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夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

新選組紀行① 新選組隊士が眠る街 会津

2012年03月30日 22時00分28秒 | 旅行
久しく時間が空いてしまったが、3月11日 会津に小生はいた。
ここは2度目になるが、前回だけではとても周りきれるものではなかった。

前回、後ろ髪惹かれる思いで会津を後にした。

というのも、どうしても行きたかったが、時間の関係で行けないところが
あったからだ。

今回の訪問の目的の一つは、これだ。




そう 新選組。 

この街には新選組隊士が眠っている。

小生は幕末が大好き。

松陰、西郷、龍馬、高杉も好きだが、どちらかと言うと幕府側の方が好きかな。

とりわけ新選組は特に好き。

そこで新選組に会いに早速散策を開始する。

前日は雪。足場は悪いが、心は軽い。

会津若松市にある天寧寺へ向かう。

ここには新選組局長 近藤勇の墓がある。

(近藤勇)


この近藤勇は山梨にも来ていて、鳥羽伏見で負けた後、新選組の生き残りたちと
勝沼に来て、官軍と戦っているんですな。でも敗れて、千葉の流山で捕えられ、板橋で斬首。
無念の終わり方をしている。よって近藤自身は会津に辿り着くことは出来なかった。
首は京都の三条の河原で晒された後、行方不明。

その首が、この天寧寺の墓に葬られているという。

新選組の鬼の副長 土方歳三がつくった墓と言われている。

(土方歳三 渋すぎ。フランス式の軍服が良く似合う)


(天寧寺の近藤勇の墓)

結構 山の高いところにあって息が切れる。運動不足を痛感

近藤勇は静かに眠っている。
ここに来ると土方の想いがじんじん伝わってくる感じがする。

土方は近藤が捕えられたのち、各地を転戦して会津に辿り着く。

浪人の集まりだった新選組が、天下でこのような活躍が出来たのは、会津藩の支援が大きい。

壬生浪士組だったこの浪人の集まりは、会津藩御預となり新選組が誕生する。

この名前も、会津の殿様松平容保公より賜ったという説もある。

新選組にとって会津藩は大恩があるんですな。

やがて会津藩が朝敵となり、官軍に攻められると、新選組も会津とともに戦うのは
自然の流れだったのだろう。

今から144年前の戊辰戦争激戦地だった会津。

近藤の墓は、その会津の街が良く見える所にある。

(近藤勇が見つめる会津の街)


とても美しい街。雪が降った直後でこれまた格別だ。

近藤さんのところを後にして、新選組のもう一人の大物が眠る阿弥陀寺へ向かう。

その寺には、斎藤一が眠っている。

(斎藤一)


新選組三番隊隊長にして、沖田総司とならぶ剣客だったそうだ。
彼は土方と袂を分かれ、函館にはいかず、会津に残る道を選んだ。
しかし彼はそこで生き残った。
そして彼はやがて警視庁の警官となり、かつて戊辰戦争で戦った敵、西郷率いる薩摩と西南戦争で
戦っている。

斎藤にとって西南戦争は弔い合戦のような意味もあったのかもしれない。

東京にもいたようだが、会津藩出身でもない彼が、死地を会津にしたのは、
彼の会津藩に対する忠義や多くの仲間が倒れた地への想いなのだろうか?

そんな彼は71年の生涯を閉じて、阿弥陀寺で他の戊辰戦争戦死者と共に
眠っている。
(斎藤一の墓)


いろいろな新選組の小説を見ると、剣客で寡黙なイメージで描かれているが、
この寺を訪ねると、彼の会津に対する強い思いを感じることが出来る。


この寺のすぐ近くには新選組記念館がある。


来年の大河ドラマは、綾瀬はるかちゃん主演の「八重の桜」だ。
会津のジャンヌダルクこと新島八重の企画展をやっていたが、
それは後日にしよう。

新島八重関連以外にも、それほど広くはないが、いろいろ展示してあり、新選組の
遺品など貴重なものがある。

(新選組隊士の鎖帷子)


近藤、斎藤だけでなく、多くの新選組隊士が散った街会津。

ちょっとしたタイムスリップが出来る街だ。
また風格のある蔵が多く、高台から眺めても美しいが、街中から見ても
美しい街。
街を見るだけで楽しいところってそうない。
行ってきたばかりなのに、また会津に行きたいとすぐに思ってしまう 
とても魅力あふれる街だ。


