財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
私は本件の乗っ取り事件の主役桜井能唯が終戦後、弁谷家に軍服を
付けサーベルを帯びて、来たことを覚えている。
軍隊で覚えた敬礼をしたもである。
何故弁谷家に挨拶をしにきたかは、今後の身の処し方を相談に来たのであろう。
その後祖母の養女であった弁谷ハシの妹と結婚するこのになるのだが、
それによって康楽寺、白雲楼を乗っ取ることになる。
金沢地裁の康楽寺建物収去明け渡し事件を起こしたのは、この様な
背景があってのことである。
又この事件をおこした背景には、康楽寺、白雲楼を処分するために予め
金沢市に江戸村を売却する必要があり、その手続き上この裁判を起こしたものである。
この時起雲閣、白雲楼を経営する日本観光株式会社は百数十億の負債を抱えて、倒産寸前であった。
日本観光が倒産する前に、康楽寺の問題を片付ける必要があった。
裁判所で和解の勧告が出るまで、桜井能唯と弁谷貞造は馴れ合いの
裁判を平成6年から平成9年まで19回の口頭弁論を行っている。
その中身は空疎で、壇徒や信者もいない実質二人だけの空疎な口頭弁論に終始
している。
康楽寺の本殿の建物の位置は当時の宗教団体法により、仏舎利を本尊とする本殿の建築する位置であり、即ち
金沢市湯湧町へ19番地であるが、未だ本殿が建築されて
いないのに、建物の所在地は湯湧町へ19番地、ト27番地にに登記が
されているとして、登記簿謄本を提出している。
康楽寺は昭和19年に父個人の寺として、財団としての認可をえている
ものであるから、父個人の寺は登記の必要が無く、その土地は父名義
であり、財団の後継人がその資産を受け継ぎ、父の遺志に従い事業
即ち康楽寺の本殿を建築しなければならないのである。
現在の康楽寺は宗教法人ではなく、父個人の寺に過ぎない。
これを誤魔化すために、延々とマコトシヤカニ訴訟を馴れ合いで行っていたのが実情である。