自身は変わりなく維持されていきます。たんに維持されるだけでなく、進化をかさねて発展していきます。いいかえれば、個体がその生命を有限な時間で終え、つぎの個体を生むというかたちで、その生命を長時間にわたって維持しているからこそ、生物は進化することができる考えるべきだと書いてあります。

 ということは、生物としてわれわれの生きる究極の目的は、種(生命)を残すためだということができるでしょう。それが、自然の摂理だからです。
親の個体とは幾分異なるDNAをうけた卵子は、親とやや異なる個体となります。卵子は細胞分裂を繰り返して新しい個体となります。親の個体はみずからと異なる卵子という生命体となることによって、新たな個体を形成する可能性を獲得していきます。このように生物は、個体の絶え間ない発生を通じてはじめて進化しうるものです。
だんだんわれわれの生命のなぞが解けてきましたね。

 たとえば、父親と母親がいまして、その一部の質を否定することによって質的に異なる精子や卵子となり新しい変化の可能性を獲得します。こうして父親と母親とが合体した結果、卵は、新しい質的存在としての卵として以前には不可能であった新しい量的変化をつづけていきます。この新しい卵は、当然のこととして父親や母親が有していた多くの質を肯定したまま新しい質的存在として運動していきます。やがてその量的変化はぎりぎりに達し、質的に新しかった卵はその特有な質を否定しいっそう新たな父・母へ質的に発展します。これが、否定の否定の法則です。
 このように事物の変化発展は否定の否定をとおしておこなわれ、たえず変化しながら新しく質を再現していきます。

 人も会社も社会も、このような二回の否定すなわち、二回の大きな質的変化を経て、進化発展していくとうことです。今年の衆議院の選挙で古い体質の自民党の政治が量的変化を続けてきた結果、古い体質を残しながら新しい民主党の政権が誕生し、また何年か後には、また民主党が否定されて次の何かが誕生する、このようなことが永遠に繰り返されて進化発展していくのが、世界です。経営も、昨年から今年のように経営の外部環境が大きく変化してきているときに、経営をさらに進化発展させるには、時流にあわせて現在の体質を強制的に否定し、新たな体質に脱皮する必要があります。人も、この時代で生きていくには、古い体質を自ら変化させていくか、自然に任せ量的変化が限界に達して質的変化を起こすかのどちらかです。ですから、自分が世の中で受け入れられなくなったり、ちょっとおかしいなと思うことがあれば、いまの自分の一部を否定してみるのもいいかもしれません。



生物の進化

2009年12月29日 | 哲学
 10月7日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十八話 生物の進化」です。



雑感 
 突然ですが、近代社会(フランス革命以降)とは何でしょうか?いろいろな見方、考え方がありますが、「ヒトはモノを支配できてもヒトを支配できない」、「ヒトは誰にも支配されない」という自由・平等を一般市民が獲得したということでしょう。

このことは、ことのほか大きなことです。人類の進化・発展過程で自由を獲得したことは一見すばらしいことのようにみえますが、現代の世相を見てもわかりますとおり、自由と競争を前提とする資本主義との合流、科学技術の発達、それによる産業の発達で、この二〇〇年間余りで、企業も巨大金融機関に代表される自らも含めて誰にも制御できない化け物にまで発展しました。
そして一般市民も額に汗してものづくりをするのではなく、なるべく楽をして自分一人だけがよくなればよいというように、さも当然のように株や先物のような金融商品すなわちバクチに精を出しています。

そして、人々の心は調和とか、助け合いという心をどこかに忘れ去っているように見うけられます。そして、誰もが、われ先の欲のわなにはまってしまって心豊かな生活を送っている人は、少ないようです。

そうです。
われわれは、自由を手に入れた代償として、秩序の欠落した混沌とした世の中に暮らさなくてはいけなくなりました。

地球のキャパは変わりません。技術が発達すればするほど、ますますこの傾向は強くなり、人類共通の地球環境問題なども各国の対処の仕方を見ていましても、その方向性に納得いくものではありません。

しかしながら、このような現代に生きる一人の人間として学びを深め、自分から、自分の周りから少しでも改善していくのがわれわれの使命だと思います。

現代に生きる地球上の人すべて、とりわけエネルギー消費の高い、われわれ文明国の人たちの使命であるといえます。

 
  本日の学び
 今回は、生物の進化過程におきまして偶然性と必然性について学びました。生物の進化とは、それぞれの種が過去から現在にわたって不変なものでなく、たえず変化してきたことをいいます。

進化すること自身が生命の特徴であります。
地球自身も絶え間ない変化発展のなかにあります。
マグマの活動や数千万年の周期で規則正しくくり返されている造山運動などです。

その結果として、地上のあちこちに古い岩石と新しい岩石とが残されています。カナダやスウェーデンなどではきわめて古い岩石が見出されています。 ここで学んだのが、岩石や地球の年齢を測定する方法です。

どの岩石にもウラニウム238という放射性元素がわずかではありますが含まれています。一グラムのウラニウム238は、一年間にその七六億分の一グラムだけ崩壊して、鉛206になります。そこで、岩石中にありますウラニウム238に対する鉛206の割合を調べてみますと、何年前にこの岩石がつくられたかを知ることができます。カナダなどで見出された、ある古い岩石は三五億年前のものであると推定されたのです。 また、この方法で隕石を調べてみると地球の誕生は四六億年くらい前のことになります。







さて地球が誕生したころのしばらくの間の大気には、酸素がふくまれていなかったと考えられています。
実際二〇億年前の岩石には、雨風の作用を強くうけたあとがあるにもかかわらず、酸素の作用をうけたあとが残っていません。

 このころの大気は、水蒸気を別にすれば、水素、炭酸ガス、一酸化炭素の他に、窒素、硫化水素、塩化水素をふくんだものでした。
これらが太陽の紫外線や雷による放電の作用をうけて化学反応をおこし、その結果、アミノ酸や糖などの複雑な有機化合物(炭素の化合物)が生じていきました。

 無生物的につくられました有機化合物は、当時あまり大きくない海などでしだいに濃縮され、ここで多くの反応をくり返し、たんぱく質などを生成して、さらに高度なものに発展していきました。
こうして、ついに生命活動を営むものが出現したと考えられています。
ちなみに、一〇億年前の岩石には酸素の作用をうけたあとがあって、鉄が赤く酸化しています。

 この一〇億年間の間に、遊離酸素が海水および大気中にしだいに蓄積されていきました。ここで主役を演じたのが藻類でした。藻類はその葉緑素のなかで吸収した太陽光線のエネルギーを用いて炭酸ガスと水から糖をつくり、この際、酸素を放出します。これを光合成といいます。

 さて多くの動物は、体内のブドウ糖などを酸素を用いて低温で燃焼させ、このエネルギーによって生命活動を展開しています。 

生命活動にエネルギーが必要であるのはいうまでもないことでして、酸素のない時代の生物とて事情は変わりません。
この場合、生物は、遊離した酸素を用いないで、有機化合物の分子を用いて有機化合物の分子を酸化し、エネルギーを得ていました。
このような無酸素的な分解反応を発酵といいます。
発酵によってエネルギーを得ています細菌のうち現在生存しているものとしましては、土壌細菌であるクロストリディウム、ガス壊疽(えそ)菌、破傷風菌、食中毒を起こすボトリヌス菌などがあげられます。これらの菌は、遊離酸素のもとでは生存することが困難かまたは不可能です。多くの場合、大気圧の数百分の一の酸素ですでに大きな害をうけます。このような生物を嫌気性生物と呼んでいます。  

