すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

『反教育論』を読み続ける①

2019年10月10日 | 読書
 刺激的な一冊だった。読むきっかけは、題名もそうだが著者が秋田県南出身者と知ったことだ。かつてある雑誌でエッセイを読んでいたが、単著は初めてである。精神科医として見た社会や教育のあり方に対する分析は新鮮だった。副題は「猿の思考から超猿の思考へ」。サル年生まれのサルは少し学習できた気がする。


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『反教育論』(泉谷閑示 講談社現代新書)


 直接学校教育に携わっていた頃「こんな教育のあり方で、社会を生き抜くたくましい力は育つのか」という思いは、常々持っていた。口にもしてきた(自分の無力を棚に上げてと認めつつ)。著者が記す「生物として脆弱と言わざるを得ないような『優秀さ』を躍起になって育成している」風潮は、依然として続いている。


 第一章「真の思考とは何か」。著者は「考える」ことの基本の第一に「懐疑的精神」を挙げる。学校教育にあっても「なぜか」「はてな」はキーワードだが、それらは現実的に学びの中心として機能していない。結局のところ、知識偏重、処理能力優先で組織され推進されているのが現実であり、家庭教育にもそれは及ぶ。


 著者は「考える」のもう一つ重要な側面を提示する。それは「即興性」である。これは懐疑的精神以上に軽視され、排除されてきたことだ。科学的・合理的という言葉のもとにシステム化され、準備・計画されたように進むことの価値が高くなる。そして、それを越えるものは「想定外」とされ、弁明の道具とされる。


 「わがまま」という語の本来の意味を噛みしめるべきではないか。自分勝手さを封じ込めようと躍起になっていることは、子どもの好奇心や好き・嫌いという心の叫びに目を背け、懐疑的精神や即興性という「野性的英知」を奪っているに違いない。そのツケが、様々な「想定外」の出来事となって降りかかっている。

サルが書くオオカミの事②

2019年10月09日 | 読書
①よりつづく~
 中島みゆきの詞にも「なんとかしようと思っていたのに」というフレーズがあり、ナンパをイメージさせる。ただそれは限られた一部分であり、語られているのは社会や時代の閉塞感であることは間違いない。それを打ち破る存在としての「オオカミ」になりたいのである。一見、破壊的、略奪的願望に見えるが実は…。


 オオカミを「悪」の象徴として捉えている人は多い。しかし研究によると想像するよりかなり知的な動物であり、しかも「狡猾で打算的なものとは、ずいぶん質が違う」という。さらに「オオカミの社会は闘争ではなく、協力によってなりたっている」とまで記されている。かなり誤解され嫌悪対象とされてきた。


 オオカミ研究から導き出されたキーワードは「好奇心」「探求心」「即興的で柔軟な知恵」である。「好戦的」「狂暴」といったイメージとはほど遠い。それは自らの獣性、例えば貪欲、肉欲、欺瞞といった罪を背負ってくれる対象を求める人間の本性がそうさせたのだろう。邪悪な心はオオカミの真の姿に眼を背けた。


 その歴史はキリスト教的世界観に端を発するようだ。詳しくはさておき、オオカミの持つ精神性を表わす小説があるという。それはヘルマン・ヘッセが著した『荒野のおおかみ』。そこで描かれるオオカミの「魂」とは、「社会によって決して飼い慣らされることのない鋭い批判力と知性」を備えているとされている。


 思い入れ読みと笑われそうだが、『狼になりたい』と若者が立ち上がれば、世界は変えられるかもしれない。古来日本では「オオカミ」とは「大神」であった。しかし実際の狼も海外からのウィルスと毒物により絶滅させられた。言うまでもなく教育はオオカミ性を排除している。その筋で語られたのが『反教育論』だった。

サルが書くオオカミの事①

2019年10月08日 | 読書
 今読んでいる『反教育論』(泉谷閑示)という新書のなかに「われわれの内なるオオカミとサル」と題された章があり、強く触発された。全体の感想は後日にして、ともかく今までのオオカミに対する印象がかなり揺さぶられた。動物の生態等に詳しい人以外であれば、似たり寄ったりかもしれないと書き出してみる。


