白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の流転したサラリーマン時代(6)慶応大学工学部

2006年03月17日 11時22分30秒 | 私の母
私が昭和35年3月に私の父の創立した日本タイプを辞めて、当時日本タイプの重役として名を連ねていた比留間安治氏に手紙を書いて、父桜井兵五郎の事を知りたいので伺いたいと手紙をだした。当時は私は金沢市郊外の白雲楼ホテルの上に在る「康楽寺」に帰ってきていた。当時は未だ康楽寺の前は空き地になっており、後年江戸村が出来てくるにはまだまだ10年後のことである。当時は弁やハシや貞造がここを住まいとしていた。私は金沢市内に良く出かけ、図書館で父の事を調べたり、北国新聞社に出かけ、父の資料を探しにいった。北国新聞は父がかって経営していた北陸毎日新聞と昭和15年対等合併したもので、父の資本が半数入っていた。しかし新聞社の人は父の写真一枚のみ見せただけであった。私は当時は無職であり就職の世話を頼むつもりで比留間氏のところにいったのである。東中野駅前の広大な屋敷であった。私は比留間氏とは初対面であった。私が比留間邸を尋ねたとき、玄関に入る手前の応接間の窓が開けられていて、白髪の老人が此方を見ていた。この人は来客である。比留間氏によるとその人は王子製紙の社長であると私に後で話した。私が玄関で案内を請うと別室に案内され暫く待たされた。比留間氏に会うと父の事を聞きたいと話したが、その時若い青年が入ってきて、彼も父の事を尋ねて来たと言うのである。彼の父はこの大戦で戦死したのでそのことを聞きに来たらしい。結局邪魔者が入ってきた為、私は父の話や職の話も出来ずに終わってしまった。当時は日本タイプを辞めた後であったが、日本タイプの重役の一人であった桜井清次のガレージを改造したシモタヤに住んでいた。私が比留間氏宅から帰ってくると、彼が失業保険を貰えるからその手続をしろと言ううのである。私は失業保険なんて存在することを始めて知ったのである。桜井清次は私の戸籍上の母の弟であり、倒産した日本観光の社長、会長でもあった。慶応大学の近くの職業安定所で失業保険の手続きを終わると、慶応大学の事務員としての求人があり、それに応募したところ、当時は小金井市あった慶応大学工学部の事務員として採用されたのである。それと同時に桜井清次宅より退去を求められた。そこで弁や貞造の嫁の柏家が天理教の熱烈な信者で、神宮前の大きな教会に紹介されそこに下宿する事となった。その教会は柏木庫治といって参議院議員をしたこともある人物で、その息子は中曽根元総理の同級生であった。この柏木氏の紹介で弁や貞造は柏智子なる嫁を紹介され結婚したのである。この教会から小金井市の慶応大学工学部の事務員としての生活が始まった。しかし一年半ほどで辞めてしまったのである。その理由はいろいろあるが、当時のことで忘れられない出来事があった。入って一年程してからの事であるが、事務員が集まって誰かの噂さ話をしていた。私は昼時間であったので外に出て日光浴をしていた。皆が台所の様なところで話をしていたので、その話が自然と耳にはってきたが、の内容は次の如くであった。その話の主役をしていた後に慶応大学塾長の秘書課長となった人であるが、彼の話の内容は「だから皇太子とはいとこ同士になり三井高陽氏ともそうであり、母親の父も大臣であった」という様な内容であった。私がそこに行くと皆一斉に顔を見合わせビックリした様子で、押し黙ったものであった。私は誰の話をしているのかを聞くと、誰も口を閉ざして一言も発しなかった。私は奇異な雰囲気の中皆の顔を見ていると、その部屋から皆居なくなってしまったのである。これは私の母三条西治子のことを話しているのを知ったのはズット後年になって、母を事を少しづつ思い出し手からのことである


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