本日も、昔日の記事をヘボ翻訳して、少しだけ中国語のお勉強とすることにした。
Peter、30歳の誕生日を迎えての記事のあれこれ。
新浪網 何潤東公開私人影像 親自撰文写成長歴程(組図)
2005年11月11日
何潤東が自分の写真を公開 自ら成長の過程の文章を書く(組図)
3歳、“小強”と泥遊び
父と母から聞いたところ、わたしはその頃奇妙な癖があったそうだ―――“小強”(ゴキブリ)と泥遊びをするのが好きで、そのため、姉二人はいつも脅されて泣いていた。3歳の記憶は、家族が、わたしが家の中で余分な子どもだと、いつもわたしに冗談を言っていたことだけだ。そうして、わたしが泣けば、わたしを飲み込んでお腹の中へ戻すと言って、母が脅すのだ。これはやはり効き目があり、わたしはすぐに泣き止むのだ。
7歳“勢力を傘にきて人をいじめる”
母がわたしを可愛がってくれることを頼りに、わたしはいつも、姉たちのことを、あることないこと母に訴えた。顔色を見て、どんなおもちゃが欲しいか母に話せばいいかわかっている。父には話せない。父は、そのころ、わたしの心の中では“暗黒魔王”の役と同じようなもので、母は“天使”ということになっていた。
13歳でカナダへ留学する
わたしは小さな頃から英語を学んでいたから、言語は問題ではなかった。その頃、カナダとアメリカを一緒だと思い込み、神秘的で希望に満ちあふれたところだと考えていた。その印象は全てハリウッドの映画からきていた。トム・クルーズの主演映画《トップガン》(?)を観て、ハリウッドに驚異と憧れを抱いていたのだ。13歳でわたしはカナダへ行った。
15歳で漫画に夢中になる
カナダに来て二年、わたしは偏屈なヤツになっていた。カナダでは友だちがおらず、今だって、カナダへ戻っても、電話番号を知っている友達は一人もいない。まったく違う世界とにぎやかな社会に来て、その中に潜むマイナス面を見て、わたしは溶け込むすべをもたなかった。アルバイトを開始、台湾へ戻って友だちに会う金を作ろうと思った。閉じこもりがちで気がふさぐ日々の中で、わたしは漫画に夢中になっていった。これは少なくともわたしに安心を与えてくれる一つの方法であった。
17歳でスキーを好きになった
父と友だちがスキー場を開いて、すっかりこのスポーツが好きになった。毎年、休みのいちばんの楽しみは、そこへ行ってスキーをすることだった。また、スキー教師の免許をとる試験も受けた。2004年、四川で《風雲2》を撮ったときにスキーをする習慣を取り戻したよ。
21歳で台湾へ戻り仕事を始めた
その一年台湾へ戻った。あるレコード会社と契約して、歌唱訓練をした。でも、ずいぶん長く待っても発売のチャンスがなかった。他の仕事を探してみるしかなくて、父の会社でアルバイトをした。建築工事現場で工事監督をしたり、また、モデルをしたりした。しかし、そのころモデルの活躍する環境はそんなにいいものではなかったので、待遇は悪く、一年やったくらいだ。
23歳で正式に芸能界へ入った
わたしは芸能界へ正式に入り、人生初めての広告《黒松沙士》を撮った。そうして、初めてのシングル曲《想你的愛》を発売した。内気な性格のため、自分の気持ちを調整することもわからず、どのように芸能人をやるのかもわからず、だから、その頃はすごく苦痛だった。幸い、その年、イー・トンシン監督に気に入られて、範文芳と共演した映画《真心話》、それによって芝居をすることが始まった。完全に演じることはできず、芝居はとても下手だったが、結局は、第一歩を踏み出したのだ。
25歳でマネジメントをしてくれる辛志諭に出会う
2000年になった。これはわたしが最もうまくいってないときだ。方向転換を考え、父の会社を継ごうかとも思った。家族もわたしも、わたしがあまりに人を信じやすく、商業の理念もたいしたものではないと感じて、この考えは捨て去った。一度香港へイベントへ行ったとき、今のマネジメントをしてくれる辛志諭に出会った。初対面で意気投合し、彼と契約した。そのとき仕事は無かったが、収穫はすごく大きかった。わたしに芸能界での生き様を理解させてくれ、それからわたしの人生は変わったのだ。