さて、海中、大気中の酸素濃度が高まるにつれて、エネルギーを得るうえで酸素を利用する生物、すなわち好気性の生物があらわれはじめました。好気性生物は、嫌気性生物のひきつづいた発展として出現しました。これはきわめて重要な生物の発展でした。 
 まず、酸素による呼吸は、発酵にくらべて一九倍もエネルギーを多量に放出することができます。このことによりまして、生物はいちだんと活動的になることが可能になります。やがて海の中には植物に依存して生活する動物がきわめて多種類にわたって繁栄するようになりました。地上には酸素にみちた大気が用意されていました。
  次に起こったのが生物の上陸でした。植物はすでに一〇億年前から上陸していたようですが、四億年前ころになって、まずシダの類が繁りはじめ、つぎに、これらを食物とする昆虫や多足類があらわれました。
ついで、これら昆虫をえさとするクモの類が活動を始め、さらにいずれをもえさとするカエルなどの両生類が上陸しました。上陸した生物は、いっそう活動的となってついに哺乳類があらわれ、人類の誕生となったのです。




このような進化の過程はあらかじめ決められていたのでしょうか?  
 そうではなくて一つひとつの段階が次の段階を可能にしたにすぎないにもかかわらず、全体として進化がもたらされたのです。生物の進化の過程は、この世界に必然性とともに偶然性が存在することを認め、その両者の絡み合いを前提として、はじめて理解しうるものです。
そのような目で生物の進化を考えて見ることにしましょう。  
生物の個体の特徴は何世代も通じて変わらず伝えられており、これを遺伝と呼ぶことはよく知られています。個体の細胞にはDNAというきわめて長い分子があります。
この分子は情報のにない手すなわち一種の情報系でして人の場合では六〇億個の塩基系列が、対になったものです。
DNAの塩基の列は、タンパク質を合成するための情報系です。合成されたタンパク質はいろいろな細胞内の器官をつくり、やがて細胞は分裂して増殖します。増殖した細胞は個体を形成します。
このDNAが変化すれば、個体の特徴もまた変化し、いわゆる突然変異と呼ばれる現象が生じます。DNAは安定したものです。安定したものであるからこそ、子は親に似ており、イヌからはイヌの子が、ネコからはネコの子が生まれる。しかし、DNAはまったく不変なものではありません。まったく不変であれば、大昔から生物の種類はまったく変わらなかったでしょう。したがって生物の進化などはありえなかったはずです。




遺伝子には複製ごとに複製ミスがあって、突然変異が生ずるため、同じ種に属する個体であってもそのDNAは必ずしも同一でなく、幅があります。また遺伝子のなかには、DNAのなかのあちこちに移っていって、DNAの一部に入り込むものもあります。
このようなことに結果としてもとのDNAとは幾分異なるDNAが生じます。
このDNAの変化を変異といいます。
大切なことは、このような変異があっても、個体としての生存能力、すなわちどれだけ個体として生存してその子孫を残すかという能力にはほとんど違いがないということです。
この変異自身は直接には進化をひきおこしません。
このことを変異は進化に対して中立であるといいます。 

進化の道筋として以下のような経過を推定することができます。

まず、DNAの複写のあやまりなどによって、偶然に表現形(遺伝に直接あずかる塩基対は数パーセントで、その情報が個体の形質として表現されていきますのでこれを表現形という)に変異が起こります。
この変異の表現形には生存競争の上で能力差はあまり大きくはありません。
この変異が比較的短期間のうちに偶然事象、すなわち遺伝的浮動によって、個体集団に成長し、たまたま自然的条件の変化で、変異した浮動と淘汰をくり返して、生物は次第に進化してきました。

 
それでは、偶然性と必然性についてですが、必然性と偶然性は、一つの事物の具体的な変化発展の過程にみられる二つの面、二つの事象あるいは二つの事態であって、互いに不可分に結びついています。
偶然性をともなわないで必然性だけがあらわれることもありません。
その反面、偶然性が偶然性であるのは、その事物の具体的な運動のなかの必然性に入り込んで、これにともなわれているからであって、必然性がなければ偶然性もばらばらになってしまい、事物の過程で働く役割を失ってしまいます。
こうして偶然性と必然性は事物の運動のなかで、他方の存在を前提してはじめてその存在をたもつことができます。 
放射性原子核からの放射線の放出はまったく偶然的です。
また、放射性元素が半分の量にまで崩壊する時間は、どの放射性元素をとっても、その量によらず一定です。
これはすなわち、放射性元素の崩壊過程にあらわれた必然性です。 

 この崩壊の様式をよく調べてみますと、個々の原子のうち、どの原子の原子核が崩壊するかまったくきまっていません。それは偶然です。原子・分子の世界では、偶然性が見かけとしてではなく、それ自身として存在しています。 

 事物の変化発展の過程が必然性と偶然性の統一であるとすれば、このことは生物の進化にもいえます。生物の進化の歴史を、必然性と偶然性の統一として具体的にみてはじめて、無理なく深く理解することできます。




以上が、本の内容です。さて、ここから私が学んだことは、宇宙が今から一三七億年前に誕生し、太陽系すなわち地球が四六億年前に誕生し、無機質のみであったものから生物が出現してきた過程を知ることにより、宇宙も地球も生物も必然性と偶然性の統一により、進化発展してきたということです。
これからの未来も、同じような過程を経て進化発展していくでしょう。

また、遺伝子やDNAには複写ミスなどで突然変異を起こしますが、種として見るかぎりでは、その時代に適用できてそんなに大きな変化がなく進化していくだろうということも推測できます。

一方で、人類が誕生してからはたったの七〇〇万年ぐらいしかたっておりませんのでここらで質的変化を起こすとも考えられます。
弁証法的に見ますと、人類もまったく別の質のものに変化するという可能性も捨て切れません。
現在、世界は大きな変化に直面していますが、歴史におけるどのサイクルの変化であるかを見極めることはなかなか難しいものです。いろいろな可能性をさぐりながら、前向きに生きていくのがいちばんよさそうです。

生命について

2009年09月23日 | 哲学
9月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、9名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十七話 生命について」です。


所感
 前回、現代では、普遍性や客観性を執拗に追及するよりも、「心」や「社会」の問題は、他の人との関係性を重視する時代と申しました。
 
今回は、関係性について考えて見ましょう。私たちは、いろいろな社会とかかわりをもっています。それぞれの社会のとのかかわり方を明確にしておかないと、支障が出てきます。私たちが、かかわっている社会は、家族、友人、会社、社会などです。

まず、家族から見ていきましょう。家族関係の特性は「情愛」です。これは、生まれてから自己の基礎を決定づけるといってもいい関係です。
次に、友人関係の特性は、「親和」です。友人関係は、家族以外の人と人のつながりや協調性や助け合いの心や、心の機微を学ぶところです。社会では、他の人の迷惑にならないように、公共心を向上させ、自らの生活を安定させることがその特徴といえましょう。
会社との関係は、雇用関係でその特性は、「役割分担」であり、「利害」が絡みます。社会との関係の特性は「生活の安定」でしょう。
ということは、会社では、仕事に励んで利益を出さなければいけませんし、家庭では、利害をもち出しません。人間としての基礎を愛情と共に学んでいくところです。
したがいまして、家族の関係を会社に持ち込んではいけませんし、会社との関係を友人の関係に持ち込んではいけません。
それぞれの社会に応じた言動が、社会の秩序を円滑にしますね。

 




本日の学び
 今回の学びは、無機的な物質と比較して、生物の運動には弁証法的な特徴があざやかにあらわれています。いままでのべてきた弁証法にもとづいて生命の弁証法を探ってみましょう。

