先日、東浩紀が語るコスパ思考の話を紹介したが、そこで言われていることは、「若者のコスパ思考」と言われているが、実は年を取る自分のできる領域がわかってどんどん「ムダ」を削ぎ落していくコスパ思考になっていき(限界が見えてチャレンジしなくなる・自分の好きな領域を広げようとしなくなる等)、それに無自覚な状態で他人にその正当性と承認を要求すると「老害」になるというものであった。
そしてコスパ思考が持つ本質的な限界として、「そもそも生きること自体がコスパ悪くない?」とも述べている(これは以前落合陽一との対談でも述べていることだ)。
これは極端な話をして黙らせようとするロジックだと思われるかもしれないので、もう少し丁寧に話の構造を紐解いてみると次のようになる。例えば、思わぬ本との出合いを求めて古本屋をハシゴするのは、偶然性頼りという意味でコスパの悪い行動と言える(まあその偶然性を楽しむ行為なのだけど)。では、コスパの良さを追求すると、始めから全て予定調和(偶然性に左右されない・される要素が少ない)のAmazonやメルカリでいいじゃん、という思考になるわけだが、だとすると、そもそも人間という存在自体が(例えば様々なバイアスの知見からわかるように)予測不可能を持ったノイズだらけの存在で、かつそれらが集合して作られる社会も、ノイズを縮減するために諸々の共生のルールがあるとはいえ、当然ごちゃごちゃのモザイク状のものとならざるをえない。それに加えて、これまで様々な法則が明らかにされてきたとはいえ、人間の事情など斟酌しない自然という存在=世界全体がこの世を覆っているわけだ。
まあ早い話、世界の出来事は全て最初から決まっているという予定説的な、あるいはラプラースの悪魔的な発想を妄信でもしていない限り、この世は偶然性・予測不可能性で満ち満ちているという認識になるのではないか、ということである。で、そうするとコスパ・タイパを求める=偶然性よりも予定調和を重視する思考を徹底するなら、そもそも生きていることがコスパ悪くない?という話になりますよと。
これがコスパ思考の抱える根本的な限界である。もっとも、ここには二つの事情を指摘できるかもしれない。一つは、「99.9%は仮説」という見解があまり共有されていないように、世の偶然性というものはそれほど正しく認識されておらず、そうであるがゆえにコスパ思考でいけると思えてしまうということ。そしてもう一つは、情報や娯楽が溢れている情報過社会・過視化社会だからこそ、コスパ・タイパ思考で物事を処理していかないとオーバーフローしてしまいかねないという事情である。
だからコスパ思考が抱える根源的な問題として、そもそも生きる事自体が予測不可能でノイズだらけでコスパもタイパも良くないのだからその思考を突き詰めたところでデッドエンドしかないよ、という指摘は重要である一方で、例えば仕事で忙しい人間がプライベートな雑務を誰か(何か)に一任したり、あるいは細かく状況を聞かずにわかりやすく結論を求める・出そうとする行動と同じように、一種の生存戦略としてコスパ・タイパ思考にならざるをえない点は留意しておく必要があるように思われる。
という訳で、全く関係ないように思われるかもしれないが、次回は若年層の自殺率増加の件について書いてみたいと思う。
以上。
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