Peterが、このあとの履歴を、どう書くのか、その文章を見てみたいような気もする…。
新浪網 2005何潤東三十而立生日會誠邀各地fans來相聚
2005年09月05日
新浪網 組図:何潤東三十而立全都“露”感言沒歸屬地
2005年09月11日
このとき彼の愛するカナダ居住のおばあさんが重病だったので、Peterが涙をこぼすという場面もあったらしい。
また、後援会のみんなからお祝いしてもらい、歌を捧げられ、再び涙したそうだ。
これらは真実だろうけど、このとき、300名ものファンが集まったというのは、マユツバじゃないかな…。(笑)
22日(日)午後9時半からNHK総合で放送された《NHKスペシャル チャイナ・パワー①“映画革命”の衝撃》は面白かった~。
何しろ出て来る監督や俳優が超一流、うちにいてこれだけのメンバーをテレビ画面で観られるとは思いもしなかった。
ファン・ビンビンは美しいし、チャン・ツィイーが映画製作を始めたことにも言及していたし、黄暁明もビビアン・スーも出てきた。
それから、Peterの恩師であるイー・トンシン監督も!!
Peterが観たという映画《新宿事件》のことについて話していた。
次から次に登場する有名監督に、一流俳優たち、それから、以前訪れたことがある上海郊外の撮影スタジオも出てきた。
「わあ、わあ、ピーター・チャン、チャン・イーモウ、リン・チーリン!!おお、ジャッキー、チョウ・ユンファ!!」と一人で唸っていた。
……Peterは出てこないけどね。
番組中で中国の映画製作の裏側も見せてもらい、生き馬の目を抜くような中国映画界でPeterも生きているんだなあと思うと、心から「Peter、加油!加油!」とエールを送りたくなった。
13億のマーケットだもんね。
この中国映画界でPeterが成功できますように。
俳優としてでも、
監督としてでも、
どうか成功できますように。
Peter、30歳の誕生日を迎えての記事のあれこれ。
新浪網 何潤東公開私人影像 親自撰文写成長歴程(組図)
2005年11月11日
何潤東が自分の写真を公開 自ら成長の過程の文章を書く(組図)
3歳、“小強”と泥遊び
父と母から聞いたところ、わたしはその頃奇妙な癖があったそうだ―――“小強”(ゴキブリ)と泥遊びをするのが好きで、そのため、姉二人はいつも脅されて泣いていた。3歳の記憶は、家族が、わたしが家の中で余分な子どもだと、いつもわたしに冗談を言っていたことだけだ。そうして、わたしが泣けば、わたしを飲み込んでお腹の中へ戻すと言って、母が脅すのだ。これはやはり効き目があり、わたしはすぐに泣き止むのだ。
7歳“勢力を傘にきて人をいじめる”
母がわたしを可愛がってくれることを頼りに、わたしはいつも、姉たちのことを、あることないこと母に訴えた。顔色を見て、どんなおもちゃが欲しいか母に話せばいいかわかっている。父には話せない。父は、そのころ、わたしの心の中では“暗黒魔王”の役と同じようなもので、母は“天使”ということになっていた。
13歳でカナダへ留学する
わたしは小さな頃から英語を学んでいたから、言語は問題ではなかった。その頃、カナダとアメリカを一緒だと思い込み、神秘的で希望に満ちあふれたところだと考えていた。その印象は全てハリウッドの映画からきていた。トム・クルーズの主演映画《トップガン》(?)を観て、ハリウッドに驚異と憧れを抱いていたのだ。13歳でわたしはカナダへ行った。
15歳で漫画に夢中になる
カナダに来て二年、わたしは偏屈なヤツになっていた。カナダでは友だちがおらず、今だって、カナダへ戻っても、電話番号を知っている友達は一人もいない。まったく違う世界とにぎやかな社会に来て、その中に潜むマイナス面を見て、わたしは溶け込むすべをもたなかった。アルバイトを開始、台湾へ戻って友だちに会う金を作ろうと思った。閉じこもりがちで気がふさぐ日々の中で、わたしは漫画に夢中になっていった。これは少なくともわたしに安心を与えてくれる一つの方法であった。