 生命の特徴として、開放系であると同時に閉鎖系であるということです。それはどういうことかと申しますと、どの生命個体も、つねに外界から必要な物質を取り入れ、外界へ放出するという物質の流れのなかにあって、はじめてその生命をたもつことができます。 そして個体は開放系であるとともに生体膜を境界としてもつ外界から区切られた閉じた存在でもあります。もっとも、境界の生体膜はただの膜でなく、外界に対するセンサーの機能にくわえて、ある物質は通し、ある物質は通さないという選択性をもっています。このような能動的な境界をもつ閉鎖系というのが個体の特徴です。
 ですから生体も開放系と閉鎖系の内部矛盾をその活動の基本にしているということです。




 次に、生命運動をささえる異化と同化ということがあります。どういうことかと申しますと、生物は環境との間に、物質を交換、すなわち外界からの物質の吸収と外界への物質の排出をおこなうとともに、一方、生体内ではタンパク質をアミノ酸に分解し、またアミノ酸からタンパク質を合成するなど、物質のさまざまな変化が進行しています。この物質代謝は、二種の化学反応に分かれています。一つは、アミノ酸からタンパク質を合成するように、簡単な物質から複雑な物質をつくる化学反応です。これを同化といいます。もう一つは、同化と反対の化学反応であって、タンパク質をアミノ酸に分解するように、複雑な物質を簡単な物質に変えることで、これを異化といいます。
 異化と同化は、ひとつの固体の中に並行して進行する対置した二つの化学反応であるといえます。それと、異化と同化は、互いに排斥しあっている関係ではないので、生物を特徴づける内部矛盾を構成しているとはいえません。





 次に、形態と機能について考えて見ましょう。生命個体の運動の特徴は外界に対する反応にありました。この反応性が生きることを特徴づけています。個体の機能はその個体の形態をはなれて存在することはなく、一方、機能をともなわない形態も存在しません。こうして形態と機能は、固体をして固体たらしめる不可分な二つの面です。したがって形態と生理(機能)を生物個体の内部矛盾と考えられます。
 さらに、形態と生理(機能)の関係は、形式と内容の関係に発展していきます。この関係で重要なことは、この両者が、死んだ静的な関係にあるのではなく、互いに生きいきとした相互関係をつくっていることです。内容は形式をこえて進展して形式を変えようとします。一方、形式は、第一には、内容の存在を可能にするのですが、内容が変化していく場合には、いままでの形式がそのままであるためその内容の進展のさまたげとなります。やがて形式は、しだいにときには急激に変更されて内容の一層の進展をうながします。こうして、両者は、互いに事物の運動をささえて統一しながら、否定しあうことによって、事物の運動をひきおこしていきます。




 以上が、本日の学びでしたが、日本における政権交代が歴史的といわれる所以が理解できるような気がします。政治の指導者が変わるということは、政治の形式が変わることであり、その内容もおのずと変わり、内容が変わっていけば、形式も変わっていきます。
 私たち自身も、国のあり方や生活のあり方について、形式と内容の原理を知り、自らが変化してよくしていかなければならないことを学びました。

物質の関連性と自己運動

2009年09月23日 | 哲学
8月5日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。
教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十六話 物質の関連性と自己運動」です。


 前回少し、ポストモダンの話をしましたが、現代の哲学では、「確実なものは何も存在しない」(虚無的)という懐疑論や相対主義が主流を占めていますが、こんな考え方もあります。
 それは、現象学の考え方で、「自分の中に、自分の感情の海の中に、絶対的そうだと思えることと、この先はもう何とも確信をもてないことと、そしてその中間地帯との、三つの領域の境界線がはっきりある」という考え方で、すべてがすべて不確実だということではなくて、自分の心の底において確信のもてることもあり、その中間もあるという幅の広い考え方です。


 そして「心」や「社会」の問題は、「科学」の問題とは質が異なっていて、私たちの心のうちに「了解と納得の問題」、「ああ、こうだったのか」という自己了解の問題だということです。



そして「心」や「社会」の問題は、「科学」の問題とは質が異なっていて、私たちの心のうちに「了解と納得の問題」、「ああ、こうだったのか」という自己了解の問題だということです。

 今の社会で生きていくためには、事実で表わすことができることと、事実で表せないことを区別する必要があります。後者については、他の人との関係性や相互理解・承認を重視することになります。

ただし、ひとつの事象を判断するのに自己了解、大多数の人の納得性をもってよしとしますが、そこには、ある程度高い見識(時流と成熟度に関する見解は特に重要)と、深いものの見方がないと、秩序はバラバラに崩壊しています。

 このような、柔軟な考え方をすることが、自由で複雑で多様化、流動化している社会での生き方ではないでしょうか?




今回の学びは、事物はその本来のあり方として互いに関連しあっています。この関連が事物の内部矛盾に作用して事物の変化発展の現実を与えています。こうして事物の内部矛盾は、事物の運動のみなもととなりますが、あらためてこの内部矛盾とは何かを問うてみようということです。


 事物の内部矛盾が変化発展を与えているといいましても、実際には、他の事物との関連があり、これらの事物がお互いの相互作用と無限に絡み合って存在している。
その結果、どんなものでもとどまることなく、すべてが運動し、変化し、生成し、消滅するということですね。
 たとえば、素粒子(陽子・中性子・π中間子などクォークと呼ばれているものや電子もそうでかなりの種類がある)の間には四種類の力(強い相互作用、電気力、万有引力などがあってそれぞれが固有の性質を有していて力の及ぶ範囲や、プラスとマイナスで打ち消したりとか、力の及ぶ範囲は広いが力が弱い)があるが、()内のように、素粒子間の基本的な相互作用にさえそれぞれ特徴があって、この特徴が生かされ、ミクロの世界、原子の世界、宇宙空間に多彩な現象が展開されているというのが事実でしょう。
 
 素粒子だけでなく、物質の質に応じて特有な相互作用があります。陽子と中間子などの相互の間では強い相互作用がはたらきましたが、原子と原子との間にはもはや短距離の範囲しか作用しない強い相互作用ははたらかず、そのかわり電気的な力にもとづく力がはたらいています。天体のようなマクロな巨大な物質の間には万有引力が作用しています。
 このように、この世界の物質全体の運動が一見無秩序に存在しているように見えますが、そうではなくて互いに一定の対応関係にあります。時間の存在は、この世界、自然と社会を含んだこの世界全体が、いかに相互に関連しあっているかの端的なあらわれです。




 
次に、矛盾とは?対立物とはなにか?
ですが、先ほどもありましたように、内部矛盾にもとづく自己運動は、けっして他の事物と無関係には進行していません。事物はたえず世界の普遍的な関連のもとにおかれているため、事物の内部矛盾はたえず外部からの作用を受けており、その結果、内部矛盾をみなもととする自己運動、すなわち事物の自己運動もまたたえず外部の作用を受けることになります。

 矛盾・対立物とはどのようなものであるかを十分にあきらかにすることはけっして簡単なことではありません。私たちは、外界と一致した認識、すなわち絶対的な真理性をもつ認識を確実に増やしていくことはできますが、外界をすっかり認識しつくすことはありません。

 矛盾・対立物が、とにかく異なる二つのものでつくられていることは説明するまでもありません。しかし、異なる二つのものをもってくればいつもそれが矛盾・対立物を構成するとはかぎりません。たとえば、北海道の摩周湖と関西の琵琶湖、つまり異なる二つの湖を頭のなかで並べてみても、二つの湖のそれぞれの運動にはまったくといってよいほど互いに影響を与えません。
 この場合、両者の関係は静的なものであり、互いに他を何か他のものにかえよう、すなわち互いに他を否定しようとしているわけではありません。したがいまして、対立物として両者を呼ぶのは適当ではありません。なぜならば、対立という関係は多少なりともお互いの否定をふくんでいるからです。強いて名づければ対置物です。
 そして二つが互いに否定的関係をもつときには、矛盾という名を用いることにしています。
 
