夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

風林火山紀行(甲斐路編10)・・・新府城

2010年07月31日 19時29分37秒 | 旅行
織田が高遠城を落とし、信廉の大島城などを落とすと信濃はたちまち制圧され、
もはや武田には抵抗する力はなく、怒涛の軍勢が甲斐に押し寄せてきた。
勝頼は、日に日に家臣の裏切りや織田徳川の攻勢が強まる中で、厳しい状況を覚悟したのか、信玄の代まで居住としていた躑躅ヶ崎館を離れ、現在の韮崎市の七里ケ岩台地に1581年新府城を築城した。
この築城の任にあたったのが、関が原で大活躍した真田昌幸である。

昌幸が築城した上田城は、関ヶ原時徳川秀忠の大軍を打ち破った名城。
その昌幸が築城したとあらばかなりの要害堅固の名城だろう。

残念ながらこの新府城に居を移して68日あまりで、勝頼はこの城に火を放つ。
織田が攻めてきたからだ。
ここで迎え撃つつもりだったのに、家臣団が崩壊し、もはや守る兵もまともにいなかった。
名城なのに、まともに使われずに終わってしまった。
勝頼、昌幸さぞかし無念であったことだろう。

まさに戦艦大和のような悲劇の城だ
そのせいか、悲しい雰囲気が今も残っている。


(道路から見た新府城)

(急な階段じゃ。頂上まで249段。運動不足を痛感


(階段を上りきると新府藤武神社がある。勝頼公を祀っているそうだ)

この神社、地元の方には「おしんぷさん」と呼ばれ親しまれているそうだ。
毎年4月20日近くにお祭りが行われ、神輿がこの階段を駆け上がるそうだ。
この階段を神輿とは凄い迫力だろうな。

(新府城MAP)



(本丸跡)
思ってたより、かなり広い。


(本丸跡地には勝頼をはじめ、長篠の合戦で討ち死にした家臣を祀っている。もちろんここに埋葬されているわけではない)




(二の丸跡)


(新府城からみえる景色 実にのどかな光景が広がる)
勝頼や昌幸はこの景色を見ながら何を思ったのだろうか?


感想だが、もう少し県・市がこの文化財を整備して欲しいと思う。
勿論厳しい財政だからだろうが、高遠城とくらべ、あまりに整備がされていない。
もっと説明の表札とか、歩道など観光客をはじめ多くの人に見てもらえるようにして欲しい。それだけの遺構は残っている。
災害・人災などで破壊されないうちに整備して欲しい。

それにしても山梨県民にとっても武田ファンにとっても暗くなる悲劇の城だ。
しかし、地元の方には勝頼公は現在に至るまで代々慕われてきた。この点で見ても凡将ではないと思う。

見たことはないが、4月の神社のお祭りだけでなく、10月にも勝頼公が新府城に居を移した時を再現した「新府城入場祭り」が毎年行われている。
今度見て見たい

考えても仕方ない事だが、この城で、戦は信玄以上に強かったと言われる勝頼に、十分な兵でもって、織田の大軍を迎え撃つ篭城戦をさせてあげたかったと思う



借りぐらしのアリエッティ

2010年07月30日 19時58分41秒 | 映画
「告白」を見ようと思っていたが、それは後日にして、「借りぐらしのアリエッティ」を見た。
イギリスの小説「床下の小人たち」が元らしく、人間に見つかってはいけないと、忍びながら生活する小人と、人間との交流をアニメ化した作品だ。

宮崎アニメで有名なジブリ・アニメだ。
監督は米林宏昌さん。

感想であるが、絵やキャラクターはいい。さすがジブリ作品だ。

(小人のアリエッティ  実にかわいい)


(小人の仲間のスピラー かわいく 優しく 力強い)


(優しい人間だけど重い病の翔君 小人を守りながら、小人から生きようとする気持ちをもらう)


ほのぼのとした作品で落ち着くが、全体として宮崎さんの作品ほど感動はない。
むしろ中途半端な終わり方だったような気がする。
ただ、94分と短い作品なので、続編を考えて計算している終わり方とするならば、
小生も続きが気になっているので成功だと思う。
ただこれで完結なら「う~ん」って感じ。
複雑な気分だ。

