5月初旬であるが天目山棲雲寺に行ってきた。
場所は、甲州市大和町木賊
随分と標高の高いところにあるお寺だ。
1348年 業海本浄により、棲雲寺(せいうんじ)が開山された。
業海は、1318年に元に渡り、天目山の普応国師に参じ、帰国後、この地が天目山に似ているところから開山したといわれている。
甲斐守護武田氏の庇護を受けて栄え、木賊山もいつしか「天目山」と呼ばれるようになったそうだ。
(棲雲寺)

(庭園)
県指定名勝の庭園は、確か有料で300円位かかっただろうか?
自然を利用した広くて美しい庭園だ。
散策して庭園を楽しむことができる。


この寺、下の写真の通り、蕎麦発祥の地らしい。
蕎麦好きの小生は、感謝 感謝じゃ。

この寺、勝頼が最期を遂げる為に目指した寺だ。
追い詰められ、もはや再起の道はないと悟った勝頼は、自刃する場所にこの寺を選んだ。
どうせ果てるならご先祖が眠る場所が良いと思ったのだろうか?
この寺には、室町時代の甲斐守護である武田信満が(?生-1417年没)が眠っている。
武田信満は、1415年関東管領上杉禅秀の乱に連座して室町幕府に挑んだが敗れ、1417年ここで自刃している。
(武田信満の墓)

それにしても、景徳院より
で棲雲寺まで行ったが、それでもかなり登る感覚がある。
当然ながら当時は舗装などされていないし、傾斜も厳しい。そして何より、勝頼夫人や侍女など女性も帯同している。実際に登ってみて、一行が辿り着くのはかなり厳しいことは容易に察しがついた。
(棲雲寺からの景色。綺麗ではあるが歩くと考えると実に険しい)

険しい道のため、やがて追手に追いつかれ、それどころか棲雲寺に先回りされ挟み撃ちにあう。
もはや勝頼は死に場所すら選ぶことが許されない状況であった。
よく勝頼は天目山で果てたというが、残念ながら天目山には辿り着けず、田野が最期の地である。
勝頼が目指した棲雲寺。そこで自刃するという最期の夢、叶えさせてあげたかったと思う。
場所は、甲州市大和町木賊
随分と標高の高いところにあるお寺だ。
1348年 業海本浄により、棲雲寺(せいうんじ)が開山された。
業海は、1318年に元に渡り、天目山の普応国師に参じ、帰国後、この地が天目山に似ているところから開山したといわれている。
甲斐守護武田氏の庇護を受けて栄え、木賊山もいつしか「天目山」と呼ばれるようになったそうだ。
(棲雲寺)

(庭園)
県指定名勝の庭園は、確か有料で300円位かかっただろうか?
自然を利用した広くて美しい庭園だ。
散策して庭園を楽しむことができる。


この寺、下の写真の通り、蕎麦発祥の地らしい。
蕎麦好きの小生は、感謝 感謝じゃ。

この寺、勝頼が最期を遂げる為に目指した寺だ。
追い詰められ、もはや再起の道はないと悟った勝頼は、自刃する場所にこの寺を選んだ。
どうせ果てるならご先祖が眠る場所が良いと思ったのだろうか?
この寺には、室町時代の甲斐守護である武田信満が(?生-1417年没)が眠っている。
武田信満は、1415年関東管領上杉禅秀の乱に連座して室町幕府に挑んだが敗れ、1417年ここで自刃している。
(武田信満の墓)

それにしても、景徳院より

当然ながら当時は舗装などされていないし、傾斜も厳しい。そして何より、勝頼夫人や侍女など女性も帯同している。実際に登ってみて、一行が辿り着くのはかなり厳しいことは容易に察しがついた。
(棲雲寺からの景色。綺麗ではあるが歩くと考えると実に険しい)

険しい道のため、やがて追手に追いつかれ、それどころか棲雲寺に先回りされ挟み撃ちにあう。
もはや勝頼は死に場所すら選ぶことが許されない状況であった。
よく勝頼は天目山で果てたというが、残念ながら天目山には辿り着けず、田野が最期の地である。
勝頼が目指した棲雲寺。そこで自刃するという最期の夢、叶えさせてあげたかったと思う。