 そして事物は、互いに不可分なものが排斥しあいます。前にもありましたように、石ころの慣性(そのままの運動を続けようとする性質)は石ころの運動状態をそのままつづけようとさせるのにたいしまして、地球の引力の作用によって生じる石ころの運動のもう一つの面は、石ころの運動状態を変えようとしています。すなわち、慣性のもたらす結果を否定しようとしています。その逆もいえますので、この二つの面は互いに異なるだけでなく、また不可分の関係にあるだけでなく、互いに相手の傾向を自分の傾向に置き換えようとしています。すなわち、互いに否定し、互いに排斥しようとしています。
 不可分なものが排斥しあう。考えてみると一見妙なことではありますが、このことが実在的な関係をして事物のなかに存在することによって自己運動のみなもとになっています。実際両者は、その存在のためには一方が必要でありながら、それを否定しようとしています。
 したがいまして、矛盾とは、互いに不可分の関係にありながら、排斥しあい、否定しあう二つの面、傾向のことです。


 次に自己運動としての矛盾ですが、その第一は、事物、現象およびその過程における異なった面、傾向、すなわち対立物があること。第二は、この二つが、互いに排斥しあい、否定しあう関係にあるということです。
 この関係は、たえずダイナミックに動く生き生きとしたものです。矛盾のこのような変化に応じて事物などがしだいに変化していきます。やがて矛盾の二つの面の関係が決定的に変化し、事物などが質的変化をおこないます。とともに、矛盾の新しい関係、あるいは新しい矛盾が生じます。こうして、古い事物などは消滅し、新しいものが生成する。このような質的変化は、対立物の統一と闘争の必然的な結果となります。
 弁証法は、このような変化発展、消滅と生成とを合法則的な過程であるととらえます。したがって、弁証法は事物の肯定的な理解のうちにその死滅と新しいものの生成の必然性をとらえるものです。





以上が、本の内容ですが、私たちが変化発展するための原動力となる矛盾について理解が深まり、その本質を学べたような気がします。
したがって、何事も固定した考えをもたず、そして対立し排斥しあうことが、進化発展につながる一つの大きな道だということで、人や、事象と対立することを恐れずに、それを必然的なことだと受け入れ、前向きに解決していくことが、本質であると考えました。

原子の世界の法則

2009年07月21日 | 哲学



 7月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十五話 原子の世界の法則」です。

 現代は、ポスト・モダン(近代後期)であると指摘する社会学者もあります。ひとことで言いますと「再帰性」=「不作為もまた作為なり」、「するも選択、せざるも選択」という等価性のただ中に我々が立たされてしまうのが、この時代です。
(作為=積極的な行為・動作または挙動)
 この背景には、産業革命(1760年ごろ)以来の科学技術の著しい発展や人々の市民権獲得や人権意識の高揚などの歴史的な量的変化に伴い、社会の複雑化、多様化、流動化があります。
 しないことも自分で選択していますから、結局は、することもしないことも再び自分に戻ってきて、自分できめているということで「再帰性」です。
 現代は、すべて個人が自由に判断できます。しかし、自分が自由に決めたことや実行したことは、社会を通じて自分に返ってきます。社会の質を上げたり、社会の秩序を保とうとすることもできますし、自分の好きなように自分だけのことを考えて行動することも可能です。このような、人間と社会が成熟してきた段階でいかに生きていくか、今は正に、このことを学ばなければいけません。
 昔のように、「こうあるべきだ」と、一方的に押しつける社会は希薄になってきましたが、その反面、誰もがこうあるべきといってくれなくなったときには、全て自分の言動については、自分で責任をとらなくてはならず、たいへん高い人格が要求されているといってもよいでしょう。


 今回の学びは、物質を細分し、しだいに微量にしていくと原子に到達します。原子の運動法則は前回の石ころの運動法則とはまったく質的に異なっています。
(原子の大きさは、約一億分の一センチメートル)

 まず、どこが違うかといいますと、石ころはその位置と運動方向および速さを与えることによって運動状態を確定できます。すなわち、人間が投げるなどして、飛んでいる状態の石ころはどの瞬間にあっても、定まった位置にあって、確定した速さを有しています。



 原子の中の電子は、どの瞬間においても、ある範囲の位置に同時に存在し、ある範囲の速さを同時にとっています。
 これはちょっと違うどころではありません。あまりにも異質です。このような物質の状態を量子的状態といい、これに対して、石ころなどの状態を古典的状態といいます。


 位置と速さをグラフで示すとこのようになります。
  
       
第1図)石ころなどでは、どの瞬間にあっても、粒子の位置と速さがきまった値をとっているので、各瞬間ごとにこのグラフ上の一点で示されます。
第2図)たとえば一定の速さでとんでいる石ころは、図のように横に伸びた一本の直線で示されます。
第3図)量子的状態の場合には、図のようにどの瞬間においても、粒子はある範囲の位置に同時にあって、ある範囲の速さを同時にとっています。

 第3図における特に大切な点は、速さと位置のひろがりの面積に下限があるという点です。
 もう一つ注意すべきことがあります。それはひろがりの面積が粒子の質量の増大とともに小さくなることです。その結果、電子のように小さな質量を持つ粒子の場合には、このひろがりはある大きさに達して、このため粒子の運動状態が位置と速さのグラフ上で有限なひろがりをもっていることをつねに考慮しなければなりませんが、石ころのように大きな質量をもった粒子の場合には、このひろがりが極めて小さくなって、第1図のようにただの点にちぢまってしまうとみなすことができます。これが普通見る石ころの運動であって、このように自然のなかでは、量子的状態と古典的状態とがうまくつながっています。




次に、第4図と第5図を参照して量子的状態の弁証法についてみていきましょう。

 

第4図のように、速度がある定まった値をとる状態は、位置がまったく不定です。
第5図のように、位置が定まった値をとる状態は、速度がまったく不定となります。

 これらを見ればわかりますように、位置と速度の物理量は、両方あいともなって粒子の状態をあたえながら、相互に排斥しあっています。すなわち、位置と速度は、量子的状態の矛盾を形成しています。これがまさに弁証法の原因の法則です。

 まとめますと、石ころのような大きな量を持つものが小さくなる(物質の量の減少)にしたがって、物質の量の減少がその運動法則の質的変化をもたらし、原子の世界は質的に別の量子状態になり、量子的法則が支配しているということです。

 今回の学習会で学んだことは、アインシュタインの相対性理論、すなわち、物質の速さが光の速さに近づくと、古典的な物理法則が通用せずに、時間が遅くなるのと同様に、物質の量を限りなく小さくしていくと、これまた、古典的な物理法則が通用せず、位置と速さを一点で捉えることはできず、ある範囲でしか捉えられないということです。


 ものごとが、究極に近づいていくと、それまでの法則が通用しなくなり、その過程で質的変化を生じ、違った法則で運動するということです。そして、普通の状態と極限の状態、及びその状態でそれぞれ、違った運動法則が、自然の中には同居しているということです。
 まさに、多様性、異質性が共生、共存しているのが、われわれの生きている世界なのでしょう。さらに、人間や社会には、そこに意思が加わり、理念を掲げたり、秩序立てたりすることもできますし、またその反対もできます。やはり、一番重要なことは、一人ひとりどのように生きるかを選択することで世界が変わりますので、一人ひとりが真剣に深く、広く学び、よりよい選択をし、行動していかなければいけないことではないでしょうか。


石ころの運動

2009年07月04日 | 哲学

 6月10日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十四話 石ころの運動」です。

 哲学は、ものの見方、考え方を深めたり、高めたりするのには、すばらしいと思います。
昨今、ものを考えなくても、生活できるぐらい豊かになってきましたが、人間は地球上の他の存在よりも、考えることが得意です。やはり、その特質を失っていくと人間から離れていくような気がします。

 今回の学びは、まず、物質はダイナミックに運動しています。その運動全体をよく捉えているものが弁証法です。そして更に弁証法では、物質の運動のみなもとはその物質の内的関係にあるといいます。それでは、ありふれた運動をしての石ころの運動はどのような内的関係にもとづいているのであろうか?そして更に内的関係を内部矛盾として捉えられる場合を考えてみています。

石ころの運動の本質は?

