道端鈴成

エッセイと書評など

党派的レッテル貼りと悪魔の回路

2005年03月23日 | 人権擁護法案
 小倉氏のサイトについてのコメントをいただきました。小倉氏のサイトとコメント欄などでのやりとり(http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/d/20050321)を通読すると、人権擁護法案が成立したときに、なにが生ずるかを実験的に示しているようで、興味深く、また恐ろしかったです。
 ひとつは、人権擁護法案への批判的議論をする人にたいして、本音では差別を容認しているのだろう、さらには、差別主義者だろうなどのレッテルが貼られようとしていることです。小倉氏のサイトでの批判的意見をみていますと、理性的に具体的な問題点を指摘している人がほとんどですし、IT弁護士で大学の講師でもある小倉氏にも特定の団体や集団などの強いバイアスはないと思います。こういう状態でも生ずる、差別に与しているだろうという党派的レッテル貼りを見ていると、もっと、特定の団体や集団などの強いバイアスがある状態では、また法律のお墨付きをえての家宅捜査や差別者としての公表が可能になったときには、なにが生ずるだろうと、憂慮せざるをえなくなります。
 しかも、小倉氏は、ある国会議員に対して、ネットのデマを信じて法案に反対しているときめつけていますが、根拠を問われると、ごまかして答えません。人間は思いこみや誤りをさけられません。ですから、根拠なしに憶測で言ってしまったとすなおに認めれば良いのです。しかし、誤りを認めようとはしません。人権擁護法のもとでの差別者としての認定についても、現在の法案では、有効な抗弁の手続きや、認定の誤りに対する救済措置が用意されていませんし、一旦はられた差別者としてのレッテルを事実の提示や議論でそれを覆そうと試みても、長期の裁判などの一般人の人生にとっては耐えられないほどの大きな犠牲を払わない限り、ほぼ不可能でしょう。人権擁護法案では、人権委員会が誤りを犯した場合を想定していないからです。人権擁護法における委員は無謬の天使とでも想定しているのでしょうか。まるで人治主義の時代にもどってしまったようです。
 人間には、我々と彼らという、党派の論理が備わっています。学級集団に心理テストをして、二つのグループに分けた実験があります。実際は、実験者が学級をランダムの二群に分けただけです。しかし、このラベルは、強烈な効果をもたらしました。子供達は、自分が属さない集団とその成員に対し、否定的な態度と低い評価を持つようになります。こうしたレッテル貼りが、差別の基盤で、小倉氏のサイトでも見られたものです。レッテル貼りにたいして無謬であるとの信念があったり、それにたいする自由な批判的言論が抑圧されると、レッテル貼りは固定化してしまいます。
 我々と彼らという、党派の論理の基礎になるのは、負×負=正という単純な感情論理です。これは、ハイダーという心理学者が最初に定式化し、現在では、社会心理学や集団力学、社会学での展開がなされています。この単純な、感情論理は、集団においては、敵の敵は見方、共通の敵を通じての団結といった党派の論理の基礎ですし、個人の内部では、負と見なす対象にたいして負の態度や行動をとることによる正の実現といったことになります。負と見なす対象(彼ら:理想の敵や妨害者、愛するものの敵、等々)への負の態度や行動(侮蔑、攻撃、懲罰、虐殺、等々)は、端から見ると、負の態度や行動が見えますが、本人の意識には、負と見なす対象に対する負の態度や行動(負×負)を通じて、理想や愛するもの、仲間への連帯のあかしといった、正の価値が焦点的に意識されます。「地獄への道は善意でしきつめられている。」という言葉がありますが、善意のタイルの意識される表は正ですが、その裏側は負×負なのです。負×負=正という単純な感情論理は、人間にそなわった、社会的動物としての基本回路です。しかし多くの悲惨を人類にもたらした悪魔の回路でもあります。
 「フェデラリスト」では、人間の党派性の害悪を指摘したあと、党派性を除くことはできず、その悪影響をさけるしくみが必用であると述べられています。憲法案の起草ということでより広い政治状況での議論ですが、基本となる考えは次のようになります。「人間が天使でもないかぎり、権力は必用とされる。しかし、権力は、まさにその人間が行使するゆえに、濫用の危険性、自由を侵害する危険性を常に伴う。それゆえ、権力は空間的に分割され、また機能的にも分割され、さらに相互に制約するように構築されなければならない。」これは、無垢の正しい源泉を保証すれば正しさが保証されるという正当化主義のアプローチではなく、誤りや党派性の悪影響をさけ、除去できる仕組みを良しとするもので、言論の自由と併せて自由社会の基礎となる考えです。人権擁護法案は、その法的不安定性にもかかわらず、誤りや党派性の悪影響をさけ、誤りを除去できる仕組みを実効的に備えておらず、言論の自由への配慮が示されていません。「人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもの」などという点に、正当な運用の担保を見いだすなど、自由社会の基礎となる考えに逆行する方向ではないかと危惧されます。
 人間の党派性や誤りやすさやの認識は、モラリストの領域のテーマです。アメリカの建国の父達には、モラリストの洞察が引き継がれていたのだと思います。西尾氏の人権擁護法案への批判には、やはり氏の卓抜したモラリストとしての教養と洞察があり、耳を傾けるできだろうと思います。
 負×負=正の感情論理で、すこしふれましたが、人間の党派性や誤りやすさやの認識については、進化心理学や社会心理学、認知科学などでの科学的研究がすすみつつあります。私の考えでは、これは方向としては人間性に関するモラリストの洞察を科学的に探求し、ピンカーが、Blank Slateで標準社会科学における人間観を批判しているように、20世紀の社会科学の標準的人間観の誤りを実証する方向だろうと思います。この辺の問題については、また時間がありましたら、もうこし具体的に書きたいと思います。

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