 動物園で実際のオオカミを見たことがある。また当然小さい頃から写真や映像で目にしているが、それほどの威圧感は感じない。しかしイメージとして恐ろしさが付きまとっているのは常だ。その多くは、童話や物語の世界で印象付けられたといっていいかもしれない。オオカミが人を襲い、食べる場面がよくあった。


 辞書でオオカミを引いてみると、第二義の「表面はやさしそうだが、すきあれば襲いかかろうとする恐ろしい人」(明鏡)は、どれも共通しているだろう。例語「送り狼」は、今や懐かしい響きがある。石野真子のヒット曲『狼なんてこわくない』♪あなたも狼に変わりますか♪のフレーズが微笑ましく思い出される。


 歌つながりで浮かぶのは『狼になりたい』という中島みゆきの名曲だ。♪夜明け間際の吉野家では♪と始まるこの曲を、二十代の頃何度も聞いた。いつぞやカラオケで唸ったこともある。サビは♪狼になりたい、狼になりたい ただ一度♪。この狼は、石野真子が歌う「狼なんてこわくない」と一緒に語っていいか。


 どちらの曲も若い男女を登場させている。そして狼という語を一種の欲望の象徴として使っている。しかし阿久悠の書いた「狼」と、中島みゆきの「なりたい狼」とはその質が違うだろう。野生の質や幅が大きく異なる。『反教育論』で取り上げられたのは、後者だ。「内なるオオカミ」の意識とは陳腐なものではない。
~つづく~

なんやかんやと秋満喫

2019年10月07日 | 雑記帳
10月3日(木)
 相変わらずの熊情報はあるけれど、秋の里山の空気に触れたくて、キノコポイントへ向かう。昨年見つけた峠途中の斜面である。しかし今年は草の背丈が高く、藪をかき分けるのが大変。段々とこんな感じで人が近づかなくなるのか…。ただ、あまり入らないから茸は残されていて収穫あり。喜ぶべきか、悲しむべきか。


10月4日(金)
 午前中に「ふるさとCM」のメイキングを館内で撮影し、その後データを役場担当者にコピーした。肩の荷が少し軽くなった。図書館は今月に大きな催しがないが、来月以降のあれこれのために着実に準備を進めるべき期間だ。仕上げなければならない原稿を片付けながら、細かな連絡や処理案件が途切れなく続いた。


10月5日(土)
 午前中は雑事&休養。午後から町内イベントで竿灯の演技があるというので観に出かけた。何年振りだろうか。さすがに妙技だと感じる。夕方、親戚の葬儀に参列。ずいぶんお世話になった方だ。闘病中だったが80歳の誕生日その日に天に召された。参列者の多さや顔ぶれから、その多彩な人生が垣間見えた。合掌。


10月6日(日)
 風呂の蓋が汚れてきて、買いに出かけた。家と同年齢だから15年使い続けた。こうした日常生活必需品の値段とはピンキリだなと思う。どう使うか、どう手入れするか等一つの購入にも生活観が滲み出る。廻った三か所の量販店が、それぞれに違う品物を扱い、価格設定も違えている。何事も詳しくみると興味深い。


10月7日(月)
 午前中は孫相手に近所の公園へ。まだ走ってついてはいけるが、数年後は苦しくなるかとつい思う。午後からは、もう一人の孫の予防接種通院の運転手役。待ち時間に近くの某公園に行き、茸を収穫する。ここは一昨年発見したポイント、地元の人は目をつけないようだ。なんやかんやと秋満喫の真っただ中にいる。

歩く、その人生論は…

2019年10月05日 | 雑記帳
 日曜日に最終回だった「盤上の向日葵」というドラマは、主人公がタイトルを賭けた将棋対局の詰めの場面で、「二歩」という禁じ手を打ち、一気に終末を迎える展開だった。それはもちろん単なるミスではなく、過酷な運命に翻弄された挙句の果てと言えるだろう。よく喩えられるが何事も「歩」によって決着する。


 まったく関係ないが、確かめたいことがあって「」を辞書で調べた。「止」の4画で、忘れていたが「左足+右足」の形で左右で踏み出すという会意文字であった。止は左足、少は右足の象形なのである。歩く意味は今さら書くまでもないが、野球用語(四球)でもあるし、辞書によっては「月日・年月を経る」もある。


