すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

連ドラ見逃して3月11日

2014年03月11日 | 雑記帳
 ここ数年、NHKの朝の連続ドラマを視聴している。もちろん通常の時間帯に見ることはできないので、録画である。それも土曜午前のBSでまとめて録っておくというパターンを続けてきた。ところが先週土曜、天候状態が悪く受信できない状態となった。さあ大変、連ドラは見逃すと意欲半減なので、どうするか。



 「五分間でみる今週の~」という番組は知っていた。ネット上にもアップされているので、それを検索してみた。いやあ、15分×6日を5分にまとめる、これは無理があるなあと思ったが、まあ筋は見えた。さらに番組表を見たら深夜に20分編もあるではないか。録画して視聴する。総集編的なつくりという印象。



 20分編を見終わってから、改めて最後の一話(土曜日分)だけの録画を見た。つくづく物足りなさを感ずる。やはりドラマとは筋立てを追っていっても面白さは見えてこないと改めて思う。ディテールにこそ真の魅力がある。『あまちゃん』はもちろんだったが、今回の『ごちそうさん』でもそれは全く変わらない。



 先週は特に「和枝」役の「いけず」演技が見所だったろうし、つくづく残念だ。わずかに週の最終話で迫力あるシーンを見られただけでも幸せか。それにしてもキムラ緑子、なかなかの存在感だ。ドラマが実際の時間感覚で進むことは当然ないが、要所で細かい機微を描くから、日常が浮かび上がってくるわけである。



 唐突だが、震災との関わりについても似たようなことが言えると、ふと考えた。復興の筋立ては大切だ。それを見逃すことはできない。ただそれだけでは駄目だ。日常生活の細かい点にこそ「生」があるのだから。「忘れない」と連呼するよりも、自分の姿勢にどう位置づけていくか、まずその点を確かめる日にしたい。

発明も括約筋も

2014年03月10日 | 読書
 「2014読了」28冊目 ★★

 『生きることの発明』(片山恭一  小学館文庫)


 「初めて読む作家シリーズ」(と気まぐれに名づけてみた)第1弾。

 この人はあの『世界の中心で愛を叫ぶ』だな、という程度は知っていた。
 だが、手にした文庫本の内容は恋愛ものとはほど遠い、自身の体験をもとにした親の「老い」と「死」をテーマにしたものだった。

 『図書』3月号で読んだ、香山リカ×中澤正夫の対談で親の看取りということが出ていてちょっと考えたり、知り合いの介護の問題を聴いたりしたことが重なっていたので、少し切実な思いに包まれながら読み進めた。


 そもそもこの題名に惹かれて手にした著だった。
 内容はその表題作をはさんで、「無限に小さな生」と「括約筋の問題」と題された作品があり、いずれも年老いた実父や義父・義母の生と死を見つめ、自分なりの解釈を試みていると言ってもいいだろう。

 三つの題は、作者の考えや括り方そのものであり、それ以上でも以下でもない。

 本文中から、私がもっとも感銘をうけたのは、次の文章である。

 私たちは個人ではじまるわけでもなければ、個人として終わるわけでもない。人生は未完であり、私たちを超えてつづく。起源においても同様に、私たちは誰かの、何かのつづきとしてはじまっている。


 この認識について今まで思ってもみなかったということはないが、これほど明確に言いきられたと感じたのは初めてである。

 とすれば、生きていくことは些細なゆえに、「発明」が必要であったり、「括約筋」をどう働かせたりするかが、大きな問題になってくる。

 この比喩的な意味に関しては、読んでみなければわかりにくいだろうが、いずれ自分という存在を形作ってきた様々な要素と強い関わりを持つことは確かである。


 モデルとなった作者の実父や義父の固執された言動をみるとき、つくづく自分にはいったい何が残っていくのだろうかと、不安な気持ちになってくるのを否めない。
 つまり、自分には「発明」したことがあったのか、きちんとした「括約筋」の働きを制御していることがあるのか…ということ。


