すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

面白さは自分で見つける

2020年11月05日 | 読書
「人から『面白い』とすすめられただけで、『面白さ』がなくなります。『面白い』ものは、自分で見つけるから『面白い』のです。」


 作家森博嗣らしい言葉である。この作家は「今まで読んだ本や観た映画で、『面白さ』が際立っていたものは?」という問いに「他人に影響を与えたくないので書かないようにしている」と応え、上のような本質論で結んだ。確かにそうだ。仕事上「読書紹介」などを続けているが、それはあくまで出会う機会の拡散だ。


 そう言えば、先週ある席で向かいに座った中学生が「鬼滅は、ブームに乗り遅れたので、あまり読まない」というようなことを喋っていた。こうなると、内容というよりファッション的な要素なのかなと思ってしまう。魅力を自分の感覚で捉えられるかが肝心であり、そう思うと報道や宣伝はある面障害に見えてくる。



 年齢相応に?「鬼滅の刃」については作品というより、社会現象としての興味が強い。コロナに次いで今年を表すワードになることは確かだろう。週刊誌を見ていたらコーナー名として「自滅の刃」と出ていたのには笑った。しかし、このコピーは既に7月頃、プロ野球某球団に対する新聞見出しとして使われていた。


 それにしても上手い。他の駄洒落は出来ないかと逆引き広辞苑で「〇めつ」という語を拾ってみる。そもそも「滅」なので、意味は似通ってくるだろう。「死滅」「破滅」「不滅」このぐらいは知っていた。「非滅」「磨滅」「摩滅」は使わないし洒落にするには難しい。では「〇いば」はどうだ?使い出がないものばかりだ。


 無理矢理組み合わせて「不滅の名馬」…ごく普通の語だ。しかし競馬を知っていれば、無敗の三冠馬が牡牝二頭誕生し、史上初のGI8勝馬が誕生したメモリアルイヤー。中継した「磨滅の台場」(フジTV)は少し潤っただろうか。いや、こんなことで面白がっている自分の脳みそは、今「死滅の海馬」状態だろうか。

少し変わった作家あります

2020年11月04日 | 読書
 この作家の面白さについては、去年発刊の新書を読んだメモを6月に残している。しかし、その小説は書名にあまり興味が湧かなかったせいもあり、読んだことはなかった。今回目にした小説は、新書版でこんな表紙絵になっていて関心を持った。寝室読書として数日で読了したが、独特の筋立てがなかなか面白かった。


『少し変わった子あります』(森博嗣  文藝春秋)



 大学教授の主人公が後輩から勧められた料理店を訪れる。この店が変わったシステムとなっており、訪問するたびに不思議な世界に入り込むような感覚になる。事件や突飛な出来事はないが、主人公の心理が巧みに描かれて、物語に惹きこまれる雰囲気を作りだす。この作家自身と思われる要素がふんだんにあった。


 エッセイ本に書かれていても不思議でないフレーズが所々に登場する。「芸術が成立する条件とは、第一に、それが人間が成したものであること。第二に、無駄な消費であること。これが私の定義である。」…こんなふうに言い切れる生き方はそうそうない。明確に向き合ったとき、自分にとっての芸術が確かになる。


 例えば「やる気」という語一つとっても、主人公にこう語らせる。「やる気なんてものは、誠実な仕事にはまったく邪魔な存在だよ(略)どんなにやる気があったって、人間は数メートルしかジャンプできない。人を月まで送ったのは、そんな単純でいい加減な意志ではなかったはずだ」…アニマル浜口に聞かせたい(笑)。


 こうした主人公の物言いは、まさに作家自身の考えに違いない。一風変わった料理店との出会いを通して、現実と幻想の境目について考え、日常の深層に目を向けていく過程はどこかスリリングな結末を期待させる。ところがこの小説にも当然仕掛けがあって、おそらく読者の大半は最後にあっと思ってしまうだろう。

手垢のついた語彙よりも

2020年11月03日 | 読書
 古本屋で見つけ、風呂場読書には手ごろと買い求めた。2006年刊とあり、その頃のTVバラエティがもとになっている。言語系のトリビアのようなものだな。タモリを中心にタレントたちに対してクイズを出し、金田一秀穂、町田健両先生が解説する形だったんだろう。一度も観た記憶はないが、中身は結構面白かった。


『タモリのジャポニカロゴス 国語辞典』(フジテレビ出版)


 「第三章 使いこなしたい日本語」が実に実に…。初めは敬語で「夕方過ぎの会社廊下でバッタリ社長と遭遇」したら、どう挨拶するかという問いだ。正解は「『社長、どうも…』と頭を下げる」なんと!金田一先生によると「夕方、偉い人にあったときの挨拶は存在しない」らしい。「言葉を濁す選択」がベストとは…。


 さらに驚くは、「総理大臣と会食」という設定で、その席で総理のそばにある醤油を取ってほしい時の言い方だ。どんな敬語を使うか悩むが、正解は「『総理…醤油…』とほのめかす」とある。驚愕である。この解説も深い。「偉い人への依頼は失礼に当たる。相手側の自主的な行為になるよう気づかせる」それが敬意という。



