4月15日 円光院を訪れた。
円光院は、甲府市岩窪町にある三条夫人(1521年?月生 - 1570年8月29日没)が眠るお寺だ。
三条夫人は、武田晴信の正室。
三条夫人は、1521年左大臣三条公頼の次女として生まれた。つまり公家の姫君だ
1536年7月に晴信と結婚したらしい。15歳で京から山国甲斐に下ってきた。
僅か15歳、華やかな京から、誰も知ってる人がいない、こんなに離れた山国に嫁いだことは
かなり辛いことであっただろう。
そんな三条夫人も、晴信との間に3男2女の5人の子供を産んだ。
三条夫人と言えば、小説やドラマなどでは、諏訪御寮人のヒロイン役とは対照的に、プライドが高く、それでいて嫉妬深く意地悪な姫として描かれ、嫌なイメージを持ってる人も多いのでは
しかし、これって全く根拠のないことで、名誉毀損ではって思う
嫌な姫なら晴信との間に5人も子は出来んよな
快川国師も以下のように語っている。
ただ、5人の子供に恵まれたものの、多くの子が不幸で、子に対する悲しみも多かったことは推察できる。
長男義信=晴信と対立して自刃、次男=盲目、三男=早逝、長女=北条氏政室も、同盟決裂により離縁され翌年27歳で逝去。次女=穴山信君に嫁ぐも、穴山 後に武田家を裏切る。
なんて不幸な子供達だ
特に長男義信の自刃はかなり辛かったであろう。その3年後、三条夫人は50歳で逝去している。
15歳で京都から甲斐の国に嫁ぎ、5人の子供を育てた三条夫人。決して世間で言う、意地悪な女性ではなく、辛いことも懸命に乗り越え、夫に献身的尽くした女性だったと考えるのが現実的だと思う。
そんな三条夫人は今、静かにこの寺で眠っている。
円光院は、甲府市岩窪町にある三条夫人(1521年?月生 - 1570年8月29日没)が眠るお寺だ。
三条夫人は、武田晴信の正室。
三条夫人は、1521年左大臣三条公頼の次女として生まれた。つまり公家の姫君だ
1536年7月に晴信と結婚したらしい。15歳で京から山国甲斐に下ってきた。
僅か15歳、華やかな京から、誰も知ってる人がいない、こんなに離れた山国に嫁いだことは
かなり辛いことであっただろう。
そんな三条夫人も、晴信との間に3男2女の5人の子供を産んだ。
三条夫人と言えば、小説やドラマなどでは、諏訪御寮人のヒロイン役とは対照的に、プライドが高く、それでいて嫉妬深く意地悪な姫として描かれ、嫌なイメージを持ってる人も多いのでは
しかし、これって全く根拠のないことで、名誉毀損ではって思う
嫌な姫なら晴信との間に5人も子は出来んよな
快川国師も以下のように語っている。
ただ、5人の子供に恵まれたものの、多くの子が不幸で、子に対する悲しみも多かったことは推察できる。
長男義信=晴信と対立して自刃、次男=盲目、三男=早逝、長女=北条氏政室も、同盟決裂により離縁され翌年27歳で逝去。次女=穴山信君に嫁ぐも、穴山 後に武田家を裏切る。
なんて不幸な子供達だ
特に長男義信の自刃はかなり辛かったであろう。その3年後、三条夫人は50歳で逝去している。
15歳で京都から甲斐の国に嫁ぎ、5人の子供を育てた三条夫人。決して世間で言う、意地悪な女性ではなく、辛いことも懸命に乗り越え、夫に献身的尽くした女性だったと考えるのが現実的だと思う。
そんな三条夫人は今、静かにこの寺で眠っている。
江戸時代に石棺が出土し、さらに法名の一致から信玄の墓だったことが判明したとか
信玄は3年間死を隠すにあたって三条夫人の眠る円光院を指定した事ともピタリ合致しています(当時あのあたりは円光院の管轄だったそうで)
この三条夫人の肖像画を見てハッと思い出しました
風林火山の第六話で三条の方の八初登場時、輿の中から遠くに見える富士山に向かって手を合わせていましたが、あれはこの肖像画から来ているのですね
三条夫人といえば紺野美沙子さんのイメージがどうしても強いですが(美人でしたしw)でも、この肖像画を見る限り池脇千鶴さんの方がイメージ的には近い感じを受けますね