※元の記事があまりに長文だったので改訂しましたよと。
「エンディングの『失敗』」の続きとなるが、二つのことを問題として取り上げている。一つは、作者の期待する「沙耶=異物」という認識がどのようにして挫折したかということ。もう一つは、作者の沙耶に関する説明が(理性も狂気という割に)極めてナイーブというかout of dateなものであるということだ。前者は「魔法少女まどか☆マギカ」と比較する形で次回扱い、後者は大きな問題なので別の機会に譲る。
<はじめに>
前回の「エンディングの『失敗』」において、最初の選択肢で「取り戻したい」を選んだ場合、郁紀が沙耶を拒絶して沙耶に殺されるエンディングになるだろうと予想していたこと、しかも諸般の事情であえてその選択肢を選んだこと、さらにはこのような態度が、沙耶を異物として見なすだけでなくバッドエンドをあえて選ぶという点でも作者の期待する反応に近いものだったと述べた。今回の記事は、そのような認識がいかにして(郁紀と耕司の側に明確な差異を認めない)交換可能性へと移行したかを書き、それによって作者の意図が挫折する様を描くことを目的としている。
ところで、繰り返しになるが、「失敗」という表現について説明しておきたい。以下で扱うエンディングの内容は、交換可能性という観点では非常に有効である一方、二項対立(作者の意図)を意識させるのには不適切である。ゆえに、私は作者の意図に言及しつつ「それを印象付けたいなら~すべきだ」といった話をしていくことになるが、それは実際に表現を変えた方が作品がよりよくなるという意味ではなく、単に意図と表現の齟齬を指摘することが目的である(そもそも、二項対立を前面に押し出したなら、主人公主観などとの連動性が失われるという点も含めて、今より遥かにありきたりで稚拙な内容にしかならなかったというのが私の見解でもある)。そのことを理解した上で読んでもらえればと思う。
<実際のエンディングは?>
沙耶による手術(?)を経て郁紀が元の知覚を取り戻した時、沙耶は彼の前にはいなかった。一瞬それがフェイクで実は後ろに異形がいるというオチかと思ったが、そんなサプライズもなく彼は鈴見家の一件で警察に捕まり、そこでの証言から精神病院に入れられることになった(ちなみに、知覚障害を誤魔化そうとした彼なら余計なことを言わずに正当防衛を訴えるんでは?と初めて見た時は思った。なにせ「取り戻したい」と言ったんだから、元の生活に戻れるように行動するのが自然だからだ)。その後なぜか沙耶が郁紀の病室を訪れるのだが、彼女は自分の姿や声が彼に違和感を与えることを恐れ(正確にはそれによって拒絶されることを恐れ)、姿を見せぬままメールでやり取りをし、お互いの勇気のなさゆえに添い遂げられなかったことを悔みつつ、別れる。
つまりそこに描かれていたのは、拒絶でも死でもなく、ただ物悲しい別離なのであった。当然破局が待ち受けているだろうと予測していた私は、「あれ、こんな展開なの?」と軽い肩すかしのような印象を持ったものの、それほど深く考えることもなく群馬県に旅立っていった。
<エンディングの影響>
このエンディング(以下「エンド1」と表記)を見たことによって沙耶の唄への印象がどう変わったのか、今となっては正確なことはわからない。ただ一つだけ言えるのは、群馬での研修から帰ってきて最後までプレイし、耕司が生き残るエンディング(エンド2)と沙耶が開花するエンディング(エンド3)を見終わった時、前者が人類にとっては望ましい結末であると頭では理解しているにもかかわらず、どうしてもそれがバッドエンドにしか感じられなかったということである(もちろん意図的にそう見せているのは承知している。しかし、それを単なる演出として処理できなかったのだ)。
そのような事情もあり、沙耶の唄を終えた後、一週間くらいの間様々な問題を考え続けた(沙耶が瑶を改造したのは嫉妬からだが、それが構造的には彼女たちを被害者から滅びるべき必然性を持った存在へと変える→「神域の完成度」。郁紀が事故と手術という自らの意思を超えたところで障害を持つにいたったのは、彼の状況を麻薬中毒患者などのそれと分けるためだ→「記事の分量と凶行の相関関係」etc...)。そして日を追うごとに次々とパズルのピースがはまっていき、最終的には殿堂入りまでするに到ったのであった。
<エンディングの影響2>
では、その再構築の過程においてエンド1はどのように位置づけられたのか?作者の意図である二項対立とその「失敗」という視点も絡めて説明していこう。「二項対立と交換可能性」でも触れたが、沙耶の唄においては郁紀と耕司の視点が等価のものとして(少なくともそう認識されるように)描かれている。エンド1は、両者の越境を描いているだけでなく、それを許容してもいるという点で、両者の交換可能性ないしは境界線の曖昧さを強く印象付ける役割を果たしている。もし沙耶の側があくまで異物でしかないという二項対立的視点(極端に言えば「人間=あるべき姿」という善悪二元論で、その視点によって沙耶と郁紀のセックスはホラーとなる。逆にその視点を持ちえないなら沙耶と郁紀の絡みは愛する者同士のセックスでしかなく、つまりは「恋愛もの」となる)を打ち出したいのなら、知覚が元に戻った郁紀には沙耶を拒絶させ「なければならないし」、沙耶にはそのような反応をする彼を殺させ「なければならない」のではないか?そうして初めて、両者の理解が知覚障害という異常事態を通じてのみ成立する仮初のものに過ぎなかったことが強く印象付けられるように思われる。しかし、郁紀は元に戻って沙耶を拒絶するどころか、普通(人間の側)に戻ることもできないまま、今も沙耶を想い続けている姿が描かれているのだから、これでは郁紀の沙耶に対する想いの強さや境界線の曖昧さは表現できても、沙耶=異物という印象を植え付けることは難しいだろう。