 そうかと思い、シソーラス(類語)で「歩く」を出してみた。三つに分類される。「歩く」「生きる」「処世」である。なるほど。実際の動きとして「生」に直結するのは「歩く」だよなと思う。齢をとったら転ぶな!ともはや合言葉のように使われているし、身体の不自由な方には申し訳ないが、歩くは生の基本的要素だ。


 歩くが意味するのは「移動」である。それが空間的か時間的かはともかく、移動によって変容することの価値を見つける、それが人生というものだ、なんて急に文学めいてしまった。「あなたの歩き方は見られていますよ」「君の歩んできた道は正しかったか」…こういった比喩表現が、今さらながら重く感じてしまう。


 さて「盤上の向日葵」。唐突に「なぜ二歩は禁じ手なのか」と疑問が浮かぶ。ルールの成立した理由は「認めると優劣がはっきりするから」らしい。人生論的に勝手な解釈をすれば、同じルートを重ねて通ることは避けよか。ただ取られた時や成金となった場合、また何度も打てるわけだからそれもまた暗示的だ。

食べびとの宿命か

2019年10月04日 | 雑記帳
 今となっては手が届かないが、渋谷の駅前に東急がセルリアンタワーを建てた時、JRでかなり格安にパック旅行を企画したことがあった。調べてみたら2001年だ。いわゆる高級ホテルなので、それなりの価格だったけれども、たぶん一番給料も高かった時期(笑)なので、奮発して夏休みに出かけた記憶がある。


 「食べびと」としての絶頂期だったので、ねらいの一つはそのホテルにあるレストランだった。中華の鉄人陳建一がプロデュースした店に関心があった。著名な四川飯店よりは気軽に入れそうな気もした。一つ一つを詳しく覚えてはいないが、コースが「食感」によって組み立てられていることに、強い印象を持った。


 陳を招いた食宴を隣市のホテルが開催したので、少し値段は張るが出かけてみた。地元出身の若いシェフは今、そのセルリアン内レストランの料理長である。師弟共演的なショーと言ってもいい。ミーハー気分もあったが、やはり料理が楽しみだった。全八品もちろん残らずいただいた。でも正直あの頃より感動は薄い。



 18年経ち、そして我が家での中華の味は少し影響を受けているし、当然と言えば当然か。あの頃はレトルトとは言え、陳監修の麻婆豆腐の素も発売されていてかなりいい味を出していた。今回もメインの一つはそれであり、確かに本物の味ではあったが、飛び抜けた感は舌に訪れなかった。これが食べびとの宿命か(泣)。


 まあ、今回参加した人たちは食に興味が高いようなので、初対面でも結構盛り上がって会話も出来たし、良しとするか。味とは純然たる料理のみだけでなく、場そのものの雰囲気も大きいことを改めて知る。陳はTVで見る通りかなりフレンドリーでにこやかな人物だった。そう言えば、この鉄人とも同い年でした。

そうだったのかは繰り返す

2019年10月03日 | 雑記帳
 「そうだったのか」と思ったことをそのままにしておかない。齢を重ねると忘れっぽくなるし、そんなにストックできる物事もなくなるのだから、せめてメモしておくこと。そして頭に入れれば(いや、逆に忘れてしまっていいと思うから駄目との諸説あり)老化防止に役立つ。それ以上に「そうだったのか」は繰り返す。


 子どもの名前が読みにくくなっているのは日常だ。ふりがなをつけていない名前をあれこれ想像してみるのも楽しいことだが、漢字の読みや意味がわからないと難しい。「」という字…見かけたことがあった。音読みは「カ」だと思い、調べるが見つからない。久しぶりの漢和辞典だ。「もみじ」…えっ、そうだったのか。


 当然「国字」だ。「かば」とも読む。ふつう「樺」と書くので花と華という共通点を持つか。解字として「会意。木+花で、葉が花のように色づく木の意から」と記されている。少し単純すぎる気もする。難読語として「椛ノ木」「椛淵」の二語が挙げられている。それらは「のき」「ぐみぶち」と読む。まず読めない。