物質の普遍的な存在様式=運動

 石ころを投げたときには、放物線を描き、地上に落下します。それは、慣性(速さとその運動方向を持続しようとする性格)引力によりこのような軌跡をたどります。

(慣性は、もともと内的条件です)

 もし石ころが水のように流動性に富んだものだとすると、外から力を加えたとき、放物線を描いて石ころは運動するでしょうか? まず、石ころの形をかえてしまうでしょう。

そこで、考えて見ましょう。外から加えられた石ころにたいする作用が石ころの速さを変えるのか、または石ころの形を変えるのかをきめるのは、まったく石ころ自身の性質によるものです。


 石ころに対する地球の引力の作用は、石ころにたいする外からの条件、外的条件としてはたらきます。

 つぎに、石ころ自身の性質、石ころの属性にもとづいて、石ころ自身の運動の条件、すなわちその形を崩すのではなく、全体として落下しようとする傾向あるいはその速さを変えようとする傾向を獲得します。

 すなわち運動に関する石ころ自身の条件、内的条件を獲得します。
 (外的条件が内的条件にかわります)

 さて、以上の結果、石ころの運動には、速さを変えようとする傾向とそれまでの運動を持続しようとする傾向の二つの面があることがわかりました。

 この二つの面は、正反対にある両立し得ない二面ですね。
 この二つの内的な面は同時に存在しながら互いに対立し張り合って現実の石ころの運動を与えているということができます。

 ところで、石ころはつぎの瞬間どの方向へ飛んでいくのでしょうか?

 この新しい方向は、慣性と地球の引力によってひきおこされた石ころのもつ運動の内的条件、すなわち二つの面の間の相互関係の結果定まってきます。

 この意味で、新しい運動方向は対立した二つの面がその対立の解決としてとった結果であるといえます。

 石ころの運動は、対立しあう二つの面の闘争、解決、闘争、解決という過程の絶えざるくり返しです。


矛盾について

石ころの運動のみなもとはなにか

対立し闘争しながら統一している二つの面のことを矛盾と呼びまよう。
そして、物資の運動の内部の矛盾という意味で、内部矛盾といいます。
また、ここで矛盾と読んでいるのは、具体的な運動のなかに存在する対立する二つの面のことであって、その意味で実在的なものです。

さきほどの、対立・闘争、統一という条件をもつ内的関係のことをここでは矛盾と呼びます。


他の石ころの運動もその内部矛盾に基づいて進行しているか検証してみましょう。

静止している石ころもまた運動しています。

石ころとて決して永遠に不変なものではありません。
強い力たとえばハンマーでたたけば石ころは砕けてしまいます。また激しく熱すれば石ころは溶解状態になってしまします。

 さらに、ハンマーでたたかれなくても空気の分子はたえず石ころをたたいています。また、溶けるところまではいきませんが、石ころはたえず外から熱をうけたり、また熱を放出しています。これらの空気の分子の衝突や熱の出入りによって、石ころが石ころとしての質を失わないかぎり、石ころとしての状態を保っています。

 石ころが多量の熱をうけたり、ハンマーでたたかれてくだかれたり、溶けたりするのは、石ころの内部に石ころとしての状態を変えようとする面をもっているためです。また、空気の分子や、わずかな熱をうけただけでは、石ころはくだけたり、溶けたりはぜず、そのままの状態を保ち続けているのは、これも石ころの内部に石ころのままの状態をつづけようとする面があるからです。

 石ころは、この二つの面の相互の関係によって、石ころは石ころとしての状態を保ち、あるいは溶けたり、こわれたりする。


滞在時間ゼロでも存在するということにつきまして

 動くということにはそれ自体につきまとう問題があります。石ころはその通過する道筋の各点、各点に存在しながら運動しているのでしょうか?

 実際、各点、各点に存在したとしても、その存在しつづける時間はゼロです。滞在時間がゼロとは存在しないことです。
 石ころの運動には二面があることがわかります。すなわちひとつの場所に「存在している」という面と、その場所に「存在していない」面という二つの面があります。
 この対立した二面の相互関係が、動きという石ころの状態をもたらします。
 このように、位置の変化という運動自身、石ころの持つ矛盾の結果なのです。

 今まで述べてきましたように、さまざまの内部矛盾が同時に働いて、投げだされた石ころの運動が進行します。

 したがいまして、客観的実在の運動はさまざまの矛盾によってささえられています。多くの矛盾が同時に存在し、これらが複雑多様な運動をもたらします。



 われわれ一人ひとりの人間も、客観的実在であり、さまざまな矛盾によって存在していると思われます。特に人間には、意識と精神がありますのでもっと複雑になります。バランス感覚を磨くことが重要だと思います。個と全体、潜在意識と顕在意識、変革と停滞、悲しみと喜び、苦しみと快楽、やさしさと厳しさ、攻勢と守勢、達成と後悔、経験と勘など無数にあるといっていいと思います。
 ここで重要なことは、すべて矛盾で運動しているということです。すなわち、私自身も対立・闘争と統一の内的関係の結果、運動しているということです。
ですから、外的条件、例えば、「悲しいことがあった」、「つらいことがあった」、「しんどいことがあった」、「うまくいかなかった」などがあったとしても、どのように対処するのかは、これらの外的条件が内的条件になりそれと相対立する内的なものとの間で内的関係が新たに発生して、それが一瞬の休みもなく連続して自分の人生になっていくことかなと思いました。これで人生の生き方が、少し見えてきたような気がします。




質的変化と量的変化

2009年05月28日 | 哲学
 5月13日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、11名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十三話 水と氷 -質的変化と量的変化-」です。

 われわれは、社会をよくしよう、質を高めましょうということを理念に掲げて企業活動をしています。その時に、哲学的思考を訓練しておくということが、たいへん役に立ちます。今回の勉強会のテーマ、量質転化は、一般的ですが、奥が深く、実践的です。

以下、本の内容を紹介します。


「事物の変化はつねに量的変化あるいは質的変化であって、したがって両者の関係は事物の基本的な性格を意味する。

水と氷の間の移行



 水は液体であって、その形が自由自在に変化する。氷はかたく、その形はあまり変化しない。低い温度の氷は非常にかたい。固体としての氷と液体としての水とは、その性質が大変ちがう。水が水であるためには液体でなければならないし、氷が氷であるためには固体でなければならない。したがって、水と氷は互いに質的に異なる状態の物質であって、水が凍って氷になり、また氷がとけて水になるのは、物質の質的変化である。

