原 爆 展
高校二年の時(1952年),先輩から文化祭で「原爆展」をやるので,手伝って欲しいと頼まれた。「時事問題研究会」とかいうサークルの企画で,原爆による被害の実態を示し,核兵器の廃絶を訴えることを目標にしていた。わたしは意義あることと考え,参加させてもらうことにした。
核兵器の原理,核戦争の危険性などについて,仲間内で資料を持ち寄って学習し,展示物の作成に取り掛かった。わたしは,広島・長崎の被害を伝えるグラビア誌から,写真を選んで切り取って,模造紙に貼り付ける仕事を受け持った。
展示は,公開の前に学校側の点検を受けることになっていた。展示物の一つ,「米ソもし戦わば」というような題の図が,学校側の目に止まった。模造紙に描いた世界地図上に,当時のアメリカとソ連の軍事基地を記し,さらに両国が保有する核兵器の量を表示し,核戦争の危機を訴えたものだった。
学校側からこの展示物の撤去が命令された。理由は,展示の内容が政治的であるということだった。私たちには,なぜこの内容が政治的であるか,理解できなかった。しかし,これを撤去しなければ,教室の貸与を取り消すと言われて,やむを得ずその図表を展示から外した。
図表をはずした後に,次のような文章を書いた模造紙を貼りだした。
「わたしたちは,この展示によって,原爆や水爆がもたらした被害をお示しするだけです。これを見て,どうするかは皆さんご自身がお決めください。」
展示を訪れる人は非常に多かったように記憶している。熱心に質問してくる方もいた。感想文には,「これを機に核兵器反対の運動を」と書いたものが数枚あった。
この文化祭の前に,授業料の値上げに反対しようと,長野高校と松本深志高校の自治会長が連絡をとったことが分かって,学校側がそれを止めさせたという事件があった。
また,この時期は,朝鮮戦争の激化,国内におけるレッドパージ。警察予備隊の発足。講和条約の締結といった時代背景もあり,そのせいもあってか,学校は生徒の政治的な動きに神経質になっていたかもしれない。それにしても,なぜあの図表が政治的だったのか,いまだに理解できない。
若者には,精一杯核兵器の廃絶を叫んで欲しい。
2006年3月撮影
寂 寥
高校同期のT・T君から電話があり,O・G君が7月1日に亡くなったことを知った。
彼は,秀才が集う東大教養学部教養学科に進学し,卒業後は商社に勤めた。
わたしが1980~81年にパラグアイに行った時,彼は商社の中南米地区を統括するリオデジャネイロ支店長の要職にあった。
家族がパラグアイに遊びに来た時は,リオデジャネイロに立ち寄り,O君の接待を受けた。どこに行きたいか聞かれ,コルコバートの丘からリオの夜景を眺めたいといったら,死にたいのかといさめられた。
わたしが任務を終えて帰国する途次で,再び彼にお世話になり,劇場でのサンバの演奏を楽しませてもらった。
その後は高校の同期会で会うだけになったが,いつもユーモラスな年賀状を頂戴した。
語学の才に恵まれ,英語,フランス語,スペイン語,ポルトガル語を良くし,退職後は翻訳の仕事をしていた。
晩年は体を壊して,同期会にも顔を出せなくなった。
温厚な人柄で,友人皆から慕われていた。リオでお世話になったお礼に,わが家に招待をと口にしながら,果たせなかったことは非常に心残りだ。
ただひたすらに,ご冥福をお祈りする。
STOP WAR!