 真摯に身内と向き合いながら、思索しただろう作者の最終行はこう結ばれる。

 死は美しくない。だが死後は美しい。

 この哲学的な表現の前では、ずっと立ち止まってしまう。

歌に心揺さぶられ

2014年03月09日 | 雑記帳
 この番組は何年ぶりだろう…と思いながら,気まぐれに撮っておいた短歌の全国大会の様子を視た。二つ前に勤めていた学校で,結構続けて短歌づくりを進めたことがあって,自分も月刊誌を購入したり,下手なりに歌作に取り組んだりした。またやってみようかなと思わせる日常的な情景が多く見えて楽しかった。


 大会ではジュニア短歌もあって,小学生で選ばれたのはやはり低学年だった。素直に言葉を選んでくる直截さがうまく実っている。ふと,自分が指導した子どもたちはどうだったのだろうと,PC内のデータを探してみた。気張らずに「五七五七七の作文」という形で進めたものだが,それなりの好作品も目に入る。


 さむい朝まきストーブはあったかい
 ごはんをいっぱいおかわりするぞ(2年男)

 さむい朝田んぼはしいんとしているよ
 だれもぜんぜんおきていないよ(2年男)

 夏の夜池にうつったほたるたち
 すずしい光をおくってくれる(5年女)

 コスモスがアスファルトから顔出した
 たくましく強い自分になりたい(6年女)



 この頃,こうした実践に手をかけていなかったので,少し心が揺さぶられる。ただ,歌づくりをやるからには一定期間継続的に進めていくことが必要だと思う。そうなると新年度か。それまでは充電期間ということで,意識的に自作にチャレンジしてみようと一首。「卒業の歌青空に吸い込まれ風立つ道に踏み入る君」

呼気

2014年03月08日 | 雑記帳
 【呼気】(こき)

 体外に吐き出す空気。また、その流れ(広辞苑)



 徳永進というお医者さんが岩波書店の『図書』3月号に、「<呼気>と<吸気>」という文章を載せている。

 「赤ちゃんが生まれて初めてする呼吸は、吸気か呼気か」という一文から始まるが、途中でとても面白い問いを発した。


 吸気は「吸う」で同じ漢字を使うのに、呼気は「呼く」、ではなく「吐く」と記す。なぜだろう。


 さらに、こんな疑問も浮かべている。


 呼気には「といき」という美しい和語があるのに、吸気にはそれに匹敵する和語は見当たらない。


 ちょっと的に当てられた感じで、一緒に考えこむ。
 そもそも「呼吸」という言葉に今まで疑問を持たなかったのは恥ずべきことだ。
 さっそく調べよう。

 そもそも「呼(こ)」の最初の意味は「息をはくこと」となっていて、通常使っている「よぶこと」は次に位置している。

 「気」はずいぶんと広い意味を持つ言葉だが、もちろん「空気・大気」はしっかり一つとしてある。ただ、その分類の括りとして、こんなふうに記されている。

 はっきりとは見えなくても、その場に漂うと感ぜられるもの。


 漢和辞典や常用字解などを見ても、どうして「呼ぶ」が「吐く」ことになったか明快な説明は見つからなかった。
 ただ「呼ぶ」の「のどを開いて、はあと大きい声を出す」という行為は、必ず息を吐くことを伴うわけだから、ごく自然なのかもしれない。

 そういう点を考え合わせると、息を吐くことは、自分の周囲の「気」を集めようと呼びかけている行為だと勝手に解釈も出来上がる。

 そして、「吸気」によって、「気」を体内に取り込むわけである。


 多くの呼吸法で、呼気の長さが強調される。
 それは、その場に漂うものに呼びかけている行為なのだと信じれば、長くゆっくりと吐く意義づけとしてはかなりユニークだ。

 もっとも、その中に「ため息」も入ってしまうわけで、これは周囲に助けを呼んでいることかと、また勝手な解釈をしたりする。


 さて「吐息」に対する語として「○息」を、ずっと考えているが、なかなかびんとくるものがない。
 仮に「入」「容」など考えてみるが少し単純すぎるか。
 ふと「包」もいいかなとも思ったが、いずれにしても読みがさえない。