 植物オンチなので知らないだけかなと思いネット検索してみても「椛ノ木」「椛淵」はどうにもヒットしない。あるにはあるのだろうが、「椛ノ木」は「かばのき」という地名が岩手県にあるのみだ。使用例の無さが妙に思えて検索を続けていくと、「椛」について「2004年に人名に使えるようになった」ことを発見した。


 作ってはみたが広まらなかった。ところが人名漢字として解禁されたので、その字の「珍しさ」「可愛さ」そして和風的なイメージをもとに徐々に表れるようになったわけだ。「椛音」で「カノン」「椛葉」で「ナギハ」「和椛」で「ワカバ」等々命名例があった。今、国字は人名と一緒に根付いていく。そうだったのか。

お金に換えてはいけない

2019年10月02日 | 読書
 何度か書いているが、経済とは「経世済民・経国済民」を略したことばである。「物質・財貨の生産・流通・消費」を指しているわけだが、ふだんは金の遣り繰りや金儲けを端的に言っている場合が多い。人間生活にとってこの大事な概念は言葉そのものが汚れているのではなく、使う人間の考え方によって縁どられる。


2019読了90
『人間の経済』(宇沢弘文 新潮新書)



 著者のことは数年前テレビで特集されたときに初めて知った。数学や経済学に関わる研究者の持つイメージとはかけ離れた印象を持った。放送の内容からも感じたのだが、日本いや世界でも稀にみる学者魂の持ち主と言えるだろう。ストレートに放つその主張は、人間にとって一番大切なことは何かを端的に示している。

「それは、大切なものは決してお金に換えてはいけない、ということです。人間の生涯において大きな悲劇は、大切なものを権力に奪い取られてしまう、あるいは追いつめられてお金に換えなければならなくなることです。」


 誰しも頭でわかっていて、口にするこうした考えを、どこまで本気で実行しようとしているか…それが問われる。著者の提起した「社会的共通資本」とは自然環境だけでなく、教育、医療といった制度を伴うことまで広範囲に渡る。様々な問題の根が「お金」にあることを、私たちは容易に理解できているではないか。


 地球環境に対する若者のアプローチへの賛同も含め、見直してみることはたくさんある。消費税アップの細々した計算より、今この事をお金で済ますべきかどうかの検討がより大事ではないか。お金に換えられない気持ち、その時間を大切にするとは、消費社会に振り回されず経済を動かす主体性を持つということだ。

魂を遊ばせる物語

2019年10月01日 | 読書
 英語などからっきし喋れない今、思い出すのも恥ずかしいが、高校生の頃、訳詞者になりたいと一瞬思ったことがあった。まだあまり外国モノには染まっていない時期なのにどうしてだろう。LPのライナーノーツにある翻訳された詞を格好いいと思ったに違いない。怠け者は予習復習が駄目で成績は散々だったのに…。


2019読了89
『短編集 バレンタイン』(柴田元幸  新書館)


 著者は有名な翻訳家。外国文学に関心はないが名前ぐらいは知っている。中学の国語教科書に短いエッセイがあり、少し興味を覚えた。翻訳者はどんな物語を書くのだろうと。読み初めこれは…と思い浮かべたのは、連載で読んでいる岸本佐和子だ。こちらも翻訳家として著名である。共通しているのは妄想力である。


 翻訳家には妄想力が必須なのだろうか。一つの単語や文章の言い回しから、多様な想像を巡らせ、読者に場面を想起させる的確な訳語を選び出すわけだから、当然といえば当然だ。この短編集の妄想の中味は、現在と過去、人間と間、そして生者と死者の、境目や往来から生じているようだ。そこに種を見つけている。


 この感覚はなかなか味わったことがない。個人的には吉田篤弘の世界に似ていたり、筒井康隆的なイメージも感じたりするが、結局はアメリカ文学の専門家として影響を受けている面があるのか。同世代なので、幼い頃のキャラクター等が登場してきて妙にノスタルジアも感じる。なんとも不思議な文章空間なのだ。


 一種の「パラレルワールド」表現かな。そもそも妄想とは魂の遊びではないかと気取ったことを考える。心の芯の部分が勝手に行先を決めて、経験や過去の出来事を結びつけ、ぐるぐる巻きにして道を作りだしていく。そこで魂がきゃっきゃっと笑えたら最高だ。予定調和的な暮らしに慣れず、もっと魂を遊ばせたい。