景徳院の道路を挟んだ駐車場の向こう側には日川という川が流れている。
この川にも勝頼一行の悲劇が流れ込んでいる。
1582年3月11日 勝頼一行の内 勝頼室(北条夫人)の侍女16名もの女人が
景徳院の前に流れるこの川に身を投じた。
この慰霊するための碑が建っている。
この場所を「姫ヶ淵」という。
(姫ヶ淵)

(身を投じた日川)

現在、この日川の上流では発電用に取水しているので、流れはゆるいが、
当時はもっと急流であったと思う。
武田家の悲劇を今に伝える悲しい川だ。
そしてこれより上流でも悲劇の史跡がある。
勝頼が目指した天目山も先回りされ、その敵が上からも攻めてきた。
勝頼自刃の時間稼ぎのため、狭い道で仁王立ちする武将がいた。
土屋 昌恒(1556年生-1582年4月3日没)だ。
織田の大軍を寡兵で相手にするため狭い崖道を利用した。
片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、残った片手で戦い続けるような狭い場所だ。
ここで昌恒は奮戦し、織田の兵を斬っては下を流れる日川に蹴落とし、その数 千にも及んだと伝わることから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。
故にこの川が蹴落とされた兵の血で、三日間血に染まったということから三日血川とも呼ばれている。
そして昌恒もここで討ち死にした。
(片手千人斬り)

(三日血川)
結構傾斜がある

今でこそ道路は整備され、車も通れるが、当時はかなり道も狭く、崖道だったようだ。
姫ヶ淵そして片手千人斬り。
この日川 武田家の悲しい最後の川だけに、今みても無念の想いが残っているような
感じがする川だ。
この川にも勝頼一行の悲劇が流れ込んでいる。
1582年3月11日 勝頼一行の内 勝頼室(北条夫人)の侍女16名もの女人が
景徳院の前に流れるこの川に身を投じた。
この慰霊するための碑が建っている。
この場所を「姫ヶ淵」という。
(姫ヶ淵)

(身を投じた日川)

現在、この日川の上流では発電用に取水しているので、流れはゆるいが、
当時はもっと急流であったと思う。
武田家の悲劇を今に伝える悲しい川だ。
そしてこれより上流でも悲劇の史跡がある。
勝頼が目指した天目山も先回りされ、その敵が上からも攻めてきた。
勝頼自刃の時間稼ぎのため、狭い道で仁王立ちする武将がいた。
土屋 昌恒(1556年生-1582年4月3日没)だ。
織田の大軍を寡兵で相手にするため狭い崖道を利用した。
片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、残った片手で戦い続けるような狭い場所だ。
ここで昌恒は奮戦し、織田の兵を斬っては下を流れる日川に蹴落とし、その数 千にも及んだと伝わることから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。
故にこの川が蹴落とされた兵の血で、三日間血に染まったということから三日血川とも呼ばれている。
そして昌恒もここで討ち死にした。
(片手千人斬り)

(三日血川)
結構傾斜がある

今でこそ道路は整備され、車も通れるが、当時はかなり道も狭く、崖道だったようだ。
姫ヶ淵そして片手千人斬り。
この日川 武田家の悲しい最後の川だけに、今みても無念の想いが残っているような
感じがする川だ。