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風林火山紀行(甲斐路編15)・・・武田家終焉 逃避行⑤

2010年08月24日 20時06分24秒 | 旅行
もうだいぶ前の事になってしまったが、4月下旬、勝頼自刃の地、景徳院を訪ねた。
場所は 山梨県甲州市大和町田野389

山梨県内のは富士五湖方面や八ヶ岳方面の寒い地区を除けば4月下旬というとほとんどが終わっているが、ここ景徳院は山の中ということもあって、だいぶ散ってはいるが、残っていた。

さて、この景徳院、1582年7月、武田家滅亡後、家康はが勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院を創建したそうだ。
広厳院(笛吹市)(旧東八代郡一宮町)から武田家臣小宮山内膳の弟である7世拈橋チョウ(人偏+長)因を招き、天正16年(1589年)には伽藍が完成したという。


この景徳院、武田家終焉の地ということもあってか、今でも無念が感じられるような寂しい雰囲気をもっている。散り桜が余計それを演出していた。

訪問した時、地元の方が、お寺の清掃などをしていて、伺ったところ、昔から地元の子供たちも怖がって近寄らなかったということを話してくださった。

自刃といえば、聞こえはいいが、自刃したあと、首をとられ、京都に晒されていることを思えば、実に凄惨な光景であったことだろう。

(景徳院 山門)
県指定文化財となっている。立派だ門だ


(景徳院 本堂)



中には、勝頼、勝頼夫人、信勝の位牌がある。
(位牌)


さて、時は1582年3月11日 いよいよ勝頼最期の時が来た。
天目山棲雲寺を目指すも、前後織田軍勢に挟まれ、ここを(このとき寺は建っていない)
自刃する場所に選ぶ。
この時勝頼は、夫人が北条家より嫁いできているため、北条家は敵方と同盟関係にあること
から夫人に落ち延びて生きるように諭したという。
しかし、夫人は頑なに拒否。ともに自刃の道を選ぶ

敵方が迫り、家臣が時間を稼ぐ。
勝頼は、自刃を前にした切迫した状況の中で、
信勝に最後の親らしいことをしている。

武田家嫡男が元服する時に行う「かん甲の礼」をこの場で行ったのだ。
武田家重宝の御旗(日の丸の旗)をここに生えている松に立てかけ、盾無の鎧を信勝
に着せたのだ。
実に悲しい成人式だ。

勝頼は、信勝の姿を見て、親として子供をこのように導いてしまったことにさぞかし無念であったことであろう。
御旗を立てかけたと言われる松が今も残っている。

(旗竪て松)
実に悲しい松だ。



そして、勝頼、夫人、信勝は自刃する。
その場所が、「生害石」といわれるところだ。
この石の上で自刃したそうだ

(勝頼 生害石)


(勝頼夫人 生害石)
勝頼のすぐ隣に位置している


(信勝生害石)
勝頼夫妻から10mくらい離れていようか?
信勝の生害石がある


勝頼 享年37歳 夫人19歳 信勝16歳だ。

義信謀反により、急遽信玄のあとを任され、天下を目指す宿命を背負わされた勝頼。
実に無念であったことだろう。
そして、信勝 正当な武田家を継ぐべき少年(勝頼はあくまでも後見人)だった。
青春真っ盛り。夫人も含めてあまりに早すぎる最期で、実に悲しくなる。

辞世の句の標識がそばに建っていた
(辞世の句)
武田勝頼「朧(おぼろ)なる 月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端(は)」
北条夫人「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」
武田信勝「あだに見よ たれも嵐の さくら花 咲き散るほどは 春の夜のゆめ」

何と悲しい句だ
実に無念が伝わってくる


実際はどうだったか分からないが、自刃した後、敵はその骸から首を取り、胴体だけが残ったという。
この胴体は、地元の人により葬られたそうだ。
その葬られたところが没頭地蔵尊だ。


そしてその織田方の兵が勝頼達の首を洗った川が
「首洗い池」だ。
池というより川って感じだ。
実に生々しい
(首洗い池)


凡将のイメージもあるが、小生は決してそう思わない。
あまりに運がない悲運の武将だったと思う。
景徳院 勝頼の無念が今に残るお寺だ。
地元では、勝頼一行を慰める為、毎年4月に「武田勝頼公まつり」を行っている。
こちらも今度行って見たい