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「ライフログ=全体像」なんて見解は成立しないよねって話

2025-04-22 17:20:43 | 日記

goo blogも終わるし、仕事と旅行準備で重たい記事を仕上げる余裕は全くないので、最近あんまし書けてないことでも書いてみっか(・∀・)・・・というわけで、今回のテーマは「ライフログ」。

 

ライフログってのは、文字通り生活の記録をつけていくことで、その集積が人生の記録になるって話だが、一方でそれが「その人の全体像」を表すことになるかと言われれば、どうも自分にはピンと来ていない部分がある。なるほどライフログには位置情報のデジタルデータなど様々なものがあるが、その領域を例えばブログに限定したとて、「何を書かないかに関しても、その人の固有性が強く表れるから」だ。

 

以下に自身のブログで例を挙げてみる。

 

【明示したルール】

・仕事の話

→書かないと決めているし、宣言してもいる

 

【ルールというか配慮の問題】

・個人情報に絡むものはぼかす

→あるいは、意図的に別の日付と取れるように書くケースもある

 

【思っているけどあえて書かない】

1.まとまっていないため、まだ形にしていない(できていない)

 →下書き・予約投稿だったものが、作品などを一種の依り代(画竜点睛)として、ある時突然に形を与えられて記事化するケースも稀にある

 →しかし大抵は塩漬けコースなので、時間がある時にはこれらを一緒くたにしてフラグメントとして表に出すことも少なくない

2.思っているけど言葉にした瞬間にニュアンスが大きく変質するため書かない

→これは対人の発言でもよくあることだが、自動機械でない以上、そうすることで意図が高確率で誤解されるとか、目的達成から
 大きく遠のくような場合、沈黙という選択がなされる。しかし沈黙は、言うまでもないが「無」ではない。では、かかる様態は
 どのようにすれば正しく写し取られるのだろうか?

 

【そもそも意識に上らない】

1.情報としては眼前にあるはずなのに、そもそも意識されていない

→異邦人の旅行記が史料として貴重な理由ともリンクするが、自分はそもそも当たり前だと思っているものが、
 他の人にはそうでないケースなどいくらでもある。

→ルイ16世の日記では、フランス革命があった日の記述に「何もない」と書かれている。これは彼の政治的無関心を
 象徴するというよりむしろ、趣味にしている狩猟で獲物が取れなかったことを指しているのだが、ともあれこの記述の
 プライオリティーは意識の偏りの好例とは言えるだろう。

2.そもそも興味が向いていない

→例えばこのブログではプロレスを取り上げたことはないが、では「なぜ」プロレスを取り上げないのか(興味がないのか)
 と問われると、説明するのは非常に難しい。明確な理由がないからだ。

 

以上複数の事例を挙げてみたが、要するにいくら多量の記事を書いてみたところで、表面化したものだけをパッチワークのようにつなぎ合わせても見えない部分は膨大に残るし、それを例えば同国・同年齢帯の複数サンプルと比較することは可能だろうが、それでも【思っているけどあえて書かない】項目の2のようなケースを拾い上げるのは極めて難しい。

 

というわけで、仮にその人間が膨大な記録を残していたとしても、「その人の全体性」という意味においてライフログを捉えるなら、全く程遠いものにしかならないと言えるだろう(まあこういうのが「確定記述の束」問題ともつながるわけだが)。

 

という訳で今回は以上。


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