1960年の今日,国会構内で東大文学部学生の樺美智子さんが亡くなった。死因はいろいろ取り沙汰されているが,当時のわたしは心情的に機動隊の暴行によると信じていた。
5月20日の衆議院における安保改定の単独採決を契機として,国会への抗議行動が激化していった。わたしも学生自治会の一員としてデモに積極的に参加した。新安保条約によって,日本がより積極的にアメリカとの軍事同盟にコミットしようとすることへの不安,そし何よりもこのような国の命運を決することを単独強行採決して,自然成立で可決させようとする非民主的な暴挙への怒りが,わたしを行動に駆り立てていたように思う。
連日のデモで「これがほんとのデモクラシ」などという駄洒落が交わされていたが,わたしは6月15日当日,デモクラシに疲れて,夕方から下宿で眠り込んでいた。夜の7時過ぎに目が覚めてつけたラジオが,デモ隊が国会構内に入り,女子学生が一人死亡したと報じるのを聴いて,矢も楯もたまらない気持ちになり,一人で国会へと向かった。雨が降っていた。
日比谷公園の近くまで行くと,群衆と警官隊が入り混じっていて,訳も分からず人の走る方角へと進んでいったら,警官の隊列を追っかける形になっていた。たちまち数人の警察官に取り巻かれ,警棒で殴られ始めた。持っていた傘を頭にかざして警棒を防いでいたら,警官の一人がわたしへの暴行を制止し,「どうしてこんなところにいるんだ。あっちに行きなさい。」と解放してくれた。右往左往したが,結局デモ隊には会えず,なすこともなく下宿に帰った。レインコートを脱いだら,血がべったりとついていた。
翌日,東大全学の授業は中止になり,昼から樺さんの追悼集会が開かれた。集まった教職員,学生で,安田講堂前の広場から銀杏並木が埋め尽くされた。国会への追悼デモには茅総長が先頭で,デモ隊列の先頭が御茶ノ水駅に達した時に,最後尾がようやく正門を出るところだった。
あれから60年。日本は安保条約の下で経済を発展させ,幸いなことに国際紛争で直接的な武力行使を行うことなく過ごしてきた。しかし,安保関連法や自衛隊法の改定によって,自衛隊の活動する自由度は大きくなってきている。
自分たちがどんな状況に取り巻かれているのか,私自身も改めて見直したいと思う。