
財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である.。
近藤荒樹氏に会って尋ねたことは、私の母親のことである。私の記憶が未だ回復していなかったので母親のことを尋ねたのである。それに対しては同氏が女性のことは桜井さんは秘密主義で何も言わなかった。しかし弁谷家には子供を預けてあるときいてる。それは貴方であるかどうか判らない、と返事をした。しかし一般的に云うと近藤氏の言い方は間違っている。私が馬鹿にされたというか、誤魔化されたのである。弁谷昌造は東映の社長大川博氏の秘書をしていた事は既に話した。何故彼が入社当時から社長秘書になれたかは、弁谷貞造が東映との繋がりがあったので、その手ずるからである。大川氏はその著書の中で当時東横映画といわれたボロ会社に東京急行電鉄から社長として派遣された。大川氏が最初にした事は高利貸の近藤荒樹氏から借りた金を返して、経営を立直す事であったとその著書で書いている。東急と西武はその頃箱根戦争で争っていた。私の父はその争いの仲介に入り、西武、コクド、東急の株式を大量に買い、自分の寺康楽寺に寄付したのである。それで父の死後五島慶太氏が金澤まで来て康楽寺を買収しようと県庁などとかけあったが、失敗に終わった。しかし東急の大株主として存在感があり、無視できなかった。また東映の東京撮影所やテレビ朝日のある地所は、父の経営する会社と深く関係があった。弁谷昌造は昭和27年頃より麻布の父の本邸に住んでいたことは前のブログで話した。つまり私になりすまして父の屋敷に入居、堤康次郎の仲介に立ち会ったのである。これで近藤荒樹氏の言う意味が判る。国を相手に騙して父の屋敷の売買に関与したのである。これには勿論堤康次郎のお墨付きがあってのことである。弁谷昌造は私より二つ年上で昭和27年より東京の大学に入り、父の本邸に住民票を移しそこで学校に通っていたのである。当時は20歳で一人前になっていた。私は丁度その頃金澤市の国立第一病院で脳天を破裂される手術を受けていたのである。このような経緯があったので、わたくしが桜井兵五郎の子供であると彼に話した時真っ青に顔色を変え東京国立第一病院の富永精神医長につれていったのである。このブログの写真は現ドイツ大使館で、父の元麻布本邸で康楽寺に寄付してあったものである。