再訪 宮城県

2012年03月19日 21時45分42秒 | 旅行
2012年3月10日 仕事と休日、そして有給でちょっとした旅行をした。
選んだ地は、東北 宮城そして福島。
まずは宮城県。

震災で大変な被害を受けた県。

同じ観光なら被災地と以前から決めていた。

先ずは多賀城にて食事。

牛タンを美味しくいただいた。

その店は国道45号線沿い。
この通りは、以前YouTubeで、津波に襲われ、多くの方が被災した様子を見たことがある。

お店の方聞いたところ、店員達は屋根に上って津波が引くのを待ったそうだ。
凄い話だと思う。
幸い店は昼休みに入り、客はいなかったそうだ。




その後 塩釜へ。

何度も放送された塩釜の津波。
YouTubeでも載っているが、観ると怖くなる。

港に行ってみた。とても静かな海。



あれが1年前荒れ狂い、ここ塩釜にも大惨事をおこした海なのか?
と思う。

当初、土地勘のない小生は結構復興しているなと思った。
しかし、写真奥を見てみるとあれは市場だったのか、近づいてみると全く壁がない。
骨組みのような建物だった。津波だという。

また、周りをよく見てみると復興してると思っていた所は、
ただ撤去して整地していて、見た目が良くなっていただけのものだった。
地元の方の話を聞くと更地になっている土地は、1年前カマボコ工場が並んでいたそうだ。
当たり前のことだが、復興と撤去は意味が違う。

そして港近くのガソリンスタンド。こちらも再開したのは昨年11月と言うことだ。
大変なことだったと思う。

そして松島へ。
2年前に訪れた地。
その時魅せられ、また訪ねたいと思っていた地。
その時にはこんなことになろうとは思いもしなかった。


松島に向かう道路には、まだ船が道路沿いにあった。
1年前 信じられない光景がこのあたりはいっぱいだったのだろうと想像すると
気持ちが重くなった。

松島の遊覧船乗り場のレストハウス内では、こんな表示があった。


その高さ180cm。

松島の多くの島が津波をブロックしてくれたせいか、周りに比べれば津波の高さは低かったそうだが、
それでも180cm。小生がすっぽり沈む高さ。
レストハウス内のみならず、写真のように町は凄い状況だったようだ。

(地震直後の松島様子=レストハウス内掲示)




レストハウスの職員の方に聞くと、幸い多くの方が、独眼竜が眠る瑞巌寺に避難し、死者は出なかったようだ。

伊達政宗公が守ってくれたのだろうか。

松島と言えば、牡蠣。
2年前に訪れた時にも頂いた。

そして今回、店がやっていたので再び頂いた。
店の方に聞くと、ここら辺のお土産屋さん含め殆どが1Fは浸水してしまい、2Fへ逃れたそうだ。

(復興のシンボル 牡蠣)


とってもおいしい。復活の味だ。

聞けば、大被害を受けた牡蠣の養殖業者は、全部ではないにせよ昨年11月から復活したそうだ。
これは、地元でとれた復活の牡蠣だそうだ。

そう思うと尊い牡蠣だ。
まさに復興のシンボル。
1日も早く震災前の状態に戻れることを願わずにいられない。


小生も被災地に出来ることをこれからもしたいと思う。

そしてまた被災地のどこかを訪ね、素晴らしいところを発見したいと思っている。

幕末の街 会津

2011年12月21日 20時45分33秒 | 旅行
法政の大学ラグビー選手権への出場をかけた一戦が仙台であり、応援がてら旅行をした。
選んだ街は会津。
今、東北自動車道が無料だし、学生の時から行きたいと思っていた街だ。

ここは会津藩があったところ。
会津藩と言えば、良い悪いは別として最後まで幕府に忠義を尽くし
新政府軍と戦った藩だ。
白虎隊の悲劇でも知られている。

今福島県は、原発事故で大変な状況にある。
戊辰戦争の時に匹敵する国難と言っても良いくらいだ。

そこから離れている会津若松市も原発事故の影響を受けている。

そういう時だからこそ、会津に行きたいと思った。

小生、福島県は全く知らない地。東北自動車道を走っているときは晴れていたのに、
磐越道に入ると雪が・・・

同じ県でもこんなに天気が違うんですな。

天気はあいにくのみぞれだったが、会津はとても綺麗な街だ。
観光MAPを見ると、戊辰戦争の史跡がいっぱいで、新政府軍との激戦を今でも感じることができる。

ちょっとしたタイムスリップの気分だ。

とても1日では周りきれない。

まずは、会津の殿様に挨拶をということで、
松平容保公の墓所に行った。

(会津藩最後の殿様 松平容保公)