17歳でスキーを好きになった
父と友だちがスキー場を開いて、すっかりこのスポーツが好きになった。毎年、休みのいちばんの楽しみは、そこへ行ってスキーをすることだった。また、スキー教師の免許をとる試験も受けた。2004年、四川で《風雲2》を撮ったときにスキーをする習慣を取り戻したよ。
21歳で台湾へ戻り仕事を始めた
その一年台湾へ戻った。あるレコード会社と契約して、歌唱訓練をした。でも、ずいぶん長く待っても発売のチャンスがなかった。他の仕事を探してみるしかなくて、父の会社でアルバイトをした。建築工事現場で工事監督をしたり、また、モデルをしたりした。しかし、そのころモデルの活躍する環境はそんなにいいものではなかったので、待遇は悪く、一年やったくらいだ。
23歳で正式に芸能界へ入った
わたしは芸能界へ正式に入り、人生初めての広告《黒松沙士》を撮った。そうして、初めてのシングル曲《想你的愛》を発売した。内気な性格のため、自分の気持ちを調整することもわからず、どのように芸能人をやるのかもわからず、だから、その頃はすごく苦痛だった。幸い、その年、イー・トンシン監督に気に入られて、範文芳と共演した映画《真心話》、それによって芝居をすることが始まった。完全に演じることはできず、芝居はとても下手だったが、結局は、第一歩を踏み出したのだ。
25歳でマネジメントをしてくれる辛志諭に出会う
2000年になった。これはわたしが最もうまくいってないときだ。方向転換を考え、父の会社を継ごうかとも思った。家族もわたしも、わたしがあまりに人を信じやすく、商業の理念もたいしたものではないと感じて、この考えは捨て去った。一度香港へイベントへ行ったとき、今のマネジメントをしてくれる辛志諭に出会った。初対面で意気投合し、彼と契約した。そのとき仕事は無かったが、収穫はすごく大きかった。わたしに芸能界での生き様を理解させてくれ、それからわたしの人生は変わったのだ。
Peterが、このあとの履歴を、どう書くのか、その文章を見てみたいような気もする…。
新浪網 2005何潤東三十而立生日會誠邀各地fans來相聚
2005年09月05日
新浪網 組図:何潤東三十而立全都“露”感言沒歸屬地
2005年09月11日
このとき彼の愛するカナダ居住のおばあさんが重病だったので、Peterが涙をこぼすという場面もあったらしい。
また、後援会のみんなからお祝いしてもらい、歌を捧げられ、再び涙したそうだ。
これらは真実だろうけど、このとき、300名ものファンが集まったというのは、マユツバじゃないかな…。(笑)
22日(日)午後9時半からNHK総合で放送された《NHKスペシャル チャイナ・パワー①“映画革命”の衝撃》は面白かった~。
何しろ出て来る監督や俳優が超一流、うちにいてこれだけのメンバーをテレビ画面で観られるとは思いもしなかった。
ファン・ビンビンは美しいし、チャン・ツィイーが映画製作を始めたことにも言及していたし、黄暁明もビビアン・スーも出てきた。
それから、Peterの恩師であるイー・トンシン監督も!!
Peterが観たという映画《新宿事件》のことについて話していた。
次から次に登場する有名監督に、一流俳優たち、それから、以前訪れたことがある上海郊外の撮影スタジオも出てきた。
「わあ、わあ、ピーター・チャン、チャン・イーモウ、リン・チーリン!!おお、ジャッキー、チョウ・ユンファ!!」と一人で唸っていた。
……Peterは出てこないけどね。
番組中で中国の映画製作の裏側も見せてもらい、生き馬の目を抜くような中国映画界でPeterも生きているんだなあと思うと、心から「Peter、加油!加油!」とエールを送りたくなった。
13億のマーケットだもんね。
この中国映画界でPeterが成功できますように。
俳優としてでも、
監督としてでも、
どうか成功できますように。