宮崎さんってあまりに偉大なので、後継者が現れるのは時間がかかるだろう。
でも米林さんにはその片鱗があるかも。
続編があってほしいと思う。

アニメも久しぶりだが、やはり映画はいい。
今 周期が来ているので、いろいろ見たいと思う。


(評価)
☆☆☆

(基準)
☆☆☆☆☆ 面白い もう一度映画館に見に行きたい。 DVDは購入する
☆☆☆☆   面白い DVDは購入する
☆☆☆    まあまあ。何かが足りない DVDは検討が必要。
☆☆      がっかり。
☆       話にならん 金返せ!!

夏なのに何か足りない感じ・・・

2010年07月29日 19時35分33秒 | 犬・自然
今日は、が降るなど久しぶりに暑さが和らいだ感じであるが、
山梨は昨日まで、連日35度あるような日が1週間ぐらい続いている。
小生 少々弱り気味である

よく周りの人が言う。
「今年の夏は暑い・・」 小生もそう感じる。
しかし山梨でも過去40度を記録するような猛暑日が続く年は過去にもあった。
なのに過去より暑く感じるのは何故だろう?
湿度が例年より高いのだろうか?
それとも過去の自分が感じていた感受性の変化だろうか?

気温だけみれば夏まっさかりという感じだが、夏というには何か足りない気がしていた。
が、本日その回答が出た。
くだらない事だがその答えとは蝉だ!!
今朝散歩している時に蝉の抜け殻を見て分かった。

(蝉の抜け殻)

今年は蝉が少なく、鳴き声があまり聞こえてこないことだ。
毎年耳を澄まさなくてもうるさい位あちこちで聞こえてきたのに、今年はそれがない。
ゆう坊の毎朝の散歩コースの途中に、毎年、多くの蝉が殻を抜けて飛び立つ場所がある。子供が抜け殻を集めれる楽しい場所だ。
去年はかなり多かったので覚えているが、今年はその半分も無いように思える。
何となく寂しく思える。物足りなく感じる。

もちろん、地域によっては逆に多いところや例年と変わらないところもあるだろう。
あくまでも何の根拠もない勝手な見解であるが、山梨県の甲府以西は例年より少ないのではないかと感じている。

最近、花が咲いていて、目に映っているのに見えていないといったような事が多くある自分に気がついた。
決して現在精神的余裕がないわけではない。物事を感じようとする姿勢がないからだと自分を戒めている
30代⇒40代⇒50代⇒60代と肉体的には段々衰えるのは道理であるが、感受性だけはそうならないようにしたいものだ
気をつけようと思う。
そして今年出てきた蝉の声 良く聞いておこう。

特に夏の夕方を象徴するヒグラシ。実に風流な鳴き声で、もっと聞きたいと思っている


風林火山紀行(甲斐路編9)・・・画家と影武者(逍遥院)

2010年07月28日 16時47分22秒 | 旅行
信玄家臣団の中で、画家と影武者のキーワードをもつ武将といえば、
武田信廉(1532年生-1582年没)である。武田信虎と大井夫人との間に生まれ、信玄、信繁とは同母弟である。出家して武田逍遥軒信綱と号した。
(武田信廉)



ここ逍遥院は、武田信廉が眠るお寺だ。
場所は甲府市桜井町999
武田信廉が自邸近くに牌所として建て、自作の位牌を生前に作り、収めたと言う。
信廉が処刑された後、このお寺は信廉の菩提寺となったそうだ。
(逍遥院)


信廉は戦国時代の武将でありながら、戦などでは後詰が多く、軍功等の話は少ない。
むしろ武将というより画家としての方が有名な人物だ
国指定の文化財に指定されている貴重な信虎や大井夫人の肖像画は、信廉の作品である。

(信虎像)


(大井夫人像)


