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夢の続き・・・

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風林火山紀行(甲斐路編16)・・・武田家終焉(他の武田家の人①)

2010年08月30日 07時45分03秒 | 旅行
武田義信が謀反をおこし、その結果、自刃とも暗殺とも言われる形で没してから、
勝頼が後見役ということで武田家の後を実質継いだ形だ。

しかし、嫡男義信と勝頼の間には他に2人の兄がいた。
竜宝と信之(早逝)である。
竜宝(1541年生-1582年没)は、信玄と三条夫人との間に生まれた次男であったが、生まれながらか、幼少期になったのかはっきりしないが、所謂盲目という悲しいハンデを背負ってしまった。
それでも当初は、信濃の小県海野氏の名跡を継いで海野信親と名乗っていたが、
出家し、竜宝と名乗った。半俗半僧の身で「ご聖道様」とも呼ばれていたようだ。
後に兄が謀反(義信事件)で処断や父信玄亡き後の武田家の滅亡など、武田家の盛衰をそばで感じた人でもあった。
1582年 織田の軍勢が甲斐に攻め込み、勝頼は、天目山を目指すも田野で自刃。
この報を受けて竜宝も入明寺に匿われたものの自刃したそうだ。
享年42歳 不運の武将だったと思う。

(竜宝の墓)


お寺の方が親切にも本道に案内してくださり、位牌を見せていただいた。(写真は控えた)
お寺の方 説明だけでなく、このように親切にして頂き、ありがとうございました。

今も、慰める為、毎年お祭りが行われているようだ。

もし盲目でなかったならば、義信に代わって竜宝が武田家を継いでいたのかもしれない。
そしたらまた違った武田家の歴史があったかもしれない。

因みに彼には子供がいて、その結果、現在まで命脈を保っている。
その子の名を信道という。
彼は出家して顕了道快と号し、織田家による残党狩りを逃れたが、時代が流れ徳川の世になると、武田家復興をたくらんだとされた、所謂大久保長安事件に連座して伊豆大島に流された。
お寺の方のお話だと、完全な陰謀で、濡れ衣を着させられたそうだ。
さぞかし無念であったことと推察できる。

しかし、この方、島流しに遭っても、負けることなく、高い教養で島の民の教育など行うことにより、島民に慕われ、かなり信望が厚かったようだ。
今もそのお墓は、島の方に大切に守られていることを教えて頂いた。

先日、約400年ぶりに、その位牌が山梨に帰ってきた。
実に長い期間の陰謀の呪縛がようやく解け、名誉が回復できたのかなって思う。