 くだらぬ思考をする間も呼吸は続く。

 平均8億回といわれる、呼気と吸気の繰り返しによって、どんな気が自分と外を行き来するのか。

 それをたまに思い出して、意識して行うことは、間違いなく大切だと言えないだろうか。

銘のエネルギーを見出す

2014年03月07日 | 読書
 「2014読了」27冊目 ★★

 『座右の銘』(森村誠一  ハルキ文庫)

 著名な推理作家であるが、作品は読んだことがない。
 ただ『写真俳句のすすめ』という文庫は読んだ記憶があった。
 感想メモを残していた
 

 それから、関係ない話題だが、遠い昔に新幹線の中でこの作家を見かけたことがある。
 「おっ、森村誠一だ」と著書も読んでいないのに思ったのは、結構マスコミに露出しているからだろう。
 もちろんかの『人間の証明』の原作者であることは知っている。

 この本は、著者の多方面への博学ぶりを示している。
 私も結構「座右の銘」好き?で、名句・名言の類は目にしているつもりだが、様々なジャンルから構成されていて、目にしていた言葉は三分の一ぐらいだろうか。


 まえがきに著者はこう記している。

 人生のキーワードにはエネルギーがなければならない。そのエネルギーがよくも悪くも人間のエネルギーとなるのである。

 数多くの名言・名句に内蔵されているエネルギーを、人はどんなふうに発見できるのか、という問題になるだろう。
 限りなく偶然性の高い、邂逅のようなものにも思える。
 しかし、どちらかと言えば、自信満々である状態ではめぐり逢う要素は低いと考えられる。
 悩んだり弱くなったりしている心が言葉を求め、そこにエネルギーを見い出すからこそ、それを座右に置くと決めるのであろう。


 さて、いつも心の弱い自分は、いろいろ探し回ってるが、エネルギーを見出すところまでいっているのか…。
 あるいは、座右の銘があまりにありすぎて、整理できずにてんてこ舞いなのか。

 この本を読んでも、ぐっとくるものは少なくない。
 あえて、一つ挙げれば、冒頭にある『新定源平盛衰記』の一文が心に残る。

 時の花をかざしの花にせよ

 自分の「かざし」は何かを考えたりする。


 さて、もう一つ、これもある意味座右の銘にしたい話がある。。

 別の本で読んだことである。
 あの「ガッツ石松伝説」の一つであろう。


 ガッツが「座右の銘は?」と問われて「1.5」と答えた。


 (ぱっと笑えなかった人のために…「ザユウのメイは→サユウのメは」)

薬玉

2014年03月06日 | 雑記帳
 【薬玉】(くすだま)

 ①5月5日の端午に、不浄を払い邪気を避ける具として簾や柱に掛け、また身に帯びたもの(以下略)
 ②式典・運動会などの際に用いる、①と同形の飾り物。



 常識なのかもしれないが「くすだま」の漢字書きは「薬玉」ということを、調べて初めて知った。

 この時期、例えば卒業生を送る会などでは、結構登場する頻度が高い物品だろう。

 それを考えると、くす玉の中に入っているものはまさしく「薬」。不浄を払い邪気を避ける、つまり、様々な色の糸や紙片にはその意味があると考えられる。

 どんな薬か。

 それは紛れもなく、新しい旅立ちにふさわしい、人を元気づけるものだろう。
 そして旅立つ人にも、見送る人にも、まんべんなく降りかかるようにセットされてあるということだろう。

 なんと意義深いことだろうと、今さらながらに考える。

 そんなことを「六年生ありがとう集会」で紹介しようかなと思ったら、本校は「くす玉」ではなく「たれ幕披露」だけでした(笑)。
 しかし、そこにも色とりどりの紙片があったので、ちょっぴりふれてみた。

