交通会館から(東京都千代田区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「自分の感情には責任を持ちなさい」。
こういうような言葉、どこかで聞いたことはないでしょうか。
「感情に責任を」というのは、「責任を持つ」という部分がいかにも素晴らしく聞こえてしまうがゆえに、
「ああ、感情には責任を持たなきゃいけないのかな」という気持ちになりやすいもの。
しかし、「感情に責任を持つ」というのが具体的にどういうことなのか、
説明できたりお分かりになる方がいらっしゃるか、私ははなはだ疑問でしかたありません。
なぜなら、「私はいつも、自分の感情には責任を持っています」という人はなかなか見かけないものですし、
もし自分でそう言っているにしても、本当にできているのかは線引きがとても難しいからです。
さて。
「自分の感情に責任を持つ」というのは、簡単に言うと「感情が引き起こした行動に責任を取る」ということです。
たとえば、誰かに腹を立ててひどいことを言った。
言われた相手は当然、嫌な気分にもなるし、傷つくこともあるでしょう。
そこで、「責任を取る」というのは、つまりは「傷が癒えたり、気分を元に戻してあげる」ということになりますよね。
このように、感情が暴走してなにかをしでかしたとしても、なかったことのように戻すこと、
これが「感情に責任を取る」ということが、お分かりいただけたでしょうか。
しかし、問題は「責任を取る」ということの線引きが難しいこと。
先の「気分」の例なら簡単ですが、
「どれくらい傷ついたか」
「どこまで迷惑をかけたか」
こういったことは、なかなかわかるものではありませんよね。
ゆえに、「責任を取りなさいよ」と言われると怖がる人がいたり、出来ているか不安になる人がいるのも、
本当は当たり前の話。
「自分は感情に責任を取れているだろうか」と疑心暗鬼になるのは、誰でも同じなのです。
そしてまた、責任はできる範囲で取りにいく、これが重要です。
どこまで行っても感情に責任を取れたかわからないなら、できるだけはやる。
だいたい、できないものはできないのですから、
そこで開き直るのではなく、誠実にやれることをやる態度こそが肝要です。
「自分の感情に責任を持つことが出来ない」という人は、そもそも人と関わるべきではありません。
しかし、ゴールがわからない以上、できるだけ誠実にすればそれで十分であることもまた、真実ではないかと思うのです。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「自分の感情には責任を持ちなさい」。
こういうような言葉、どこかで聞いたことはないでしょうか。
「感情に責任を」というのは、「責任を持つ」という部分がいかにも素晴らしく聞こえてしまうがゆえに、
「ああ、感情には責任を持たなきゃいけないのかな」という気持ちになりやすいもの。
しかし、「感情に責任を持つ」というのが具体的にどういうことなのか、
説明できたりお分かりになる方がいらっしゃるか、私ははなはだ疑問でしかたありません。
なぜなら、「私はいつも、自分の感情には責任を持っています」という人はなかなか見かけないものですし、
もし自分でそう言っているにしても、本当にできているのかは線引きがとても難しいからです。
さて。
「自分の感情に責任を持つ」というのは、簡単に言うと「感情が引き起こした行動に責任を取る」ということです。
たとえば、誰かに腹を立ててひどいことを言った。
言われた相手は当然、嫌な気分にもなるし、傷つくこともあるでしょう。
そこで、「責任を取る」というのは、つまりは「傷が癒えたり、気分を元に戻してあげる」ということになりますよね。
このように、感情が暴走してなにかをしでかしたとしても、なかったことのように戻すこと、
これが「感情に責任を取る」ということが、お分かりいただけたでしょうか。
しかし、問題は「責任を取る」ということの線引きが難しいこと。
先の「気分」の例なら簡単ですが、
「どれくらい傷ついたか」
「どこまで迷惑をかけたか」
こういったことは、なかなかわかるものではありませんよね。
ゆえに、「責任を取りなさいよ」と言われると怖がる人がいたり、出来ているか不安になる人がいるのも、
本当は当たり前の話。
「自分は感情に責任を取れているだろうか」と疑心暗鬼になるのは、誰でも同じなのです。
そしてまた、責任はできる範囲で取りにいく、これが重要です。
どこまで行っても感情に責任を取れたかわからないなら、できるだけはやる。
だいたい、できないものはできないのですから、
そこで開き直るのではなく、誠実にやれることをやる態度こそが肝要です。
「自分の感情に責任を持つことが出来ない」という人は、そもそも人と関わるべきではありません。
しかし、ゴールがわからない以上、できるだけ誠実にすればそれで十分であることもまた、真実ではないかと思うのです。