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夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

風林火山紀行(甲斐路編4)・・・円光院

2010年04月26日 19時42分19秒 | 旅行
4月15日 円光院を訪れた。
円光院は、甲府市岩窪町にある三条夫人(1521年?月生 - 1570年8月29日没)が眠るお寺だ。


三条夫人は、武田晴信の正室。


三条夫人は、1521年左大臣三条公頼の次女として生まれた。つまり公家の姫君だ
1536年7月に晴信と結婚したらしい。15歳で京から山国甲斐に下ってきた。
僅か15歳、華やかな京から、誰も知ってる人がいない、こんなに離れた山国に嫁いだことは
かなり辛いことであっただろう。
そんな三条夫人も、晴信との間に3男2女の5人の子供を産んだ。
三条夫人と言えば、小説やドラマなどでは、諏訪御寮人のヒロイン役とは対照的に、プライドが高く、それでいて嫉妬深く意地悪な姫として描かれ、嫌なイメージを持ってる人も多いのでは
しかし、これって全く根拠のないことで、名誉毀損ではって思う

嫌な姫なら晴信との間に5人も子は出来んよな
快川国師も以下のように語っている。

ただ、5人の子供に恵まれたものの、多くの子が不幸で、子に対する悲しみも多かったことは推察できる。
長男義信=晴信と対立して自刃、次男=盲目、三男=早逝、長女=北条氏政室も、同盟決裂により離縁され翌年27歳で逝去。次女=穴山信君に嫁ぐも、穴山 後に武田家を裏切る。
なんて不幸な子供達だ
特に長男義信の自刃はかなり辛かったであろう。その3年後、三条夫人は50歳で逝去している。

15歳で京都から甲斐の国に嫁ぎ、5人の子供を育てた三条夫人。決して世間で言う、意地悪な女性ではなく、辛いことも懸命に乗り越え、夫に献身的尽くした女性だったと考えるのが現実的だと思う。
そんな三条夫人は今、静かにこの寺で眠っている。


歴史的大敗

2010年04月25日 18時22分10秒 | ラグビー
川中島行って来た。
長野市はまだ桜が散り始めでしたが、咲いていた。
山梨では、とっくに去ってしまった春であるが、長野まで追っかけ、追いついた気分で、なんか2度春を味わった感じで得をした気分だ。
さて、そんな川中島を楽しんでた折、友人からとんでもない速報を聞いた。
折りしも、同じ日の4月24日 神奈川県の招待で法大ラグビー部は、東海大とのオープン戦
初戦を迎えていた。観戦した友人の話では、0-92で大敗したというのだ。
言葉を失った。こんな大敗 記憶にない。何かの間違いではと考えずにいられなかったが、事実だ。
確かに東海大は強い。昨年準優勝メンバーの殆どが残っているが、日本代表やU20などに主力を取られ、万全ではない。一方法政も山森主将が怪我、U20で2人いなく、
また、他のメンバーもテストを兼ねてか、リザーブ含め1年生4人を入れるなど
ベストではない。が、この点差はありえない。
仮にも招待試合。しかも有料の試合であったのに、とてもそんな試合ではない。
友人の話だと、タックルも出来ないザルのようなディフェンスで次々に突破され、トライの山を築かれたようだ。
法政の攻撃も敵陣25m以内に入れたのは僅かに一度という始末。
全ての面で東海に圧倒されたようだ。技術的な面ならともかく、気迫が感じられなかったというのが一番寂しい。

初戦とはいえ、衝撃的な敗戦。今回の敗戦で、ファンのショックは大きい。
法政に対するマスコミをはじめとした他大学の評価は厳しくなろう。
かなりなめられると思う。
何とか、見返して欲しい。
東海は、帝京に破れ日本一を逃したことの悔しさを忘れず、リベンジに燃えている。
日頃の練習からのこうしたモチベーションの差もあるのではと観客も言ってたそうだ。
何となく分かる気がする。
今年は、このような厳しい敗戦からのスタート。
必ずや無駄にせず、復活して欲しい。
来月23日は山梨で明治と激突する。山梨で、こんな嫌な試合は嫌だ。
俺は復活を信じている。
頑張れ法政!!