 客観的実在の運動には質的変化をともなっていることが多い。
 種子が、発芽し、成長し、実を結ぶ。ここには、数多くの質的変化がくり返される。
 宇宙塵(じん)が大規模に集まって星が誕生するときにも、物質の質的変化が生じている。木を燃やすと、あとに灰が残って、炭酸ガスその他の気体を生じる。


氷に熱を加える



 氷に熱を加えるとやがてとけて水となる。ここでは摂氏零下一〇度の氷を取り上げてみよう。摂氏零下一〇度の氷を一キログラム用意して、これに熱を加える。一キログラムの水の温度を一度あげるには一キロカロリーの熱が必要であるが、氷の場合は〇・五キロカロリーでよい。氷全体にゆきわたるように熱を加えていく。氷が吸収する熱量が〇・五キロカロリーになると、氷の温度は一度上がって摂氏零下九度となる。 
 この間、氷はその温度を上昇させていくが、氷以外のものに変わるわけではない。この場合、氷はたえず熱を吸収していくため、氷自身のエネルギーが増加する。したがって、この氷の運動は、内部エネルギーの量的増大にもかかわらず氷としての質が保たれている状態変化であると考えてよい。


氷が水になるのは質的な変化である



 さて、ここでさらに氷に熱を加えると、温度は零度のままであるが、氷は次第にとけていく。氷をとかすには相当量の熱が必要である。摂氏零度の氷を一グラムとかすには八〇カロリーもの熱が必要である。摂氏零度の氷を一キログラムとかすには80キロカロリーの熱が必要となる。

* 熱はエネルギーであるといういい方することがあるが、厳密に言えばこれは正しくない。熱というなにかある実態が存在するわけではない。物質には温度の高い状態と低い状態とがあって、高い状態のほうが低い状態よりもエネルギーを多く有している。一般に熱を吸収すれば物質の内部エネルギーは、物質が静止状態にあるときに有するエネルギーであって、内部エネルギーという。

         

 このように、氷の内部のエネルギーが量的に増加して摂氏零度に達したとき、氷は質的変化をおこして水となる。しかも氷から水への変化は、直接的であって、水と氷の中間の物質をとおって進行するのではない。したがって、この質的変化は突然生じるものであり、その変化は飛躍的である。
 この一連の変化を一口にいえば、内部エネルギーの量的変化、氷から水への質的変化、さらにまた内部エネルギーの量的変化という過程である。
 この意味で、氷から水への質的変化は、内部エネルギーの量の増加の必然的な結果である。




量の変化と質の変化



 事物は、質の面と量の面との二つの面をもっている。氷は氷に特有な性質をもっているとともに、質量、体積、温度などの一定の量で存在している。実際の氷は必ず何グラムかの氷であり、またその温度は時と場合によって異なったとしても、つねにある温度をもっている。内部の圧力はいくら、内部のエネルギーはいかほどと、それぞれ一定量の物理量を有している。
 このように考えていけば、量とは、事物の一面であって、事物の質に目をつむったときに浮かびあがってくる「もの」であると考えてよいであろう。いうまでもないことであるが、実際の事物では、量はいつもある大きさの量として存在する。
 質の変化と量の変化とは、事物の変化のなかで互いに密接な関係にあるはずである。そしてあらゆる事物に質と量とがともなっている以上、質と量との間の関係は、事物の変化の基本的な法則であると考えられよう。


量的変化はつぎの質的変化を準備する
 量的変化は質の限界の前にたちどまってその進行をやめることをしないで、逆に質を生成している事物の内的関係を変え新しい質を生成して、その量的変化をさらに進行させる。
 このようにして、質的変化をおこしたあとでは、新しい質があらわれ、新しい質にともなうもろもろの量がふたたび変化していく。たとえば氷が水になって、その温度が上昇していく。また、水になると粘性が生じ、水の温度の上昇とともに、その粘性も変化していく。


まとめ (すべての事物の変化にあてはまる)
一、すべての事物は、一定の質と量とが統一されたものであり、量のない質、質のない量は存在しない。
二、事物の変化は、その事物のある特定の質にともなう量の変化からはじまる。このときの量の変化からはじまる。このときの量の変化は、事物の質を前提とし、そのうえで進行するが、その量的変化が一定のところまで進むと、事物は質的変化を余儀なくされ、こうして新しく生じた質のもとですでに存在する量はもちろんのこと、質的変化にともなう新しく生じた量の量的変化が進行する。このように、事物の量的変化は質的変化をひきおこし、質的変化は量的変化をひきおこす。
三、量的変化はゆるやかに、または一歩一歩と進む変化であり、つぎの質的変化を準備する。質的変化は急速に進む根本的な変化、すなわち飛躍であり、それは革命的である。この変化は、量的変化の蓄積なしには生じないが、両者はまったく異なる変化であって、一方を他方でおきかえることは許されない。


基本法則がありふれていること
 量質転化の法則は、たしかに一見ありふれたものである。さて、ありふれたものということは、日常私たちの経験する事物の変化のなかに普遍的に見出されるという意味である。
 事物の基本法則はありふれているのがほんとうである。
 基本的であるためには、すべての事物の変化のなかにつねに見出されるものでなければならない。


日常生活のなかで哲学的認識を得ている
 なにびとといえども、それなりに事物の変化を認識しているからこそ、日常生活を送ることができる。多くの人びとが日常生活をとおして、哲学的認識を得ていることをものがたっている。
 私たちがよく経験することであるが、まだ十分には認識していない事物を理解し、そこから実践の指針を得ようとしたとき、私たちはあれこれととまどい、迷いに迷うことが多い。進路の前に横たわる障壁はたいてい無限の高さにみえ、この障壁がなくなるという事態・事物の質的変化などはありえないように思いこんでしまう。このとき私たちは、量的変化が質的変化をもたらすことを忘れてしまっている。いかなる量的変化が、どのように内的関係を変化させ、事物を質的に変えてしまうものか思いもおよばないことが多い。


事物の質的変化を無視する考え方
生物の生きているという性質も、個々の分子や原子の物理的変化、化学反応のたんなる集まりであって、それ以外のものではないという見方である。
個々の原子の運動は原子の運動方程式という数字上の式であらわすことができる。したがって、結局、すべての事物・現象の変化を質的変化ではなく量的変化として理解し、その量的変化を数式であたえることができれば、それで生物、すなわち生きているということをすっかり認識したことになるという立場になる。
 しかしながら、事物・現象の変化発展の量的変化の側面、とくに質の変化に関連する量的変化をくわしく研究するということと、質を質として認識するということとは別のことである。生きているという質を、物理的変化・化学反応の莫大な量に還元してしまうわけにはいかない。


事物の量的変化を無視する考え方
 量的変化の蓄積が質的変化をもたらすことを見ないで、ただ質的変化のみを認めるとすれば、事物の変化は、なんの準備もなく、つねに突然変異で生じるものであるという見方になってしまう。この意味で質的変化は合法則的変化でなくなってしまう。このような世界観にもとづく実践では、事物の変化発展法則に沿った道筋がまったく無視されてしまう。その結果、残るのはただ事物、社会の変化をもとめる情念のみとなる。客観的実在の持つ法則性の認識のかわりに主観的な情念が事物を変えようとする。
 