さらに言えば、エンド1における沙耶の行動もまた、沙耶=異物という見方を困難にする。ここで話をわかりやすくするために沙耶の行動原理に対する作者の説明を参照してみると、彼は設定資料集の97Pにおいて、「異界の生物の機能が作り出しているものに過ぎなくて、異界の生物の精神そのものが変化したわけではないんです」と言った上で、「エミュレーター」という表現を用いている(沙耶の内面描写が全くないのと連動する)。まあ「そもそも精神とは何か?」などと突っ込みだしたらキリがない部分ではあるが、これはおそらく、沙耶の言動や情動(?)が地球において生存・生殖するための模倣にすぎない、というぐらいの意味だと考えられる。しかし、もしこの理解が正しければ、エンド1に見られる彼女の行動は不可解だ。というのも、彼女は生殖のパートナー(?)をみすみす逃すようなマネをしているからだ(しかも、郁紀の前から姿を消したことを踏まえれば、彼の知覚を元に戻せば自分が拒絶されると認識した上で彼女は手術を施しているのだから、ますますもって理解に苦しむ)。その上、もはや郁紀が生殖のパートナーにならないと認識しているのに、彼女は病院の郁紀に会いに来るのだ。生存も生殖も関係ないのに、一体これはどういうわけだろうか……手術の件は愛する郁紀の望みを叶えてあげたいということであり、病院に会いに来るのは孤独に耐えられないからだろう。そう、答え自体は簡単だ(つまりそれだけ理解しやすいものとも言える)。問題なのは、そのような彼女の行動(原理)を念頭に置いた時、一体どれほどの人が人間と沙耶に有意差があると考えるか、という点に他ならない。
<エンディングの「失敗」>
おそらくこの疑問については、沙耶が人間の知識を取りこむ過程で「本能の欠落まで学習してしまった」というエンド3における説明が答えになっていると作者は考えていたのではないかと推測される(つまり、不合理性まで含めて「エミュレーター」ということだ)。しかし、この説明がむしろ逆効果になったと私は考えている。
今まで交換可能性を印象付ける要素として取り上げてきたものを思い出してほしい。
1、郁紀と青海の齟齬(前掲「エンディングの『失敗』」参照)
2、主人公主観(前掲「二項対立と交換可能性」参照)
3、エンド1の特徴(本稿)
これらはすべて、エンド3よりも前に置かれている。つまり、「本能の欠落」の話を読む時点において、プレイヤーの多くは人間と沙耶の側に有意差が感じられない状態になっていると推測される。この文脈を踏まえると、「本能の欠落」は人間を映す鏡として沙耶と人間の近似性を意識させる(=交換可能性を補強する)ことにはなっても、それを覆す効果はない(もしエンド1で破局による明確な断絶を描いていれば、「本能の欠落」の話は、沙耶の行動が所詮は猿まねにすぎないという印象を固める効果を果たしただろう)。つまり、エンド3の段階ですでに印象が固まっており、そこで「本能の欠落まで学習」などと言っても作者の期待する効果は得られない状態になってしまっている、ということである。
<結論>
つまり、沙耶と人間の断絶を意識させたいのなら、そのような要素を途中に織り込んでおく必要があり、かつ郁紀が人間の側を選ぶエンド1はそれを描く絶好の機会なのであった。しかしそれにもかかわらず、そこで描かれるのは破局どころか沙耶を想い続ける彼の姿であり、そこから「恋愛もの」であるという評価や交換可能性という認識が生まれるのは必然的であったと言えるだろう(見え方が変わっても愛し続けているので)。そのような意味で、エンド1は「失敗」だったと評価できるのである。
<補足>
今回は本編の記述という内的要因に絞って話をしたが、「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応齟齬」で書いたようなプレイヤーの変化や「泣きゲー」ブーム、さらに大きく視野を取れば「感情移入」といった外的要因も二項対立的な眼差しを妨げる上で大きな役割を果たしていると思われる。しかし「虚淵玄の~」で触れたように、作者はそのことに全く気付いておらず、むしろシニカルな視点を持ちえるはずだと思い込んでいた。おそらくこのことが、「いくら人間に近いように描いても、結局は異物だとみんな考えるだろう」という錯覚を生み、結果としてプレイヤーの評価に作者が戸惑うことになったと思われる。
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