孝明帝から絶大な信頼を得ていたが、明治帝を新政府側にとられ、
いつの間にか賊軍の将に。悲劇の殿様だ。
(松平容保公の墓)


143年前の会津は戦場だったが、今は歴代の藩主と共に、静かに眠っている。

そして旧滝沢本陣。
(旧滝沢本陣)



歴代会津藩主の参勤交代や領内巡視、藩祖保科正之をまつる土津神社の参詣の際に休息所として利用されたそうだ。

戊辰戦争の時には、藩主松平容保の陣屋となり、白虎隊も容保の護衛としてここから出陣したそうだ。

座敷には当時の戦闘による弾痕や刀傷などが残っている。戊辰の傷跡がいまだに残る生々しい史跡だ。

すぐそばには飯盛山がある。
ここで16,17歳 青春真っ盛りの白虎隊士が、燃える城下町や落城寸前の会津若松城を見ながら壮絶な自刃をしたところだ。
(白虎隊士の墓)
 

とても悲しい山。今でも無念の想いが伝わってきそうな感じ
総勢20名が自刃。1名死にきれず生き残った。
(飯盛山から見る会津若松城=写真真ん中あたりに見える)

白虎隊士が見た戦場の会津はどのようにここから見えたのだろうか?


そして飯盛山から3km程度あろうか? 会津若松城へ。

赤っぽい瓦のとても美しい城。

戊辰戦争の時、会津軍は籠城した。
その城に、新政府軍は、アームストロング砲をしこたま打ち込んでボロボロにし、落城。
降伏したのち、取り潰されたので、現在の城は、昭和40年に復元されたそうだ。

桜の木がたくさんあったので、春にはさぞかし美しい事だろう。
会津武士と共に散った会津若松城。
戊辰戦争の象徴として会津の歴史を伝えている。
城の中は、会津の歴史や産業、戊辰戦争の様子など貴重な資料が展示されていた。



とても1日では見きれなかった。

今、復興で、観光客を呼び込もうとしている為か、宿はとても安く、また素晴らしいもてなしをして頂いた。
感謝 感謝です。

会津の城下町が一望できる温泉も楽しめた。

食事もおいしく、一日だけでたぶん太ったと思う

行ってきたばかりなのに、また会津に行きたい。そしてもっと会津を知りたいと思っている。

とても素晴らしいところだった。

最後に、福島県が一日も早く復興することを願うばかりだ。

小生も素晴らしいところだとわかったので、また家族や友人達とここを訪れたいと思っている。

そういえば、再来年の大河は、綾瀬はるかちゃん主演の「八重の桜」。

幕末会津のジャンヌ・ダルクと言われる新島八重(旧姓山本)の話だ。

それまでにもっと勉強して、会津の地を踏みたいと思っている。

写楽展

2011年05月29日 21時15分48秒 | 旅行
久しぶりに 東京国立博物館に行ってきた。
気がつけば「写楽展」が6月12日で終わってしまうので、
慌てて観に行った感じだ。


小生 この江戸時代の謎の浮世絵師が凄く好きで、約140点もの作品が
集まるとあって、実に貴重の機会だった。

あいにくの大雨であったが、世の中には小生と同じように写楽を愛する人が
多いようで、凄い混雑だった。

東洲斎写楽は、1794年5月 彗星の如くデビューし、年をまたいで
わずか10ヶ月で忽然と姿を消した。
本名、出生地、生年月日 没年 全て不明。
実にミステリアスな人物。それでいて、殆どの日本人が一度は
見たことがあるような素晴らしい絵を多く残した。
浮世絵の深い知識がある訳ではないが、純粋に素晴らしい絵と思える。

この企画展には、写楽だけでなく、美人画の喜多川歌麿をはじめとした
写楽と同じ時代を生きた浮世絵師の絵も展示されていて実に良かった。
(喜多川歌麿作)