 年に一度のこの時こそ、薬玉の精神は噛みしめたいと思う。


 ちなみに、薬玉のことを「続命縷」「長命縷」ともいう。

 「命を続ける糸」ということだろうか。

 互いに喜び合い、認めあうことは、糸を絡み合わせることにも似ていて,それは細くとも永遠にあれという願いに通ずる。

平凡な一日の仕事日記

2014年03月05日 | 雑記帳
 こんな日は仕事日記を残しておいてもいいかなと…

 朝の出勤はいつも通り。7時半前には学校に着いて,即街頭指導。天気予報では雪マークがついていたが,降りだす感じはない。今日も「塩」がわりに「おはよう」の声を振りまいてやる。

 今日の朝の全校活動は縄跳びであるが,昨日の「六年生ありがとう集会」の感想を頼んでいた二人が持ってきたので,それを確かめながら顔写真を撮ったり,訊きながら言葉をつけ足したりする。

 一時間目は,六年生の教室に行ってミニ道徳。先週から5回連続で行っている。単純に10分ほど話をして感想やふりかえりを書くだけのパターンであるが,やり続けていくと,少しずつ手応えを感じる。ちなみにテーマは順に「自分に克つ」「リアクション」「強く願う」「のりこえて,許す」そして,今日は「人としての訓練」。実はこの並びには仕掛けがあり,この後の大事な時に使う予定。

 もどって,昨日から取りかかっていた学校報を完成させる。昨日の集会の写真と,朝に持ってきた六年生二人の原稿で構成する。ホームページの「活動記録のアルバム」コーナーに,集会の写真と説明を書きこむ。

 職員室の黒板をみると,特別教室や体育館の「予約」が目立つ。仕上げなければいけないことが目白押しだ。3時間目は校内巡視をしながら,5年生の図工(木版画)と1年生の体育(鉄棒運動)をデジカメでパチリ。「今日のにこきびどん」として,ホームページに先ほどのアルバムと一緒にアップする。

 給食後,今日こそ取りかかろうと思っていた卒業証書の氏名等清書をスタートさせる。下準備(氏名確認や手本打ち出し,基準線引きなど)は前日にしておいたので,いよいよ墨書ということになるが,毎年やっているとはいえ,これが結構緊張する。いつも最初はあれこれ悩みうまくいかない。ええいっ,ままよという気持ちで書き進めると,結構いい字ができたりする。

 このままで突っ走ろうと思い,ペースを上げて,3時過ぎの会議まで目途をつけようと思う。そこへ,某学級担任から数人の児童への個別指導を依頼され,少し中断。学年末の大切なことなので,ここは短いけれどしっかりと話す。

 3時10分より,年度末恒例の会議&先週時間不足で検討できなかった次年度への改善事項の話し合い。道徳の副読本の話題なども出た。意外に早く1時間ほどで終了。証書の氏名書きの残り数人を仕上げることができた。

 机周りを整理して,17時頃に退勤できた。帰ってから行きつけの本屋により,自分の誕生祝として,あえて今まで読んだことのない作家の文庫本を3冊買う。今月中には読み切りたい。

無垢

2014年03月04日 | 雑記帳
 【無垢】(むく)

 ①煩悩を離れてけがれのないこと
 ②心身の汚れていないこと
 ③まじりけのないこと
 ④表裏を同質同色で仕立てた着物(広辞苑)