信繁が川中島で散ると、信廉が親族衆筆頭として信玄を補佐した。
真偽の程は分からないが、兄の信玄とは顔や体系が似ていた為、影武者を務め、1573年 西上作戦中の信玄が病死すると、死を内外に隠すために信玄に成りすまして軍を甲府へ引き揚げさせた。また、北条氏政が信玄の死去を確かめるため、使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣した際も、影武者としてこれを欺いたという逸話が残っている。

派手な軍功こそないが、実に個性的な人物だ

そんな親族衆筆頭の信廉も、信玄亡き後、勝頼を補佐するも、武田の衰退していく流れを変えることは出来なかった。

武田信廉は、伊那の大島城を守っていたが、1582年、高遠城が落ちると織田軍に
大した抵抗もせず、大島城を放棄して甲斐へ退却する。
勝頼自刃から13日を経た後、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可に捕らえられ、斬首された享年50歳。
優秀な兄 信玄、信繁の弟の割には、実に寂しい末路である。


(武田逍遥軒信綱祠)
左隣にある石祠は信廉嫡子、信澄(祠側面には平太郎信隆と記されています)の祠だ。






生前に作成したと言われる位牌。なくなる3年前に作成したそうだ。


(位牌)


亡くなる3年前に自分の位牌を作っているということは、もはや武田家が衰退し、
滅び行くことを避けることが出来ないと信廉は悟っていたのかもしれない

風林火山紀行(信濃路編11)・・・高遠城址公園

2010年07月27日 16時26分19秒 | 旅行
気がつけば、もう8月が目の前に迫っている。
時間がどんどん過ぎていく。忘れないうちに急がねば

4月下旬 川中島の散策の帰りに、高遠方面に立ち寄った。
高遠城といえば桜の名所で、花見をしたことはないが、多くの人で賑わうのを聞いていた。
とはいえ、さすがに4月下旬では散り桜となり、花見といった光景はなかった。

ここは現在、城址ということなどで天守閣があるわけでないが、その遺構を公園として整備し、多くの人の憩いの場となっている。
(高遠城址公園MAP)



ここ高遠城は、もとは高遠氏の居城であるが、1545年に武田軍が攻め落とし、以後武田氏の拠点となった城だ。
山本勘助や秋山信友に命じて大規模な改築が行われたという。
真偽の程は分からないが、山本勘助が作ったとされる勘助曲輪と呼ばれる
遺構が残っている。
(勘助曲輪)


武田家が滅んだ後は保科氏などが城主となっていることから全てが武田家時代の遺構ではないが、大きな外堀などを見ると城という感じがする

(外堀)




この高遠城城主には、信玄時代、弟の信簾や四男勝頼といった重要な人物を配置していることから、信濃の重要な拠点のひとつとして考えていたことが分かる。

武田勝頼が武田信玄亡き後、信勝の後見役として陣頭指揮をとると、高遠城は弟仁科盛信(信玄五男 母は油川夫人 松姫の兄でもある:1557年生-1582年没)に任せている。

しかし長篠の合戦での大敗を喫し、武田家が衰えると、家臣団の内部崩壊が加速する。
織田・徳川方に内通する家臣が現れ、木曽氏、穴山氏といった親戚からも裏切られるようになる。こうなるともう末期症状だ。1582年衰退していく武田を潰しに、織田信忠率いる5万が高遠城を取り囲む。対する高遠城に籠る兵僅か3000。盛信の指揮の元、徹底抗戦して凄まじい抵抗を示すも玉砕。遠城は陥落した。享年26歳の若さであった。

地元の人に慕われていたらしく、その遺体は、近くの山に葬られた。その名は五郎山。
盛信の幼名を取っている。今も献花が絶えないそうだ。

武田の滅亡前を見ると、盛信がもっとも抵抗らしい抵抗をしている。
盛信の死から9日後、勝頼も自刃。勝頼にとってもっとも信頼できたのは
盛信しかいなかったのかもしれない・・・と思う。

盛信の死から2百年以上経ったのち、時の城主は、仁科盛信の霊を祀り、高遠城の神とする神社を本丸近くに建て、今でも多くの方の参拝を得ている。
(藤原神社、別名盛信神社)


時代が時代なら、仁科盛信は名将であり、名君であったかもしれない。