 量質転化の法則は、事物、社会を変化させ発展させるときの認識の基本としても大切なものである。」

ここから学べることは、物質であろうが、人であろうが、社会であろうが、その変化・発展には、法則性があり、ゆるやかで絶え間のない量的変化を与え続けることで、質的変化が急激に起こり、飛躍して質が変わっていくということです。
 たとえば、英語が嫌いでも、毎日、少しずつ努力を重ねれば、あるとき一挙に、いままでわからなかったものが、全てがつながり急に何でもわかるようになった経験が私にもあります。世界史にしてもしかりです。世界の4大文明から始まって、地中海沿岸、中国史、インド史、アジア、ヨーロッパ、中央アジア、アメリカ、アフリカ、南アメリカ、北欧、そして日本史など、個別にみているだけでは、世界はつながりませんが、あるとき世界の歴史がたて、よこにつながると一挙に理解できるようになります。まさに、質的変化が起こっているのですね。
 仕事もしかりです。「石の上にも3年」といいますが、まさに、最初は、なかなか覚えられない、興味がわかない、納得できるところまでいかない、人から評価されないということがありますが、量質転化の法則を知っている人は、地道に努力し続ければいずれ、質的変化が起こり、世の役に立ち、自分も向上していくことがわかっているので、努力し続けられます。でも、このような基本的な法則を知らないと、少しつらいとか、しんどいとか、遊びの誘惑に駆られて、努力したって所詮、無理なんだ、報われないと考えてしまい、あきらめてしまいます。
 私は、いろいろな人生があっていいと思いますが、本来人間は、精神の能動性、意識の先行性をもっていますので、その本質にしたがって生きることが重要だと思います。
 そして人間の場合は、社会性ということは意識しなくてはなりません。社会性を無視すれば、一人ひとりの基本的人権も破壊されてしまいます。一人ひとりが集団の中の自分というものを意識しなければならないと思っています。現代社会の問題は、ここにつきると考えています。
 このようにして、問題意識から、各個人の生き方が決まり、進化・発展の火種となり、軸ができ継続性のあるものとなり、次の世代につなげていくことができます。
 ただし、問題意識が理念的でなければ、その場限りになり、継続性は保障されません。
 ということで、この哲学学習会は、今の大人を通じて、今の子どもたちに、世界(宇宙)のおける普遍性を伝えていくことこそが、われわれの使命だと感じています。
 本日も、学びの多い勉強会でした。

弁証法とは

2009年04月14日 | 哲学
 4月8日(水)〔お釈迦様の誕生日とされています〕哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、10名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十二話 弁証法とは」です。

 哲学は、世界を見るときのものの考え方、見方を深く示唆してくれます。物事の本質をみることができないと、特に人間はそのときの心に左右されやすい弱い存在ですので、悩まなくていいところで悩んだり、問題をしっかりと把握しなければいけないところ把握できなかったりと不安定な人生を送ります。人間は生涯を通じて、学びながらも、ふらつくというのが本来性かもしれませんが。

 哲学は、紀元前のその昔から、普遍性を求めて思考を繰り返されてきましたが、思考の弁証的発展とその時代の社会(質とありよう)から大きな影響を受けているのは、否めません。
 従って現代では、普遍性より、その個別性、多様性が重視され、哲学が軽視(現代の構造主義のように、哲学〔ひとつの見方、考え方〕では世界が語れない)されていますが、その深く考える思考法や過去の偉大な哲人(お釈迦様もその一人です)が、何をどのように考えたのか、非常に興味深いところであり、学びがいのあるものです。いや、現代のように秩序が乱れ、つぎの世界が見えないときこそ、哲学的思考は必要ではないでしょうか?



「弁証法とは」

物質こそ 世界の第一次的な本源的存在物 ⇒ 唯物論
 ↓
意識・精神は人の脳髄(物質)の働きが生んだものです

自然のなかで発生した生物は進化して人間を生み、人間は社会を形成してやがて精神を得ます → あくまで精神も物質から進化したものです

物質の運動の特徴を弁証法的といっています

私たちの思考自体もまた物質の運動と同じ特徴を持っています
弁証法的:生きいきとダイナミックに運動している物質の変化発展

弁証法的唯物論
→ 本源的な存在である全物質がたえず弁証法的に運動しているとする見方

ここまでをまとめてみますと

物 質       と             意 識   の関連性
↓                       ↓
物質を原子・分子の集まりだとすると      意識は物質の発展過程から生まれたが、
力学が成立する(こうすれば、こうなる)    独自の働きをもつ





それが、(この二つの要素が物質や他の生物と比して、人間の本質(特徴)を示している)

  精神の能動性 
    と
  意識の先行性
    ↓
世界の未来を変えることができる(石やライオンは世界を変えることができない)

となります。


 世界の事物はすべて原子・分子の運動によって事物の状態は完全に決まってしまうというような、18世紀の機械的唯物論(当時発達しつつあった力学によれば、原子・分子の運動は、ある瞬間の運動状態をあたえることによって、それ以後の運動状態がすべて完全にきまってしまう)では、もはや世界を変革する努力は無意味となり、世界に対して観照的な態度をとることももっともだということになりかねません。
 そうではなくて、意識は物質から発展してきましたが、独自の働きを持つので社会や人間は、計算どおりいかないし、その反対に努力次第で世界は、思いの方向へ向かうことも否定できないということです。

 われわれが欲するのは、哲学をすることによって物質の運動の発展の方向を予測することです。物質の運動のみなもとはなにか、またどのようにして物質が発展していくのか、これらの点を具体的に認識してはじめて、われわれは、客観的実在の運動を深く認識するとともに、その発展の方向性を予測することができます。
 現在では、自然と社会の運動および意識についてひろく研究がすすんでいて、物質の運動に関するいくつかの重要な認識が得られています。
 それは、いっさいの現象の運動・発展のみなもとはその現象の内にあります。この意味で運動は本質的に自己運動であります。現象を現象たらしめながら互いに対立しあっているいろいろなものが存在しています。これらの内的関係が現象の変化発展のみなもとになっています。

 ということは、

世界の中の現象のみなもとは、その世界の中にあり、
国の中の現象のみなもとは、その国の中にあり、
会社の中の現象のみなもとは、その会社の中にあり、
家族の中の現象のみなもとは、その家族の中にあり、
個人の中の現象のみなもとは、その個人の中にある。

ということです。

 たとえば、今、サブプライム関連で不景気だと仮定してとして、経営がうまくいっていないのだったら、外部に要因があるのではなく、経営すなわち会社の中に、その要因があると考えます。会社自体が、社会の情勢や動向にあっていないので、あうように変革するしかありません。(これが弁証的唯物論の考え方です)
 先ほども申しましたように、世界中の人々が、精神の能動性と意識の先行性を有しており、それをダイナミックに実行しているということ自体が、自然なのです。われわれも、やみくもに行動するのではなく、理念を掲げダイナミックに行動すべきときだと思います。



◆参考まで

弁証法の3つの法則(当時はこれで世界のすべてが語れるという偉大な発見でした)
第1法則 原因の法則
     対立物の統一と闘争(矛盾は発展の基礎)
第2法則 変化の法則
     量的変化と質的変化
第3法則 進化発展の法則
     否定の否定の法則(アウフヘーベン)


唯物論と観念論
第一義的第二義的
唯物的もの、存在 を認める意識、精神、心 でその本質を認識する
観念的意識、精神、心 が世界をつくるもの、存在 そして事物をして定義する

物質の本質は何なのか

2009年03月16日 | 哲学
 先日(3月11日(水))、わが社で哲学学習会を開催しました。参加人数は、社外の方を合わせて12名でした。
 テキストは、「自然の哲学」(上、下)田中 一著 を使用しています。
 この日は、第十一話 質の生成と物質の運動 を読み合わせて、ものの見方を深めました。

 さて、今回は哲学シリーズ第二段です。

外界の特徴は、たえず質的に新しいものが生成して消滅していることです。質の生成とは、単に物事が変化しているのではなく、熱を与えると氷(固体)が水(液体)に、水(液体)が水蒸気(気体)に変化するように、連続した軽微な変化ではなく、比較的大きな質自体が変わるような変化のことをいいます。