 かつては「子どもは無垢な存在だ」と言われていた。
 しかし、今その言葉をそっくりと受け止める人はそういないだろう。

 小学校入学を例にしても、多様な家庭環境の中で、また進みゆく社会変化の影響をうけながら、子どもの心身は結構な色に染まった形で姿を現す。


 その色は「行動基準」と言い換えてもいいかもしれない。
 その行動基準は、集団生活で許されることなのか。
 他者と折り合いをつけられるものなのか。

 そんな観点で、学校での指導はされているだろうが、以前とくらべ明らかにその色は多彩になって見えるのは私だけだろうか。


 そういえば、と思いだしたのが4年前に前任校の入学説明会でちょっと話したこと。テーマはこのブログにも載せていた。

 24色のランドセルの時代

 今はさほどではないのかもしれないが、いずれ消費者のニーズ(誰のニーズなのか)とやらに合わせた展開はしているだろう。

 しかし少し考えてみると、その様々な色に目を奪われないことがより肝心な気がする。

 ランドセルはどんな色をしていようが、中身を深く覗きこめばきっと似たり寄ったりしている現実がある。
 そうした空っぽのランドセルの中にこれから何を注ぎこむか、である。

 私たちは子どもに対して無垢な心で接するなど、到底できることではないが、ある意味では、リフレッシュして無垢な状態にしておくことで、外見にとらわれない見方ができるのではないか。

 そんな心がけが必要に思えてくる。

その行先は目指していた処か

2014年03月03日 | 雑記帳
 ストーリーを残して,スペックなどの情報を削っていく。
      ~ガー・レイノルズ(関西外国語大学教授)


 「プレゼンの神様」と称される人らしい。
 その極意の一つ目のステップとして「何を省くか」を考えるのだという。


 例えば,PTAなどの機会に話すことも一つのプレゼンと考えると,自分はどうやらスペックの方に重きを置いていたような気がする。

 かつて向山洋一氏が学級懇談等の場での教師の話について,保護者が「メモをしたくなる」というポイントを提示した。ひどく納得したし,そこで数字やキーワード等を重視して組み立ててきた。

 今改めて振り返ってみると,ずいぶんとスペック的な話になっていたのではないかと反省させられる。

 目的や方向性を語らなかったわけではないが,それを物語として構成してみる意識が足りなかったようだ。

 それはきっと例えば日常的な子どもや職員のどういった言動に目をつけているかということにも通じている話で,仕事の根本を成している。
 
 俯瞰的に見直して,一年間を締めくくらねばと思っている。

ああ「美の国」

2014年03月02日 | 読書
 「2014読了」26冊目 ★

 『秋田県謎解き散歩』(野添憲治 編  新人物文庫)


 秋田県についての「トリビア」的な中身はともかく、何度か出てくる「美の国」が妙に目に入った。

 このキャッチフレーズは、やはり本県のものと認知されているらしい。
 「美の国」で検索するとほとんど秋田関連である。
 「美ノ国」が日本ハムというのも笑わせるが…。

 ちなみに、47都道府県のキャッチフレーズがこちらに。

 「美の国」…なかなかいいフレーズだと思う。
 ただ、自分が住んでいる県の何を「美」と思うのか…そんなふうに住民に意識づけしているか、これは大事なことのように思う。


 本県では長く「ふるさと教育」を提唱し、地域に根付いた教育活動を推進してきた。総合が始まった時であっても、それは揺らぐことがなかった。
 今、なんとなくそのことがあまり言われなくなったのは、いわゆる「学力向上」の面で目立つような位置づけが重くなったからだろうか。

 人口減少が著しく児童生徒数が維持できず学校統合が進むなかで、学区が広がったときに、その教育の趣旨を浸透させることは、特に小学校であれば困難さが増しているのかもしれない。

 表面的には事業や活動が継続していても、そこに込められる思いの部分が薄められることは避けられない。
 ここは大胆な発想の転換、切替が求められているのではないか。

 と、なんとなく行政バージョンになりそうなことまで及んできた。

 要は、成長したときでいいから、「美の国あきた」の何が美なの?と問われて、ありきたりのモノではなくて、本音できっちり言える子を育てたいという単純なことだ。


 それにしても、面白い一言を見つけてしまった。

 美の国は道徳の世界よりも広大である。

 な、なんと「YOUNG  YAKUZA」というフランス映画のセリフだそうである。現役ヤクザを描いて、日本では公開されていない作品のようである。

 なんとなく意味はとらえられる。

 すごいなあ「美の国」。いろんな意味で…。