また、作者は違えど同じ役者のモデルを描いていた比較の展示は、
写楽の天才ぶりというか、独特の色、アングル、姿、表情など独創性が素人の小生
にもよくわかる。




写楽の作品はすべて蔦屋重三郎という名プロデューサー
の店から出版される。
いきなり28点もの「大首絵」を出し、衝撃のデビューを果たす。
写楽は僅か10ヶ月の活動期間なのに、
1期~4期と言う風に画風が変わって行く。
我々が知る写楽の有名な絵は初期のものが多いのではないか?
しかし、2期ごろから全身像に画風を代える。

何故そうしたのか? 
大首絵で観せた圧倒的な迫力がなくなり、徐々に光を失っていくのが小生にも分かる。

画風も他の浮世絵師とあまり変わらず、色使いや線も単調になっていく。
画風のチェンジはプロデューサーの意向で自分の描きたい絵と違う絵を
書かされたのか?
それとも写楽自身の挑戦だったのか?
いろいろと想像が出来て楽しい。

しかし、この路線変更は失敗で、写楽の絵は徐々に売れなくなって行く。
挑戦が失敗に終わり落胆したのか?
意に沿わない絵を描かせられて、やる気を失ったのか?
はたまた病気や怪我で絵が書けなくなったのか?
歴史は僅か10ヶ月で彼を舞台から消してしまう。

しかし、彼が素晴らしい絵を残したことは事実で、
後の西洋人に評価され、他の浮世絵と同じように海外に大量に流出してしまう。

ドイツの美術研究家ユリウス・クルトは、写楽をレンブラント、ベラスケスと
並ぶ世界三大肖像画家と賞賛したこという。これがきっかけで、大正時代頃から
日本でもその評価が高まったそうだ。

それにしても今回の「写楽展」 実に多くの観光客が来ていたが、
外国人が凄くいた。外国人も関心があるんだなと感じた。
日本人の作り出した浮世絵という文化を、海外の人が認めている。
日本人として誇りに思う。

増上寺

2010年10月25日 19時56分23秒 | 旅行
少し前になってしまったが、友人に芝にある増上寺を案内してもらった。

恥ずかしながら、初めて参拝したわけだが、まず、大きな山門に驚いた。

(増上寺 東京タワーと合う)


それもそのはず、ここは、上野寛永寺とならぶ徳川家の菩提寺だから当然だ。

この日は、残念ながら
しかし、港区民祭りが開かれており実に賑やかだった。

この日は、将軍家のお墓が特別に公開されていた。


ここには、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の将軍と、
皇女和宮のような将軍の妻も眠っている。

(14代家茂公の墓)


(家茂公正室 皇女和宮の墓)


小生、幕末の時代は特に好きな時代。

その中で、徳川将軍の中でも比較的マイナーな家茂公は、好きな将軍の一人だ。
若くして傾きかけた幕府の将軍となり、第2次長州征伐のさなか、21歳の若さでこの世を去った悲劇の将軍だ。
そして和宮もまた、朝廷と幕府の橋渡しとして降嫁させられた悲劇の人物だ。
いわゆる公武合体の象徴で、婚約者がいながら、破棄され、家茂公に嫁いだ。

まさに激動の時代の悲劇と言える。
ただ、和宮にとっての救いは、家茂公が非常に優しい方だったようで、仲は良かったということだ。

家茂公は、また生き物が好きで、鳥や金魚などをかわいがったようだ。
しかし、激動の時代は、この心優しい青年を長く生かさなかった。
僅か21歳。あまりにも早すぎる死であった。

徳川慶喜には手厳しかったあの勝海舟も、この将軍の聡明さを褒めている。
残念ながらその能力を発揮することなく、去ってしまった。

そして、余りにも早く心のよりどころを失い、残された和宮も気の毒に思う。


家茂の死に詠んだ和宮の歌が、時代を経た今でも気持ちが伝わってくる。

この歌は、家茂が第二次長州征伐に出向く時に、「凱旋の土産は何がよいか?」と和宮に問うた時、西陣織を和宮は所望したという。

しかし、家茂は凱旋することなく、西陣織だけが形見として和宮の元に届けられた。
和宮は泣いたという。
そして和歌をそえて、この西陣織を増上寺に奉納したそうだ。

「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
何と悲しい歌だ。
その和宮も、幕府が崩壊して約10年後の1877年 わずか31歳でこの世を去る。
和宮の遺言「将軍のお側に」がもとで、増上寺に眠っている。