私たちのまわりにある物質は、すべて原子や分子でできていて、たえず変化し、分解し、生成しています。

次の図で示しますように、宇宙の成り立ちを考えますと、約137億年前、ビッグバンによって宇宙が誕生し、45億年前ぐらいに太陽系すなわち、地球が誕生し、37億年前ぐらいに地球上に生命が誕生して、それが進化して現在にいたっています。

宇宙誕生時には、数個の原子しかなかったものが、熱などのエネルギーによって無機質が誕生し、そこから有機化合物ができ、単細胞、植物、動物などの生物ができ、ついには520万年前に人類が誕生しました。現時点における自然の最高の発展が、前回お話しました精神の能動性と意識の先行性をもった人間です。





 物質の究極の姿が、人間で、物質の本質とは、運動であり、たえず運動することによって必然的に変化することです。
 言い換えますと、人間は、物質の運動とその必然性から生まれてきたのだという見解を唯物論ではとります。





そして、人間は自然を意図的に変えられますし、つくり出せる唯一の生き物です。自然では、生成できないものを化学的につくることができます。
 ですから、われわれ人類は、その性質から世の中をよくすることも、悪くすることもできます。

 今は、民主主義と自由の名のもとに市場の秩序にしたがって、行動していますが、世界もそうですが、日本でも特に秩序が破壊されているような気がします。
 自由と金とものがあれば、人間は怠惰になり堕落しますし、その象徴ともいえるお金を求めて好き勝手に生きるようになります。

 




 日本では、戦前は儒教思想などにより、社会の秩序を保つものがありました。





 世界の歴史をみましても、なぜキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教などの宗教ができ、道徳のように道を説き、儒教などのように徳を説かなければならなかったのか、さらに昔からなぜ法律があったのかをいうことを考えますと、まさに秩序維持のためではないかと私は、気づきました。

 



 本来は、人間自らのもつ良心で善悪の判断をすることが望ましいわけですが、世界の歴史が示しますように、人間には欲望や感情がありますので秩序をなかなか維持できません。
 そこでこのような決まりごとをつくって、人類の幸せを目指して世界を秩序あるものしようとしてきたとも考えられます。


 先の調査(2006.7.28公表 英 レスター大学 ドリアン・ホワイト氏 「幸福度マップ」)で、世界一幸福度の高い国は、デンマークでした。

さて、ここで問題です。
問:日本の幸福度は、いったい世界で何位でしょうか?





 先ほども申しましたとおり、今は秩序が乱れていると思いますが、そこで、世の中の流れも少し変わってきているのではないかと思われます。
 それは、自由放任から統制社会へということです。
 1930年代の世界恐慌のときにアメリカのルーズベルト大統領がとった政策です。
 市場の自由に任せていて、今回のようなサブプライムローンのような金融債券化で世界中が混乱しました。そこで政治や行政で少し統制しようとする動きです。
 アダム・スミスやフリードマンの自由主義、新自由主義(小さな政府)からケインズの政府がコントロールする(大きな政府)への動きです。
 これで、これからの世界の舵取りがうまくいくとは、思いませんがものごとは、波を打って変化していくことも確かです。





 最後になりますが、われわれが、この日本を住みやすくするためには、価値観を変えていく必要があると思います。
 今の日本の価値観では、スポーツ選手や芸能人や、少し前では巨額なお金を短期間で稼ぐ、ホリエモンこと堀江貴文氏や村上世彰氏など、お金やもの、かっこよさに価値観や憧れがあるようですが、私は、これからの日本の未来を考えるとフィンランドのように国全体が自然との調和を図りながら教育に関心を持って、子供を本当に大切にし(甘やかすのとは正反対)、努力することや、仕事すること、知性や教育に価値観をもつようになればよいなぁと思っています。


 前回のブログの答えですが、ピサの斜塔から大小2つの鉄球を同時に落としたらどちらが先に着地するでしょうかという問いでしたが、(3.同時に着地)が正解ということにしておきます。
 その理由は、重力磁場の中では違う物質であっても同じように運動するということです。
たとえば、川の流れの速さ(重力磁場)が一定だとしますと、動力のない重さの違う鉄の船も、木の船もその重さに関係なく、川の流れの速さによってそれぞれの船の速度は左右させますね。川の流れの速さが一緒であれば、同じ速さで流されていきますね。これと同じ原理です。

 でも違うかもしれませんので、調べてみてくださいね。

真理とは何か

2009年03月03日 | 哲学
 先日(2月25日(水))、わが社で哲学学習会を開催しました。参加人数は、社外の方を合わせて10名でした。
 テキストは、「自然の哲学」(上、下)田中 一著 を使用しています。
 この日は、第十話 真理とは何か を読み合わせて、ものの見方を深めました。

 この本は、唯物論と弁証法についての入門書です。
 唯物論から見た世界の見方を学ぶことは、われわれの生きている世界を先にものが実在することを認めたうえで、それが何であるかを精神でもって理解するということです。
 すなわち、自然や社会を観察し、その本質は何かについて思いを巡らせるというものです。

 さて、唯物論の立場からすると、真理とは、客観的実在と合致する観念ということになります。



 自然や社会などの外界を客観的実在といいますが、人間は誰しも同じように認識できるわけではありません。
 しかし、客観的実在には、特徴があるとされており、その一つひとつが、固有の運動法則に従って運動していて相互に関連しあっているということです。
 ということは、その固有の運動法則と相互の関連性を誰もが、等しく認識できればそれが、真理となるわけですが、それが簡単にはいきません。

 なぜ簡単に、真理に到達しないかというと、一つには、私たちは、自分の経験や自分の感覚だけでものを見てしまっていることが多いことと、今ひとつは、自然もそうですが、特に社会は激しくしかも瞬時に変化しているからです。



 言いかえれば、意識と外界はダイナミック関係をもっていて、相互に影響しあっているということです。
 つまり、人間には特別な生命活動、すなわち、精神の能動性(じっとしていられない)と意識の先行性(先のことを意識で予測できるのは人間だけ)があり、これが、強く外界(自然や社会)に働きかけることによって、外界がさらに変化し、変化した外界が、人間の意識に強く反映されるということです。

 そこでなにが読み取れるかといいますと、この世界における人間は、認識の無限の可能性を前提とし、今日における物質的自然や社会の発展を保障する役割を担っていると結論づけています。



 真理とはあくまで観念であるので変わる可能性があるといっています。
 真理について少し付け加えますと、真理は、必ずしも、絶対ではありません。

 それをこの本では、真理の相対性と絶対性という言葉を用いて説明しています。

真理の相対性とは、私たちの獲得する真理は、つねに部分的な限界のある真理であり、
真理の絶対性とは、その部分に関する限りは客観的で正しいという意味で絶対的である。
と説明しています。
例:(ニュートンの運動法則などは、物質の速度が光速に比べて遅い場合は、成り立ちますが、その速度が光速に近づくと時間が遅くなり、アインシュタインの相対性理論を用いなければこのことは、説明できません)





 この話で、やはり自分の脳を鍛えておかなければならないことを痛感した次第です。

 さて、質問です。
イタリアのピサの斜塔から、大小二つの鉄球を、同時に落としました。
さて、大きいほうか、小さいほうか、どちらが先に地面についたでしょうか?
1.大きいほう 2.小さいほう 3.同時に着地
さて、その理由は? 

正解されても、景品は出ませんが、頭のリフレッシュをしてみましょう。