風林火山紀行(甲斐路編3)・・・積翠寺

2010年04月23日 19時26分37秒 | 旅行
1521年 信虎と大井夫人の間に武田家第19代当主武田晴信(幼名勝千代)が誕生した。


生まれた場所は躑躅ヶ崎館(現武田神社)の背後にあたる要害山 積翠寺。
結構勾配がある。温泉もある観光地だ


甲斐国志によると開山は行基ということだ。一時没落したようだが、夢窓国師の弟子竺峰(じくほう)が中興したという。

晴信(信玄)が生まれた時、折りしも駿河国今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5000人の軍勢が甲府に迫り、身ごもっていた大井夫人は要害山へ非難してこの地にいた。幸い信虎は荒川幡(甲府市)において今川方を撃退した
この勝利と嫡男誕生で信虎は大いに喜んだと言う。この時は信虎も普通の親だった
(本堂)

本堂の左には不動堂があり不動尊、武田信玄像などが祀られていた。


また本堂の左に脇道がある。


更にこの道を右に曲がると、な な なんと 左手に夢窓国師作といわれる綺麗な庭園が広がり、正面には古井戸があった

(左手の庭園)
松が良い感じ

(正面の古井戸)


この井戸こそ晴信の産湯として使われたと伝わる井戸だ

蓋を開ければ、なんということだ!!まだ水がある


ここから、戦国時代の名将武田晴信は生を受け歩みだした
折りしも戦国時代らしく、合戦中の緊急避難地での誕生である。
この誕生からして、晴信の激動の人生を暗示するような誕生の仕方だと感じた


明日は初めて川中島を攻めに行く
謙信待っていろ
心は信玄になった気分だ

風林火山紀行(甲斐路編2)・・・長禅寺

2010年04月20日 19時55分27秒 | 旅行
武田信虎の妻にして、武田信玄の母といえば、大井夫人(1497年12月10日生- 1552年5月30日没)と呼ばれる方だ。
(大井夫人)


大井夫人は、甲斐国西郡の国人領主・大井信達の娘として生まれた。
当時大井信達は駿河の今川氏と結び甲斐守護武田氏と度々争っていたが、信虎優位での和睦をしたため、人質として信虎に娘を嫁がせたのだった。
大井夫人もまた敵に嫁がされると言う、戦国の世の悲しい女性の一人かと思う
そんな悲劇の大井夫人も、晴信(信玄)、信繁、信廉といった優秀な子供に恵まれたのは
救いだったのではないだろうか。。。
大井夫人は教育熱心で、大井氏の菩提寺である長禅寺に岐秀元伯を招き、晴信の師として学問を授けた。それが偉大な戦国武将武田信玄の原点ある。
1541年には、夫信虎が駿河に追われた後も、彼に随行することなく甲斐に留まって
晴信を見守り続けた。
そんな素晴らしい母親が眠るお寺が先にも出た長禅寺である。
甲府市愛宕町にあるお寺だ。

このお寺に冒頭の大井夫人の絵が所蔵されている。
この絵もまた、大井夫人の息子 信廉作の絵で、夫人没後の一周忌に描かれた供養像だそうだ。母を想う子の気持ちが出ており、また大井夫人の人柄のようなものが感じられて、長い時間を経た絵ではあるが、暖かい気分にさせる
残念ながらこの絵は見ることが出来なかった
本堂を左に行くと大井夫人のお墓に行く参詣道があった。

これを道伝いに登っていくと、大井夫人のお墓があった

綺麗に掃き清められていた。
手を合わせながら、敵方に嫁ぎ、随分辛い目にもあっただろうが、素晴らしい子を育て
懸命に生きた女性だなと敬意を感じた






SEVEN A SIDE 2010

2010年04月19日 20時38分46秒 | ラグビー
多摩市陸上競技場で「SEVEN A SIDE 2010」が
行われ、法政ラグビー部も出場した。残念ながら所用の為、見に行けなかったが、
結果は準優勝。結果だけ見れば喜ばしい限り。
近年タイトルがないもんな
ただ、スコアをみれば手放しで喜べない

(決勝スコア)
東海52-7法政
相手はリーグ戦最大のライバル東海大。そこにこの大差はいささかショックだった。
今年法政は谷間の年、充電の年といわれ、一方東海は全盛期にある。
今年苦戦は必至。むしろ法政の勝負は来年から。されど厳しい勝負になろうが、
今年も夢が持てる、少しでも勝てる可能性がある力関係にはなってもらいたいと思うから、余計厳しく感じる
唯一の救いは、今回の厳しい結果が、期が始まったばかりであること。
まだはある。

これを良い薬にして欲しいと願う。
因みに出場した選手は、原島、中山、新本、田中、百武、高城、宮田、竹下、
井上、山本、松原、玉村、渡邊拓、中村。若手中心、ベストメンバーではないが、
相手とてベストではない。
若手は良い経験をしたと思う。この敗戦を生かし今後の活躍を期待したい
頑張れ法政