 「部長の怒られて謝らなければならない時、あなたはどんな敬語で謝罪の深さを表しますか」という問いに対して、語の種類、形容などいくつか予想するものはあったがここにも意外な答えが用意されていた。「部長、すい~(息を引く音)すみません」…「引き音」で深い反省の思いを伝える日本独特の表現だという。


 もちろん「ふさわしい言葉」「言葉の選び方」の知識満載の一冊だったが、私が感じ入ったのは、状況に照らし合わせる日本語、日本的態度の柔軟性だ。どんなに意味が深かろうと、普段よく使われる語はだんだんと価値が下がっていく「価値逓減の法則」にも納得した。手垢のついた語彙より場の把握こそ、核となる。

一事が万事ではあり…

2020年11月02日 | 雑記帳
 あきれるほどの物忘れだ。5月に読んだ森絵都の『できない相談』(筑摩書房)をまた借りてしまった。それでもこの一冊は短編集なので、寝室読書にはもってこいだ。前回は落語の小咄集のようだと書いたが、読み直して想ったのは、帯にある「日常の小さな抵抗の物語」から派生する「一事が万事」という慣用句だ。


 「東京ドームの片隅で」で描かれる恋人の見通しの利く動き、お嬢様の「破局の理由は…」で語られるあるナンバーへのイメージ、「羊たちの憂鬱」での女友達同士の固有の口癖…「一点だけ見れば知れてしまう全体」は題材になりやすいか。これは自分の日常にも…。広言できないがいい加減な一事をいつも嫌悪する。



 最近ある集まりで、近くに座った人の靴下の裏が見え、そこに小さな穴が開いているのが目に入った。面識のない方だったが、なんとなく性格や人柄をそこで決めてしまっている自分に気づく。単に身に着けるものには無頓着、いやたまたまそうだったかもしれないのに、勝手に思い込んで、慣用句を適用している


 ところが同じ席で、数時間後ある重大なことに気づく。自分の靴下も穴は開かずとも、ほつれた繊維がだらしなく伸びているではないか。しかも二か所。切る道具もなく、そのままにするしかない。これを近くの人が見たらどう思うのか…。「一事が万事」かあ。ああこれは「人のふり見て我がふり直せ」ではないか。


 ここでもう一度本に戻る。やはり「piece of resistance」さえ持っていれば、諺ごときに振り回されることはないと思い直せる。もともとあまりいい意味ではなかった「こだわり」が、「価値の追求」という面の強調になったように、一つでも二つでも石のような意志を持っていれば、些末な一事など目に入らぬものだ。

令和二年神無月末

2020年11月01日 | 雑記帳
10月26日(月)
 休館日。天気は微妙だが上の孫を連れてアルカディア公園へ。三輪車を積み込み、堤周りの道を思いきり走らせる。午後、注文しておいた来年からの5年日記が届く。久々の「ほぼ日」バージョンである。TVで録画しておいたアニメ映画『鬼滅の刃』を少しだけ見る。この爆発的ヒットの理由…まだ理解できない。



10月27日(火)
 朝、職場へ行くと問い合わせなどの電話が連続してかかってくる。少し慌ただしい。図書館だより小学校版を仕上げる。今日のお昼のおにぎりは、頂戴したコシヒカリ。いつもの米とはやはりちょっと違う。午後、中学校で実施する出前講座計画を確認。少し早く退勤して隣市で贈答用の酒を購入する。届けなくては。


10月28日(水)
 中学校の計画に沿って依頼した講師の方々へ連絡する。それぞれ時間を作ってくれ、3人分打ち合わせを終了できた。様々な業種の方に会うと「仕事」とは何かと今さらのように考える。いい活動になるためバックアップしたい。夕刻からは館内で定例の活動あり。ブログに即書き込んだ。この調子で続けていきたい。


10月29日(木)
 朝、隣家の親父さんの訃報を聞き挨拶に出向く。さて今日は今まで義理を欠いていた知人にお祝いの届け物をすることを決めていた。雨が降ったり日が照ったり変な天気だが、山間部へ向かいようやく用を果たす。その後、久しぶりに実家に顔を出し芋の子をもらう。美味しい季節が来た。様々な色模様で秋が深まる。


10月30日(金)
 午前は、図書館だより11月号を子ども園や図書館協議会委員へ届ける。昨日、私用のついでにいくつか処理したので1時間半もかからず終了。昼食後すぐに、出前講座の残った講師一人と打ち合わせが出来て、めどがつく。中学校に連絡して来週の打ち合わせ期日を決め、準備に入る。夕刻から隣家の納棺に参列する。



10月31日(土)
 控え目ながら世の中はハロウィン。本来ならハルオウィン(晴夫WIN)と勝手に名づけたラッキーデイだ。しかし今日はお世話になった隣家の葬儀参列。故人の冥福を祈る。弔いに必要なのは、その心に違いないが、改めて「言葉」の大切さを感じる。何をどう伝えるべきか、自分の関心はやはりそこに寄せられる。